石星本進捗歌声が聞こえる。お世辞にも上手いとは言えないが、なんとなく懐かしい声だった。その音を聞く度に胸の奥がきゅうと泣いて私に何かを伝えようとする。鱗に覆われた肌の表面がざわざわと波打つようで、しかしどれほど眺めてもそのような事は起こらない。
これは一体、なんだ。
声は続く。この空の青に染み渡るようだ。歌の内容は、と更に耳を傾けてみる。ああ、これは。悲しみの歌だ。失恋、ではない、か。ただ会いたい。もう一度だけでいい。一目見るだけでも構わない。愛する人が同じ世界にいる事を確かめたい。そう願うだけの歌だった。
歌声は彼方へと吸い込まれ私の足は歌声の主へと導かれるように進んでいく。気付けば声は止まり、辺りは穏やかな静寂に包まれていた。潮風が結った髪を揺らして擽ったい。
辿り着くまでの数分を永遠のように感じながらも何とかしてその場に辿り着いた時、私は声が出せなかった。
まず目を惹いたのは透き通るような白髪。衣服も真珠のように白いのだが、その肌や髪の透明感といったら水や雲のようだ。そして頬にある大きなケロイドが私の胸に突き刺さる。太陽に照らされているのに仄かな暗がりの向こうへ消えてしまいそう。そんな、精霊のような青年が、防波堤で大きな身体を小さく小さく丸め、海を眺めている。表情は見えない。だがとても辛い思いをしているという事がわかった。いや、これでは矛盾している。憶測で物を言っているのか。違う、これは確信だ。確信出来る材料などないというのに。
脚は勝手に進み続ける。
「……素敵な歌だね」
驚かせないようなるべく穏やかな声を出しながら隣に立った。それでも青年はびくりと身体を揺らしたが。恐る恐る私の方を見て、目を丸くし、彼は私に手を伸ばした。
「貴方は……!」
あの空よりもずっと澄んだ瞳がぐらぐらと揺れている。私の胸はそれに反応するかのようにざわめき、いっそ痛みすら感じそうだ。
「君は私を、知っているのか?」
呟くようにそう零すと、彼は再びハッとした顔で手を下ろす。誤魔化すように靡く髪を耳にかける動作が何かと重なった。
「探している人に、似ていた、から」
ぽつぽつと話す彼は何処か寂しそうだ。先程の歌の相手だろうか。思わず手を伸ばしてしまいそうなほど焦がれている。その情熱が羨ましくもあり、しかし私はそれにすら既視感を覚えた。
焔よりも熱いものを知っている気がする。だから私は、彫刻刀を持ち続けたのではないのか。それを追い求めて。焦がれるように。
「君は毎日ここで歌っているのかな?」
しょんぼりと俯いてしまった彼の気が引きたくて訊ねた。彼はしばらくもじもじと辺りを見回した後、こくりと頷いた。体格から見てそれなりに歳を重ねていそうだが言動が幼い。愛嬌のある青年だ。
「湖のそばにいれば、会える気がして」
焦がれる相手に、か。しかし目の前にあるのは海だ。潮風が髪を乱し弄ぶ。磯の香りと仲良くしすぎては健康によくないのではないだろうか。
けれどあまりにも恋しそうに海を見つめているものだから、水を差すのは幅かられた。
「そうか」
結局ひとつだけ頷くと、不思議そうな顔をする青年の隣に腰を下ろし、日が暮れるまで寄り添った。
もちろん彼は今日初めて会った他人だ。他人の為に一日を無為に過ごすなど自分でも考えられない。知人が聞けばひっくり返るだろう。ただ、せっかく会えたのだから、目の届く場所にいて欲しいと思ったのだ。
「帰ります」
水平線の向こう側へとっぷり沈んだ陽を、名残惜しく眺めた彼は。唐突に口を開いた。語る事などないとばかりに噤んでいた口も、鬱々と伏せられた瞳も、全てが懐かしく。まるで見たこともない世界へと飛ばされてしまったかのような錯覚に陥る。
「また明日も来るのだろう?」
寡黙な青年。穏やかな水音。不気味かつ心地の良い静寂。薄暗い世界でも彼のケロイドや瞳だけは鮮明に見えて。
「……はい」
微かに綻んだ口元を視界に入れた時、私はもう何年かぶりにほっと胸を撫で下ろした。
明日の約束はしない。だが明日も会えることを確認する。それでいい。今はその工程がとても愛おしく重要なのだ。明日も会える。それだけで私の胸はどくりと高鳴り、何だか彫刻刀が進む気がする。
こんなにも心が踊っているのはいつぶりか。それこそこの世界に生まれて初かもしれない。彼の姿が視界から消えても心臓がどくどくと脈打ち続けている。
帰宅後、私は生きている実感に打ち震えながら、日が昇るまでハンマーを握った。