おいしい 会計を済ませた庵はアラーム片手に、店内の至る所から視線を集めるテーブル席へ向かった。
無数のまなざしがちくちく刺さるのは、恵まれた体躯と整った顔立ちと珍しい色味をたたえた後輩——五条の容姿か、テーブルの上に山と積まれたバラエティー豊かなドーナツか。前者は普段から人々の目を集める要素だが、今この瞬間はどちらかと言うと後者が原因であるかもしれない。
庵は一瞬、席につくことをためらってしまった。
「何してんの、歌姫」
「いや……なんでもない」
ウェットティッシュで手を拭う五条に促され、しぶしぶ彼と向かい合わせの席に着く。目の前の山から漂う甘い香りに鼻腔の奥を殴られたような心地になりながら、アラームをテーブルに置いた。
「ピーピー鳴るやつじゃん。歌姫、何頼んだわけ?」
「担々麺」
「担々麺? ドーナツ屋で? 担々麺だけ⁉︎」
五条はドーナツに伸ばしていた手を止めた。形のいい眉をひそめてサングラス越しに庵をじろりと数拍見据えてくる。それから目の前にそびえる甘味の山を見つめたかと思えば、山をその長い腕で囲った。
今度はこちらが尋ねる番だろう。
「何してんの、アンタ」
「いや……これ全部俺の分だから。歌姫の分とか一個もないから」
「後輩にドーナツたかるわけがねーんだわ!」
ついテーブルを両の手でたたいてしまった。ドーナツがいくつか山から崩れ落ちる。やばい、と目で追ったが、なんとか皿から滑り出る前に踏みとどまってくれたので胸をなでおろす。
ほ、と息をついた庵の向かいで五条も、はあ、と大きく息を吐き出していた。
「ここドーナツ屋だぜ、まじ信じらんねえ……ドーナツ屋でドーナツ食べないとか意味分かんねえ……」
「そのドーナツ屋が提供してくれてるメニュー頼んで、なんの問題があんのよ。アンタのその山盛りのドーナツだって私からしたら意味分かんないっつの」
「問題だらけだろ。担々麺はラーメン屋行けよ〜、ドーナツ屋ではドーナツ食えよ〜」
庵にとっては言いがかりでしかない五条のぼやきを聞き流しているうちに、手元のアラームが呼び出し音を鳴らした。
どんぶりを受け取って一度戻るも、水が欲しいなと再び席を離れる。紙コップ二つを持って席に戻ると、五条はドーナツにかぶりついていた。
一口が大きい。ゆえに彼の食べっぷりは見ていて気持ちがいい。とはいえ目の前の甘味の山は見ているだけで庵に胸焼けをもたらすものだから、現状ではプラマイゼロだ。
もぐもぐとドーナツにありついている五条は庵の差し出した紙コップに目をやって、んー、と意図の読めない声を上げた。少なくとも礼ではないはずだという確信だけがある。
庵が箸を手に取り麺に向き合えば、胡麻の香る湯気の向こうで五条が食べかけのドーナツを真っ二つに割るのが見えた。コーティングされたチョコレートがぽろぽろ落ちる。内心あーあーと眺めているうちに、五条の右手はあろうことか庵の担々麺へと伸びてきた。
チョコドーナツをひとかけ、つまんだまま。
「おい馬鹿ドーナツをのせるな。つーかそれ、アンタの食べかけじゃないのよ」
今度は庵の腕が、どんぶりを囲ってかばう。
「歌姫。ここ、ドーナツ屋」
「さっきも聞いた」
左手のひとかけをひと口でぱくりと食べてしまった五条の右手は、相変わらずドーナツをつまんで湯気の中、ゆらゆら揺れている。
「ドーナツ食ってこそのドーナツ屋でしょ。さっきはあんなこと言ったけど仕方ないから、ノードーナツな歌姫に俺が恵んでやる」
「仕方ないって何。いらない。……いらないっつってんでしょうが、やめろドーナツはトッピングじゃねーのよ担々麺愚弄してんのか!」
「歌姫こそドーナツの価値を軽視してんじゃねえの」
庵の剣幕に五条は呆れたような顔を見せるが、呆れたいのはこちらである。
せっかく分けてやるって言ってんのにとむくれたようなことを言った彼は、しかしケロリとした表情で右手のドーナツを己の口に放り込んだ。それを見て、庵は改めてどんぶりに向き合う。
「そもそもね、食べ物で遊ぶなっつーのよ」
「食べ物じゃねえし。俺が遊んでんのは歌姫」
なお悪いと𠮟りつけようにも、麺をすすってしまったタイミングではもう口を開くことができない。
苛立ちと麺をひたすらに嚙みしめる庵と目線を合わせた五条は、いやに満足げに笑った。そして大きな口でまた一つドーナツを頬張って、つぶやく。
「ん、おいし」
(23.01.27 05:01)