丁度昼下がりだっただろうか、俺が外回りから帰ってきた後のように記憶している。
「耀、おかえり」
あの人はゆったりと振り返って、俺に声をかけた。真っ直ぐ何かを追いかける彼が姿勢を唯一崩す瞬間が、喫煙だったかもしれない。片足に重心を預けて、口元に運ぶ姿は妙に印象的だった。
「……正義さんも、ここに来てたんですか」
「そりゃそうだろ、誰だって一服したくなる」
「あなたの頻度は凄いんですよ、」
「はは、自身の肺も省みるんだな」
「忠告ありがたく受け取っておきますよ」
建物がひしめく敷地の一角にある喫煙所に、木々が陰を作っていた。不自然なほどに晴れ切った空と吹くことのない風がそこにはあって、ただ真っ直ぐに煙草の灰が落ちていく。
その時、なぜか目についたのだ。
「正義さんって、」
「ん?」
「…泣きぼくろ、あったんですね」
男の右の頬に目をやれば、黒く小さくもないそれは確かに主張していた。泣きぼくろは一般的にチャーミングだとか色気を出すとか言われていたから。
「ああ、そんなの四六時中一緒にいるんだから分かってただろ」
「……まあ、でもなんか目にとまったんで」
「存在しても、良い事なんて何も無いさ」
「そんなことないでしょう、数多の女が寄ってきそうなもんだ?」
正義さんはからからと笑みを零すばかり。思い返せば、「実に不必要」なのか「既にあったから」なのかいずれかなのだと。いや、あの人のことだ、正解なんて教えちゃくれないだろうが。
「……要らないさ、」
「えぇ…?上手くやりそうなもんですがね」
「それは耀もだろ?」
「……まあ」
目を細めて笑う彼は部下に対する感情で満ちていて、言うなればそれは"慈愛"のような気持ち悪いものかもしれない。
「若いうちに色々と経験しとけば良いさ」
「あなたも大して歳も変わらないでしょうに」
息を呑む。
そこで、アスファルトの照り返しがふいに目を痛めようとしてきたことを今でもよく覚えている。遠くで誰かの車のバックミラーが動いて反射したようなことも、取るに足りないことなのに時折蘇る情景だ。
あの人は吸殻をそっと潰して、俺に一声かけて一課に戻ろうとする。俺もと続いていこうとすれば、ゆっくり休んどけと制される。
「いいのさ、俺は」
「……何がですか」
「色々と」
「言わないつもりですか」
「ああ、」
じゃあと言って後ろ手を振る、背を向けて踵を返す正義さんを、俺は引き止められなかった。大したことのない日常の会話なのに、不穏の何かを感じずには居られなかった。
幾年経ったか、あの時の喫煙所にやって来ている。世の中の禁煙の煽りを受けて、もうすぐ取り壊しになるらしい。背の高い葉を枯らすことのない木は存在してくれるだけで、雑念にまで陰を落としてくれるような気がしていた。
「……今、聞いたら答えてくれるかね」
ぼそりと呟いた言葉は、強い風に流されて粒さえ残さず消えていく。
ポケットのなかで鳴り止まない携帯に苦笑しつつ、煙草の火を潰す。俺は、真っ直ぐに部下のいる捜査一課に帰るべく、足を前へと動かした。