星とともにたーまやー。花火を讃える声が遠雷のように微かに夜に響く。猗窩座に手を引かれ煉獄が辿り着いたのは、人混みから遠く離れた林のなかだった。僅かに途切れた木々の隙間からは、夜空と花火が切り取られてよく見える。その癖、辿り着くまでの足場の悪さも相俟って人気はない。言ってしまえば穴場というものだった。
猗窩座がわざわざ花火の為に穴場を調べるような男ではないと知っているからこそ、素直な感嘆が口をつく。
「凄いな。よくこんな場所を知っていたな、猗窩座!」
「偶然だがな」
しれっとし顔のまま淡々と返る声にはやはり得意気な響きはない。事実、猗窩座がこの場を知りえたのは単なる偶然でしかなかったからだ。その程度は説明するまでもないと、隣り合い柔らかに生えた草の上に浴衣が汚れることも気にせず腰掛けて花火を見上げる。
繰り返し広がる、全ての音を塗り潰すような音と、夜空を明るく彩る光の華。その華やかさは祭で買った面を隔てようと、煉獄の目には隣りにいる恋人の存在もあってか一層心踊る光景として映し出された。
とはいえ猗窩座としては少々面白くはない。はしゃぐ煉獄は愛らしいし、ここへ連れてきたのも己だが、その目が此方を捉えていないことに何故かどうにも胸がざらつく。不快と呼ぶには弱い、淡い独占欲と、愛らしさに湧いた欲。それらを込めて、つと名前を唇に乗せ、此方へ視線を引き戻す。
「杏寿郎」
口付けを乞うように、振り向いた煉獄の顔を覆う狐の面……そのつんと尖る鼻先にそっと額を寄せる。
「──キスがしたい。外してくれ、杏寿郎」
息を飲む音が微かに伝わり猗窩座は唇を緩めた。そう、この反応が欲しかった。
面の下で頬を熱くする煉獄にとっては、あまりに唐突に過ぎる呼び掛けである。唇を奪うでもなく、ただねだるだけ。その甘さに息が詰まる。
「き、君が外せばいいだろう!」
「いや、杏寿郎に外してほしい」
ねだる素振りで、ねだることを求められる。おまえからも求めろと、美しい石楠花の睫毛に縁取られた満月が乞うていた。
遠く、遠く、耳に心地よい破裂音を伴い花火が咲いて、ぱらぱらととりどりの光が降る。
羞恥に躊躇いながらゆっくりと面を外す煉獄に、ふわりと猗窩座の顔が綻ぶ。天の華よりも地に咲く華に目を奪われる事が気恥ずかしく煉獄が瞳を伏せれば、追うように猗窩座の手が伸びた。頬を捉え、やわやわと掌に愛しまれ、先を示すように唇を甘くなぞられればぞくりと背筋が震える。
「ぁ、あか……──っ」
落とされた唇は、燃えるように熱かった。
花火に照らされた顔が、閉じ損ねた煉獄の瞳に映る。いつも少しばかり青ざめて見える猗窩座の肌が、花火の色を映して夜を思い出させるような仄赤さを湛えていた。慌てて瞳を閉じれば、猗窩座の唇は一層深く重なり舌が咥内を甘く這い回る。
いつまで経っても、何度こうして唇を、或いは肌を重ねようと初な反応を示す煉獄が、猗窩座にとってはどうにも可愛らしくて仕方がない。乱れる吐息を飲み込み、代わりに舌を絡めて唾液を送り込めば素直に応える癖に、いつだって頬をあまい林檎の色に恋染めて眉は戸惑うように寄せられるのだ。口付けだけでひくりと跳ねる身体に、誘われるように手のひらが肩を滑り浴衣をはだけさせようと不埒に動く。
が、そう易々と猗窩座の思い通りになってはくれないのがこの男だ。
遠慮のない拳が脳天へと振り下ろされ、下手をすれば舌を噛むぞと内心ぼやき、あまりの痛みに不埒な手も渋々止まらざるをえない。
「……何をする、杏寿郎」
痛いじゃないかと殴られた箇所をさすりつつ悪びれもなく言い募れば、花火の明かりなどなくとも夜目にもはっきりと赤く染まった煉獄の頬が目に入る。怒りとも羞恥とも取れないその激情、煉獄のその鮮やかな感情はいつでも愛しく猗窩座の目には映るので制止になどなりはしないのだが、煉獄自身は知らぬままだ。
「何をするは此方の台詞だ!外だぞ!!」
慌てて浴衣の前を合わせながらそう声を荒げれば、意地の悪い笑みが猗窩座から返される。
「そう大きな声を出すな、杏寿郎。誰かに気付かれるぞ。……ああ、それとも気付かれたいのか?」
「っ、違う!」
「残念だが、誰かに聞かせるつもりはないがな」
振り払おうとした腕が取られる。意地の悪い笑みのままのし掛かる猗窩座に、どうしてだか抗えない。否、単純な力で言えば抗うことは可能だろう。煉獄とて人並み以上に鍛えてはいるのだ、先程のように痛みで気を反らす手とてある。
それなのに、抗えない。膝を割られ、胸元をまさぐられ、内腿に舌を這わされてなお、脳内でぐるぐると言葉を踊らせながら鼓動を早くするばかりなのだ。それどころか乳首はぴんと立ち上がり、肌はしっとりと汗ばみ猗窩座の手を捕らえるように吸い付く始末。
聞かせるつもりはないと言うのであれば、帰ってからすればいいだろう。喉に張り付くばかりの言葉で、吐息さえも甘く詰まる。乱れた呼吸の最中にようやく吐き出せた言葉は、猗窩座を止めるためと言うにはあまりに力ないやわらかく蕩け始めたものだった。
「……昨日も、あんなにしたじゃないか」
きょとん、と猗窩座の顔が幼いほどに無防備なまま固まる。一瞬の空白の後、音が爆ぜる。
「……っ、ふ、ははは!」
「何がおかしいんだ!」
「ふふ、あー……、いや、そうかそうか。杏寿郎はそんなに昨日の閨事が気に入ったか。今こうして触れられて思い出すほどに」
「ち、違う!!」
呵々と無邪気に笑い、笑いを収めてなおどこかにんまりと満足げに見える表情で、昨夜の情交の名残を指でなぞって笑う己の男に、言った煉獄こそが焦った。
全く過らなかったのかと言えば嘘になる。ならば昨夜の情交は気に入らなかったのかと問われても否とは決して言えない。真っ赤なまま慌てて言葉を探せど、猗窩座とした全てが鮮やかでひとつたりとて忘れる間すらないのだなどと今この場でどう伝えれば夜の気配を孕まず伝えられるのかが分からない。反論しようにも出来ずに唸る煉獄の胸元に、ふと猗窩座の頭が寄せられる。ぽふりと優しく寄せられたそれは、色を含まないじゃれあうような動きだ。
「……何だ」
「──いや、これが幸福というものかと噛み締めていた」
男の胸に顔を埋めて何を言い出すんだという言葉は、猗窩座からふわりと漂うやわらかな空気の前に萎んで消えた。仔猫のように一度頭を擦り寄せ、心臓の真上に唇を落として愛しむ様に、いっそ抱き寄せてしまおうかという思いが煉獄の頭を過る。
猗窩座とて、煉獄の言葉が何を含むでもなく単純に情交から昨夜を思い出したことなど分かっている。分かっているからこそ、愛しい。止めろでも嫌だでもなく、昨日もしただろうなどと窘める響きで言うばかりなのだ、この男は。太陽のように快活な男らしいという言葉が誰より似合うような好青年のくせして、猗窩座が色を乗せて口付けを交わし指先で肌をなぞるだけで蝋燭の焔のようにあえかに揺らめいてみせる。この男の肌に、瞳に、記憶に、己という存在が溶けない根雪のように存在している、その事実が、たまらなく幸せで、いとおしかった。
「よし。やはり抱く」
「なぜそうなった!!」
するりと捕らえた脚を撫で上げれば、荒げたばかりの煉獄の声も甘く蕩ける。花火の明かりに照らされながら、人が通るかもしれない外で、拒絶されてもおかしくはないというのに。それでも煉獄が許すから。だから猗窩座はどんどん強欲になってしまうのだ。
記憶に焼き付く夜がたった一夜では到底足りない。花火のように散らせはしない、ほんの一瞬で終わる瞬きなど望んではいない。ただその燃える炎の瞳の中で、永遠になるほどの夜を重ねたいだけ。だからこそ記憶に焼き付くまで、何度でも、何度でもその身を貪ろう。
「──愛している、杏寿郎」
余裕の消えていく猗窩座の顔が、花火の逆光のなか、煉獄の目に焼き付いた。
了