呼び方「歌姫、次に僕のこと『アンタ』って言ったら罰金ね」
「何言ってんのアンタ」
「はい罰金〜」
小学生みたいなこと言ってんなこいつ、と思いながら、家入はロックグラスをあおった。ウイスキーの風味が鼻に抜ける。実際、居酒屋の個室にいながら五条の手元にあるのはオレンジジュースの入っていたグラスだ。彼が一人だけお子様なのは確かだった。
その五条の向かい、家入の横に座る庵はグラスを握りしめて、ビール瓶に手を伸ばしていた。すかさず家入が瓶を手に取って、ぐいぐいいきましょうと庵のグラスについでやる。ビールを受けるグラスの傾きを調整する庵とビールを注ぐ高さを調整する家入の息はぴったりだ。グラスはみるみるうちに素晴らしい比率の黄色と白で満ちた。
家入は五条に視線を送って、どうだとばかりに口角を上げて見せる。む、と口を一文字にした五条は、卓を指でトントンとたたいて「あのねえ歌姫」と庵の気をひいた。
「僕、五条悟くんって名前なの。よろしくね」
「知ってるわよ」
それだけ言って、庵がぐいっとグラスをあおる。半分ほどを飲み込んで、ぷは、と息を吐く彼女には見事な髭。口元に頓着もせずビールをぐびぐびといくさまは、昼間の品行方正なしゃんとした姿からは想像できない。
家入が酒の品書きを手に取る。それを見た庵は傍に置かれた店員の呼び出しボタンをピピ、と押す。さらに彼女は五条のグラスが空であることにも気づいて「アンタもお代わりするでしょう?」と品書きを手渡していた。五条も「飲むけど」と受け取る。
「歌姫って僕のこと、全然名前で呼ばないよね。硝子のことは硝子って呼ぶくせに」
「硝子は硝子だもの。ねえ硝子!」庵がグラスを持ち替えて、家入の肩をぐいと引き寄せた。
「そうですね歌姫先輩」家入も肩を組み返して、庵の肩をぎゅうと抱く。
「ちょっとそこ、イチャイチャしないで。不純交遊!」
五条が腕を伸ばして、品書きを庵と家入の間にずいと差し込んできた。「不純なんかじゃないもーん」「美しい友情、人情ですもんね」と二人で言い返してやれば、五条は大袈裟に口元を歪めながら品書きを引き揚げる。
「七海や伊地知、生徒たちのことだって、歌姫はちゃんと苗字なり名前なりで呼ぶだろ。はい、僕は?」
「『アンタ』」
「ほら、不公平でしょ! 僕は歌姫を名前で呼ぶのに」
「アンタが私を名前で呼んでるのだって、おかしいことでしょう。いいかげんに庵先輩と呼びなさい」
庵が言い返したタイミングで、店員が伝票片手に顔を出した。焼酎ロックとカルピスをそれぞれ一杯、ついでに焼き鳥串三種類を六本ずつ注文した。
「歌姫は歌姫なんだから『歌姫』でいいの」五条がスライストマトの最後の一切れを箸でつまみ上げる。「でも僕は『アンタ』じゃなくて五条悟なの」
「じゃあ、『五条悟』にする?」
「フルネームかよ」
庵は「五条悟なんでしょう」とホッケの身をほぐしている。よけた骨の置き場に家入が適当な皿を渡そうとすると、すでに五条が空いたスライストマトの皿を差し出していた。
「でもフルネームって長いのよね。だから、やっぱり『アンタ』」庵は腕を伸ばして、骨を乗せた皿を個室の入り口へ置く。
「フルネームより短いって理由なら、別に『五条』でもいいよね。『悟』でもいいくらいだよ。ゴジョウもサトルもアンタも三拍で、何も変わらないじゃん」ほぐされてホクホクと湯気を立てるホッケに、五条が箸を伸ばした。「いっつもアンタアンタって、そんな呼び方じゃ誰のこと言ってるのか分かんないしさあ」
「私がこんな呼び方するの、アンタだけよ」
お待たせしましたあ、と戸が開いた。焼酎とカルピスを店員が差し出すが、一番近い五条が動かない。庵が中腰になって店員に対応する背後で、家入は五条にだけ届くように言った。
「君だけ特別なんだってさ。やったじゃん」
「……アンタだけよって、もっと違う場面で聞きたいんだけど」
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