ゆめでした ボツ分「まだ八月なのに金木犀が咲いている……」
いや、秋分は過ぎているのか。この宮に辿り着いたとき景麒の新しい主はそう呟いた。蓬廬宮の門をくぐり程なくして現れる丹桂宮。
「蓬山は常春ですから、花はなんであれ普段から咲いています」
「へぇ。不思議だな」
そうは言うが驚いた風でもない、どこか平坦な声音からなにも読み取ることができなくて景麒は粛々と後に従う。女仙たちが新たな王を迎え華やいでいる様子を遠い景色のように感じた。口々に告げられる、お慶びを、の言葉に戸惑っている若い主。赤髪があまりに鮮やかで目に焼きつきそうだった。
王のそばにあることは確かな幸福であるのに、どうにも落ち着かない。
その理由は分かっている。
「お疲れでしょう。紫蓮宮も用意してございますが」
結局、よく見慣れた顔の女仙がそう言ったのを機に景麒はその場を辞した。会う女仙ごとに道を教えられる。景麒が紫蓮宮へと逃げるのは分かっていたのだろう。歩きながら、王の姿を脳裡に描いた。主上は胎果であらっしゃるのでくれぐれも頼むと申しつけると、女仙たちはもう聞きましたよとくすくす笑った。細い空から陽が射していた。
水音。紫蓮洞に湧いた水が流れている。懐かしいと言うよりは、まだ親しみがあると表現する方がしっくりくる紫の蓮を景麒は眺める。女仙が寄って集って鬣を拭き、整えている。水を浴びて黄海の乾いた砂を落とす間にも、麒麟の頭が主上もそうしているだろうかとぼんやり考えた。麒麟の性は身体の隅々にまで行き渡っている。それこそ血液のように。だから、躊躇うとするならこれは心なのかもしれないと思った。天啓に跪くしかできないにも拘らず己のどこかは疎み迷う。
花の香りに導かれて景麒は顔を上げた。ため息をひとつ。王気が動いているのを、岩壁など無いかのように紫の瞳は見つめることができる。衣を改めなければと思った。それは王に会うという意味だと景麒は気づく。こんなに胸は苦いのに、自ら離れたのに、気づいてしまえば堪えられなかった。
「主上」
と、景麒が呼びかけると人影は振り返った。赤色が光を含んで宝玉よりも輝いた。
「景麒」
「なにをなさっておいでですか」
「散歩。どんな花も咲いていると言うから、ほんとうかと思って」
黄色の花を見つけたけれど、本来の花の時期が分からなかった。陽子がそう苦笑するので、
「紫雲英なら、ご存知ですか。確かこの近くに」
思わず景麒は口にする。
「四月の花だ。案内して」
芥瑚の声に道を訂正されながら川辺に出る。桃色に近い紫の花がいくつも緑のなかに浮かんでいた。紫雲英が茎を這わせつくった絨毯は景麒の記憶よりもややちいさい。それでも主は喜んだ風に指を花に触れさせる。
「懐かしいな。花輪をつくってもらったことがある」
言葉にしてから、陽子はなにを言ったのか気づいてしまう。胸を衝かれた。しかし、痛みを堪えるような顔をしたのは景麒の方だった。
「どうした?」
「いえ、主上。……約束を覚えておいででしょうか」
陽子が目を瞠る。このようなときでもやはり、宝玉よりも美しいと景麒は感じる。自身がどのような表情をしているのかも分からずじっと主の答えを待った。身体の輪郭を見失いそうなほどの緊張に彼が捕らわれているなか、陽子は薄く笑った。
「そんな顔するんだ。……覚えているよ」
静かにやさしげな声。陽子は景麒を手招いて座らせて、花が微風に揺れるのを見やる。
「景麒は花輪をつくれる?」
「幼い頃、女仙に習いました」
「そうか、景麒はここで育ったんだ」
景麒は首肯して、そっとやわらかな茎を手折る。ふたつ花をまとめて持ち、手折っては花を添わせ茎を巻き、景麒が手のなかのささやかな仕事を彼女に見えるようにすると、王は次の花を摘んでくれた。
「麒麟がなる木があるの?」
「はい。捨身木と言って、蓬廬宮の奥に」
「女仙が帯を結ぶ?」
「麒麟は前の麒麟が登遐すると自ずとなります」
「やっぱり、不思議」
彼女が呟く間に花輪は仕上がって、景麒の手は持て余す。麒の大きな手に可愛らしい花があるのが似合わず、仕草に躊躇いが浮かぶ。それを少女の手が軽く攫っていった。薄く微笑むような眼差しを花輪に注ぐ。
「天勅を受けたら、ほんものの冠があるわけだ」