DIVE-1 日本最大の犯罪組織、梵天。その組織の首領として君臨し、事実上、日本の裏社会を牛耳るところにまで上り詰めていた男――佐野万次郎が、ある日唐突にその身を投げた。佐野がビルの屋上に立ち、何かを叫んだ後に躊躇いなく飛び降りる姿は、道行く多くの一般人に目撃されていた。中には一連の様子をスマートフォンで撮影していた者もいた。その映像はSNS上で瞬く間に広まり、世間に衝撃を与えることとなった。
佐野の投身自殺については、テレビ番組やネットニュースでも即座に取り上げられた。飛び降りる直前の異様な行動から、警察はこの事件に薬物が絡んでいるのではないかと疑ったという。その結果、佐野の身元はすぐに特定され、梵天との繋がりについても広く報道されることとなった。ニュース番組のコメンテーターは梵天という組織について、あらゆる犯罪の裏に関わっていると噂されながらも、その内情を全く把握できていなかったことを挙げながら、この事件は組織の実態解明への足掛かりとなるだろうと伝えた。
佐野がかつて率いていた不良チーム、東京卍會の元メンバー達にとって、このニュースはまさに寝耳に水であった。当時同じチームに所属し、親交が深かった者達でさえ、そのほとんどは佐野の近況を知らずにいたからだ。
佐野の近況を知っていた数少ない人物のうちの一人――乾青宗は、この事件が報道されて以降、毎日欠かさずにコンビニへと通い、あらゆる新聞を買い込んだ。そして紙面の隅々にまで目を通し――十年以上前に決別した幼馴染の名前が載っていないことを確認して、安堵のため息を漏らすのであった。
東京卍會の解散後、乾は龍宮寺と共にバイク屋を経営していた。龍宮寺とは大のバイク好きということとは別に、もう一つの共通点があった。それは、己の半身と呼んでも大袈裟ではないほどに親しかった人物が、今では日本最大の犯罪組織に所属しているという点だった。
「ドラケン、もう大丈夫なのか」
「……ああ。何日も休んじまって悪かったな」
「気にするな」
数日ぶりに出勤した龍宮寺に対して、乾は手元の予約リストに目を落としたまま言葉をかけた。そっけない態度だと思われそうだが、数日前の――SNS上で拡散されたあの動画を目にしたときの龍宮寺を思うと、このくらいの距離感でいた方がいい気がしたのだ。佐野は屋上から落下する途中、同じビルの下の階にいた男性に手を掴まれて、一旦は助かったように見えた。しかし男性は佐野を引き上げる前に力尽き、最終的には二人とも落下して死亡した。男性は一般人ということで報道では名前が伏せられていたが、その正体は東京卍會の元メンバーである花垣武道だった。梵天の首領が佐野であることに気付いた花垣は、独自に佐野を追っていたのだ。龍宮寺はそのことを知っていたのに花垣を止めることができなかったのだと、ひどく後悔している様子だった。花垣の死は乾にとってもショックだった。しかし花垣と佐野を同時に亡くし――しかも、その原因が自分にもあると考えている龍宮寺の精神的な負担は相当なものだろう。まだ休んでいてもいいのに、という言葉が口元まで出かけたが、自身のことを振り返って飲み込んだ。仕事をして、別のことで頭をいっぱいにした方が楽なのだ。
テレビでも、新聞でも、連日梵天の話題で持ちきりだ。下部組織の人間が捕まったとか、関連する店を摘発したとか、敵対組織による襲撃があったとか。数名の幹部の素性が割れたという報道もあった。乾の幼馴染であり、十二年前に道を違えた九井一も、梵天幹部に名を連ねていた。幸い、九井の名前はまだ報道には載っていないが、しかしそれは彼が無事だという証拠にはならない。人知れず、社会の裏側で、既に何らかの事件に巻き込まれていても不思議ではないのだ。九井はそれだけ梵天にとって重要な人物だった。
「テレビ、つけねぇの」
「ああ、忘れてた」
龍宮寺に促され、テレビのリモコンに手を伸ばす。乾達は毎朝、開店準備をするこの時間帯には朝の情報番組を流していた。天気予報や時事ネタは、客や取引先との世間話にも役に立つ。昔は信用していなかった星座占いも、話題のひとつとしてはなかなかに優秀だった。しかし――今のメディアにはキツい情報が多すぎる。梵天という言葉を聞くたびに、まるで見えない何かに心臓を鷲掴みにされたような心地になった。アイツの名前が出ませんようにと、無意識のうちに念じてしまう。けれど、だからと言って無関心を決め込むことも出来なかった。どんな些細な情報であれ、現在の九井に繋がることなら何でも知りたいと思ってしまうのだ。それがどんなに苦しみを伴うことだとしても。
乾と九井が決別したのは関東事変の直後だった。佐野エマの葬儀の後、九井の方から乾の前に現れた。あの抗争以来、顔を合わせるのは初めてだった。そこで九井は「オレはオレの道をゆく」と乾に語った。九井が自ら選び取った道ならばと、引き留めることはしなかった。喪失感が無かったわけではない。しかし乾は、九井は自分から――自分達から、解放されるべきだと気付いていた。自分の隣にいる限り、九井が〝彼女〟から解放されることはない。九井が自ら行く道を決めたのであれば、それを尊重するのが最後の役目だと思った。
その行く末がこれだ。九井は佐野と共に日本最大の犯罪組織を作り上げ、巨悪を背負う身となった。自分と姉という重荷から解放されて、やりたかったことがこれなのか。言ってやりたいことは山ほどあった。しかし乾はもう、自身の声を届ける術を持たない。あの橋の上で言葉を交わした日こそが、二人の道が交わった最後の日だった。
店内の壁に取り付けられたテレビにリモコンを向け、電源スイッチを押す。小さな画面にいつもの情報番組が表示された。にこやかな表情を浮かべたアナウンサーが、スポーツの話題を紹介しているところだった。梵天関係のニュースが入ると番組編成が乱れることが多い。今日はまだ、新しい情報は出ていないようだ。
「お、またホームラン打ったのか。すげぇよな、コイツ」
龍宮寺が明るい声で言った。つられてそちらに視線を向けると、龍宮寺は目の下に濃い隈を残しながらも、ニッと笑って見せた。
あの事件の翌日から、龍宮寺は欠勤が続いていた。一人にしておくのは不安だったが、毎朝欠勤の連絡だけは律儀に送ってきたから、今はそっとしておこうと思っていた。そして今朝の連絡には出勤するとあったから、テレビはつけずに待っていた。今の龍宮寺にとって、梵天という名前を見るのさえも辛いだろうと思ったからだ。
しかし龍宮寺はいつも通りに振る舞っている。オマエもいつも通りにしてくれ、ということなのだと思った。
「今日は十一時から田中さんの予約が入ってる。また改造するってよ」
「そっか。どんどん派手になっていくなぁ」
「昼からはメンテナンスがいくつか。皆、本格的に暑くなる前にロングツーリングに行くらしいぜ」
「それで仕事がもらえてんだから、こっちとしてもありがたいことだな。裏にあるのは山田さんの? いつ引き渡し?」
「開店してすぐに取りに来るって言ってた」
龍宮寺は店の中を忙しなく歩き回りながら、休んでいた間の出来事を確認していた。身体を動かして、頭をいっぱいにして、そうやって日常生活を送ることこそが、きっと今の龍宮寺には必要なことだった。
ふとショーウィンドウに目をやると、前の道で見知らぬ少年が彷徨いているのが見えた。一旦通り過ぎて、また戻って来る。帽子をかぶっているから顔は見えないが、背丈から察するに小学生だろう。登校時間はとうに過ぎているし、ランドセルを背負っていないから、何か訳アリなのかもしれない。
乾はカウンター席から立ち上がり、扉の方へと向かった。乾自身も幼い頃、黒龍初代総長のバイク屋に入り浸っていたことを思い出したのだ。ショーウィンドウ越しにバイクを眺めていた乾を、佐野真一郎はこうして店に引き入れてくれた。あのときの佐野真一郎のように、今度は乾がガラス扉を開いた。
「よう。バイク、好きなの?」
「あ……その、バイクじゃなくて……イヌピーさんはいますか?」
そう言って顔を上げた少年を見て、乾は言葉を失った。切れ長の目に、真っ直ぐな黒髪――その姿はまるで、乾の遠い記憶の中にある、子供の頃の九井一と瓜二つだったのだ。
「……ココ!?」
乾はしゃがみ込んで少年の肩を掴み、その顔をまじまじと見つめた。少年は少し驚いたような素振りを見せたが、乾の視線を黙って受け止めていた。見れば見るほど九井によく似ている。自分の頭がおかしくなったのかと思った。
「おい、どうしたイヌピー」
乾の様子を不審に思った龍宮寺が二人の元に駆けつけた。少年は龍宮寺の言葉を聞いて乾の方に向き直り、落ち着いた様子で口を開いた。
「あなたがイヌピーさんですね? 初めまして、オレは九井一の息子です」
「……はぁ!?」
乾と龍宮寺の声が重なった。店内のテレビでは星座占いのコーナーが始まっていたが、乾の耳にはもう、アナウンサーの声なんて聞こえていなかった。
DIVE
「九井のガキって……マジかよ?」
沈黙を破ったのは龍宮寺だった。龍宮寺の声にはっとした乾は、ようやく自分が呼吸を忘れていたことに気付いた。深く息を吐き、悪ィ、と声をかけて少年の肩から両手を離す。少年はなんでもないと言うように首を振った。そんな仕草の一つさえ、昔の九井そっくりだった。
「分かんねぇ。ガキっていうか……見た目はまんま昔のココだ」
そう言って乾は立ち上がった。龍宮寺の隣に並び立つと、彼は眉を顰めていた。
「そんな、漫画じゃあるまいし。どっかの高校生探偵みたいに、何かの薬でも飲んで、身体が縮んだってのかよ」
龍宮寺はそう言った後、ため息をついて額に手を当てた。自分でも現実離れしたことを言っていると自覚したらしい。漫画に出てくる薬物で身体が縮んだことを疑うよりも、本人の言うことを信じる方が、おそらく現実的だろう。
しかし乾も龍宮寺も、九井に子供がいるなどとは夢にも思っていなかったから、急な出来事に頭がついていかなかった。二人はかつての親友達の動向を知るために、長い間梵天の情報を追っていたが、そんな噂は一度も聞いたことがなかった。
九井に子供がいるということは、つまり相手の女がいるということだ。九井が亡くなった姉から解放されることを願っていた乾にとって、この子の存在はその願いが体現したようなものだった。相手がどんな女であれ、九井が過去の幻影なんかではなく、現実の人間に興味を示したのであれば――それはきっと、九井にとっては良いことだった。けれど驚くべきことに、素直に喜べない自分がいたのだ。アイツが赤音を忘れるなんてありえない。そんな身勝手な怒りさえ感じた。自分達のことは忘れてくれと、そう願って彼を送り出したはずなのに、いざその現実に直面すると、どうしようもなく胸をかき乱される心地がした。
「……本当にココの息子だとして、親子ってこんなに似るもんなのか? まるで昔のココの複製みたいだ」
「双子ならまだしも、親子でそこまで似るって話は聞いたことがねぇな」
そうだよな、と呟いて、乾は再び少年をじっと見つめた。薄青の瞳に凝視された少年は、さすがに居心地の悪さを感じたようだが、それでも気が済むまで見てくれというように帽子を脱いだ。聡明さを感じさせる黒曜の瞳、癖ひとつない真っ直ぐな黒髪、薄い唇や耳の形まで、どこを取っても見覚えがある。どれだけじっくりと観察をしても、乾には目の前の少年から他人の面影を見つけ出すことは出来なかった。流石に有り得ないだろう。現実を受け入れることを拒んだ脳が、物事を都合の良いように曲げて見せているのかとさえ思った。
「まさかアメーバか何かみたいに、ココから分裂して生まれたんじゃねぇよな」
「はは、お前の幼馴染は単細胞生物じゃねぇだろ」
龍宮寺が茶化すように笑った。先ほどの自身の発言に対する意趣返しか何かのように受け取ったらしい。目の前の現実を受け入れがたく感じている乾としては、あながち冗談でもなかったのだが、乾よりも幾分かは冷静な龍宮寺にはユーモラスな発言として聞こえたようだった。確かにそうだ。現実的ではない。人間の身体が薬で縮んだり、分裂で増えたりするはずなんてないのだから。
乾は思考を切り替えるべく、大きく深呼吸をした。今はそんな〝有り得ないこと〟について考えるよりも、現実として起こっていることに目を向けるべきだと思い直したのだ。九井一の息子を名乗る少年がここにいる。これは紛れもない事実だ。それでは――九井本人は、どこにいるのだろう。そう思い至った途端、乾は血の気が引いた。
「……なぁ、おい、ココの息子。お前の父親は……ココはどうした?」
龍宮寺が息を呑むのがわかった。乾は氷のように冷えた指先をぎゅっと握りしめながら、再び膝を曲げて少年と目線を合わせる。秘匿された存在とはいえ、梵天幹部の息子などという超重要人物が、今のこの情勢で一人で出歩くわけがない。それは即ち――幼い子供が一人で行動しなければならないような〝何か〟が起こってしまったということだ。
少年は絞り出すような声で告げた。
「父さんは……九井一は、殺されました」
ちょうどそのとき、緊迫した声が店内に響いた。テレビから聞こえるアナウンサーの声だった。画面が情報番組のスタジオから報道フロアに切り替わっている。テロップには「速報 梵天幹部の遺体発見 殺人事件か」と表示されていた。まるで少年の言葉を裏付けるように、アナウンサーが手元の原稿を読み上げた。
『速報です。都内のホテルで男性の変死体が発見されました。現場の状況から、遺体は反社会的組織「梵天」幹部、九井一のものと見られています。遺体は死後数日が経過しているとのことで、警察は梵天と敵対する組織による犯行と見て、捜査を進めています』
――どくどくと、血管の脈打つ音が脳内に響いた。画面が高級そうなホテルの外観に切り替わり、テロップには「死亡 梵天幹部 九井一(28)」と表示される。知らずのうちに呼吸が荒くなっていた。しゃがみ込んでいて良かったと思った。彼と道を違えて十年以上――いつかこんな日が来るかもしれないと覚悟はしていたつもりだったが、それでも震えが止まらなかった。あの日、橋の上で別れを告げた幼馴染が、ついに二度と会えない場所へと行ってしまったのだ。
俯いた乾の背中を龍宮寺がさすった。「大丈夫か」と声を掛けられたが、口の中が渇いて返事ができない。朦朧とする意識の中で、つい数日前に、乾自身が今の龍宮寺と同じことをしたのを思い出した。そしてそれは、遠い昔の幼い頃に、転んで膝を擦りむいた乾に対して九井がしてくれたことだということも。乾を形作る要素の多くは、あの聡明な幼馴染の影響を受けていた。
「……父さんの死は不自然でした。警察は敵対組織の犯行と見ているようですが、有り得ない。梵天の内部に裏切り者がいるはずです。だからオレは、生前の父さんの言葉に従ってここに来ました」
少年はテレビ画面に目をやりながら、やや怒りのこもった声でそう言った。乾がゆっくりと顔を上げる。
「ココの……生前の言葉?」
「はい。何かあったらイヌピーのところへ行けって。アイツは絶対、お前のことを守ってくれるからって」
火傷痕が残る頬に、一筋の涙が伝った。少年が小さく息を呑む。乾ははっとしたように目元を拭い、涙を誤魔化すようにして天井を見上げた。
「分かってたんなら、なんで生きてるうちに来なかったんだよ」
少年も、龍宮寺も、何も言えなかった。テレビでは事件に関する報道が終わり、清涼飲料水のコマーシャルが流れ始める。軽快な音楽が静かな店内に響き渡った。乾は右の拳を強く握り、店内の床に叩きつけて立ち上がった。
「ココの息子。アイツの代わりにオレがお前を守ってやる」
道を違えた幼馴染が、それでもこの少年を乾に託したのだ。他の誰でもない、乾自身に。身体の震えは止まっていた。
DIVE-1 END