無題 誰もいない共有スペースで巽は一人座っていた。ここ数日は仕事が立て込んでいて、朝起きて仕事に行って帰って来たら泥のように眠る、という生活を送っていた身からしたらこの静寂の時間は貴重なものだった。時折遠くから聞こえてくるアイドルたちの喋り声はどれも楽しそうに弾んでいる。そんな声たちに耳を傾けながら、壁に掛けられた時計が立てる規則的な音だけが響く部屋で巽は迎えの車を待っていた。
ただ待つだけではなんだからと紅茶を淹れてみたが、紙コップで飲むティーバッグの紅茶はどこか味気なく感じる。『フレイヴァー』で日和に徹底的に指導されたおかげか茶葉から淹れて飲む習慣がついてしまったらしい。昔は茶葉からだろうかティーバッグからだろうがどうでもよかったのだが、復帰してから様々なアイドルと交流を重ねる機会を得た結果、自分の趣向が緩やかに変化していくことは決して嫌ではなかった。
たまに時計を見ながら紙コップに口をつける。久しぶりの午後からの仕事ということでこうやってしばしの息抜きを楽しんでいるわけだが、巽はどこか物足りなさを感じていた。
寮ではあるが同じ場所に住んでいるのに会えないというのはなかなか辛いもので、夜遅くに寮に帰ってきているはずのない勿忘草色を探してしまう日々を過ごしていた。連絡をしようにもメッセージでやりとりするのがどうにも苦手で人一倍時間がかかってしまう巽にとっては、チャット機能を使っての会話は避けがちだ。だから会えないのならせめて電話で、と思うのだがどうにも時間が捻出出来ずに一日が終わる。あくまで話をしたいというのは自分の我儘だと思っているので、自分が時間のある早朝や夜中に電話をかけるのは気が引けた。
もうぬるくなってしまった紅茶もあと一口になった時、こちらに向かってくる誰かの足音が聞こえてきた。
「巽でしたか」
「HiMERUさん、」
やってきたのは会いたいと焦がれていた人物であった。HiMERUはやや大きめの鞄を持っていて、それを机の上に置くと巽の隣に座った。
「お久しぶりですな」
「巽の方は随分忙しそうですね」
「えぇ、ありがたいことにALKAKOIDとしてだけでなく俺個人としても呼んで頂ける仕事が増えまして、スケジュールは大変ですがこれも嬉しい悲鳴というやつですな。HiMERUさんもこれから仕事ですか?」
会いたいと思っていたがいざ久しぶりに会うとへんに緊張して口数が増える。
「HiMERUはこれから地方でのロケがあります。巽は?」
「俺は午後からラジオの収録が」
「そうですか。こんなところでお茶をしていて大丈夫なのですか?」
「はい、迎えの車が来るまではまだ少し時間がありますから」
「迎えはあとどれくらいで?」
「そうですね…あと十分程でしょうか。HiMERUさんも迎えを待っているのですか?」
「えぇ、ですが車が来るまではあと三十分はあるので問題はありません」
そう言って、会話は一旦途絶えてしまった。こうして隣に座って話が出来るのもあと10分しかない。
「…せっかくこうして会えたというのに、少ししか時間がないというのは寂しいものですね」
思い切って素直に口にしてみると、HiMERUは口を少し開いたり閉じたりした後こう言った。
「そうですね」
「え?」
何を言っているんだ、とかまるで子供のようだ、とか言われると思っていた巽は、まさか肯定の言葉が返ってくるなんて思いもしなかった。驚きはしたもののHiMERUも自分と同じ気持ちであることが嬉しくて、巽は思わず顔をほころばせる。
「何ですか。締まりのない顔をしないで下さい」
「ふふ、すみません。でもうれしくて」
時計を見るとタイムリミットまであと5分。またしばしの別れがやってくるが、抱いているのは寂しさだけではなくなった。HiMERUはつんとそっぽを向いてしまったけれど、顔を背けられた悲しさよりも愛しさが勝つ。
「巽、手をこちらに」
突然そういったHiMERUは手を差し出してくる。意図は分からなかったが言われるがままに差し出された手の上に自分の手のひらを重ねると、HiMERUは巽の手をつかんでそのままひっくり返した。
「どうしたのですか?」
そう巽は問いかけるも答えは返ってこない。黙ったままのHiMERUは空いている方の手で机の上に置かれた鞄をまさぐって細い瓶のようなものを取り出す。HiMERUが出してきたのはどうやら香水を入れるアトマイザーのようだった。それをひっくり返した巽の手首まで持ってくると、シュッと液体が吹き出る。
吹きかけられた瞬間嗅ぎ慣れた香りが辺りに広がった。HiMERUは吹きかけた香水を塗りつけるように己の手首と巽の手首を擦り合わせる。
「これで、今は我慢して下さい」
握っていた手を離したHiMERUは最後に巽をぐいっと自分の方に引き寄せ、一瞬だけきつく抱き締めてからそっと離れていった。
「…もう時間でしょう」
「え、あ、そうですな」
時刻は予定の時間を二分オーバーしていた。一口だけ残って忘れられていた紅茶を慌てて飲み干して鞄を掴む。紙コップを捨てようと辺りを見回してゴミ箱を探すと、HiMERUがすっとそれを奪い取った。
「片付けはやっておきます」
「…では、お言葉に甘えて」
巽は速足で部屋の出口に向かい、去り際にHiMERUの方を振り返る。
「HiMERUさん、ありがとうございます」
返事を聞く間もなく巽は寮の門まで急ぐ。自分から香ってくる匂いがくすぐったい。迎えに来てくれたスタッフに遅れたことを謝って後部座席に乗り込んだ頃には心の中にくすぶっていた寂しさは、心地よい香りにすっかり上書きされていた。