マグカップ「歌姫、これ使って」
後ろからにゅっと五条の腕が伸びてきた。流しの下にしまってあるやかんを取り出そうとしている庵に、黒い無地のマグカップを差し出している。
「何それ」庵は問うだけで、振り返らない。
「マグカップっていうんだよ。取っ手つきで、大きめのカップなんだけど、見たことない?」
「見るどころか持ってるわ。そこ聞いてんじゃないのよ」無事にやかんを取り出して立ち上がる。「なんでそんなものが出てくるの。まさかマイマグカップ持ち歩いてるってわけじゃないでしょう?」
「持ち歩くならタンブラーにするよ、さすがに」五条も立ち上がって、庵の横に並んだ。
ざあざあとやかんに水を注ぐ間、聴覚の注意が水の音に引っ張られるのを感じる。それを分かっているのか、五条は言葉をいったん切った。重くなったやかんをコンロにのせて火にかければ、台所に静寂が戻る。
「新しいマグが欲しくなって買ったんだ」五条は戻ってきた静寂を逃さず会話を再開した。「だから歌姫のとこで使おうかなって」
「『だから』のところを説明してよ。全く接続してないから」
五条が持ち込んだ箱は、近くのケーキ屋のロゴが入っていた。アップルパイがおいしそうだったんだと言っていたからには、アップルパイが入っているのだろう。茶葉はアッサムに決めた。茶葉を作業スペースに用意。
冷蔵庫へ向かうと、五条もついてくる。ドアを開けて牛乳を取り出す間も後ろから覗き込まれた。五条を引き連れたまま、先の収納から片手鍋をピックアップする。
庵の両手が埋まったので、食器棚のティーポットは五条に取ってきてもらう。大きめのポットのはずだが、五条の手に収まるとそうでもないかもしれないと思える。この男は体躯も規格外なのだ。
「うち、もうマグあるんだ」
「そりゃあ、さっきの言い草じゃあるでしょうね。両方使えばいいじゃない。どっちか学校に持ち込むとかして」
「それはそう。でも、歌姫んちでいつもお客さん用カップ出されるの思い出したら、これだ!って」
「『これだ』って?」
説明を促しつつ、ポットに茶葉をスプーンで放り込む。ちょっと多め。
「歌姫んちに僕専用で置いとけばいいんだ、って」
「全ッ然納得がいかない」
庵はついに五条に向き合って、その手から黒いマグカップを取り上げた。ころりと丸みのあるフォルムで、低めの重心に安定感を覚える。シンクで軽く洗って、布巾で水気を拭った。
マグカップを作業スペースのポット横に置いてから五条を見やると、彼は庵がカップを取り上げたときの姿勢のまま固まっていた。しゅんしゅんとお湯の沸いたやかんが立てる音と相まって、間抜けな姿だ。
「……何よ」
「いいの?」
サングラスで目元が見えず、表情が読みづらいが、珍しいものを見ているなと庵は思った。心なしか血色がよく見える。これはたぶん、ちょっと喜んでいる。
「使うから洗ったんでしょうが。とりあえず、お茶はこれに入れるわよ」
庵はコンロに向き合って五条から目を逸らした。あくまでも、作業の続きに取り掛かるために。
牛乳を鍋に入れてトロ火にかけた。やかんの火は止めて、手早くティーポットにお湯を注ぐ。ついでマグカップにもと思ったところで自分のカップを持ってきていないことに気づいた。五条に頼もうと振り返ると、庵と向き合った五条の手には白いマグカップがあった。見覚えのある形だ。
「これは歌姫用」
五条はカップを両手で顔の横に持ち上げている。そして、おそろい、と首を傾げた。やっぱりか。ダイニングテーブルに置きっぱなしになっている、使い慣れたマグカップは諦めることにする。
「みだりに増やすな。使ってほしけりゃ洗いなさい」
はーい、と返事だけはいい子で五条がシンクに向かう。彼がスポンジを手に取るのを横目に、庵は片手鍋の様子を見つつ黒いマグカップにお湯を注いだ。
「僕のとこに置く分は歌姫が選んでいいよ」
五条の言葉はマグカップを洗う水の音で聞こえなかった、ということにしておく。
(2111180320)