カラーリングセレモニー そこは天も地も深い緑に覆われた森だった。僅かに差し込む傾いた陽の光によって夕暮れと分かるくらいで、鬱蒼と茂った植物だけが視界に映る全てだった。
いつからここに迷い込んでしまったのか分からない。気がついた時には既にいた、というのが率直な感想だった。
右手に刻んだ令呪はピクリとも反応しない。そこから特異点ではなく誰かの夢に迷い込んだ可能性が高いと推測する。
時折聞こえてくる獣らしき足音を警戒しながら慎重に歩みを進めるものの、息遣いはどんどん近付いてくる。なのに目的地のヒントになるような印は何処にも見当たらない。このままでは追いつかれてしまう。そんな不安が頭をよぎって、恐ろしくて仕方がない。跳ねる心臓を押さえつけるので精一杯だった。
「どうしよう」
頼れる仲間は側にいない。服装も戦闘補助のあるカルデアの礼装ではなく、就寝用のスウェットだ。心細さが時を追うごとに増していく。こんな時にこそ、彼がいてくれたら。
「……オベロン」
カルデアの最古参であるオベロンは多くのリソースを割かれた主戦力の一基だ。その活躍は戦闘の手助けに留まらず、日頃のメンタルケアにも一役買っている。彼の主催する訓練終わりのお茶会も、その一環だったと言えよう。
『休憩時間にマスターを働かせるなんて従僕として忍びない。さ、座って座って。英国紳士の腕前、披露させてもらうよ』
彼にエスコートされれば、無機質な食堂だってお洒落なガーデンファニチャーへと早変わり。甘い笑顔のウィンクも添えられたら雰囲気もバッチリだった。
記憶の中からあの香りと味を呼び起こすだけで、胸が高鳴し、喉がカラカラに干上がってしまう。どれだけ唾を飲み込もうとも、その渇きを癒せる気がしなかった。
だがそのお茶会もある時を境にプッツリと途切れた。肝心の彼が訓練終了後に「お疲れ様」の一言を残して足早に姿を消してしまうからだ。
お茶会に飽きてしまったのだろうか。それとも魔術師として成長の兆しの無い自分に嫌気が差してしまったのだろうか。心の内をモヤモヤとした陰気が漂い、景色の相まって酷く気分が落ち込んだ。
「怖いよ。助けてオベロン」
無意識のうちに願いは音になっていた。
するとどうだろう。聳え立つ樹木がグニャリと捻じ曲がった。足元が覚束なくなり、全身が空中に放り出される感覚に襲われた。稀によくあるレイシフト失敗で多少は慣れているつもりだったが、いかんせん突然はよろしくない。心の準備ができていない。こちとら心臓に毛の生えていない小市民なのに!
「待って待って待って! うわぁぁ!」
手足をバタつかせる程度で重力は変わらないし、無意味であるのは重々承知である。けれど足掻いてしまうのは生存本能で、マスター云々というより人間としての性なのだ。
その無様な抵抗は尻餅をつくまで続いた。ぐぇ、と年頃の少女からまろびてるべきではない呻きが漏れた事実はさておき、まずは状況把握に努めなければなるまい。
「ここは……?」
目に映る光景は一転していた。燦々と高く上がった太陽の光が降り注いでいるのが何よりの証左だった。
「眩しい。さっきの森とは大違いだ」
辺りは背の低い木々が点々と生える広場に変わっている。天に向かって伸びる葉と葉の間にぶら下がっている小さな丸い物体はキッチンでも時たま目にする食べ物で。
「これ、オリーブだよね」
くすんだ黄浅緑のそれらは陽の光を浴びてキラキラと輝いている。ぼんやりと眺めていれば、鬱々とした恐怖と焦燥は綺麗サッパリと消えていた。
ほんのりと潮の匂いも鼻につく。海が近いのかもしれない。
さて、いつまでも座り込んでいても仕方がない。のっそりと重たい腰を上げた。「お手をどうぞ」と手を差し出してくれる同伴者の姿を幻視して、少しだけ物寂しい気分がぶり返した。
くるぶしほどの背丈の雑草を踏み締めて暫く歩けば、予測通りに海岸線へとぶつかった。太陽が真上に輝き、崖下では荒波が激しく飛沫を上げている。
そして大地の切れ目には、こちら側に背を向けて立つ男が一人。淡い水色のローブと、派手な蝶の翅の組み合わせに該当する者は──。
「オベロン」
「おや、マスターじゃないか」
柔らかい笑顔で振り向いた彼であるが、視線だけは酷く冷めていた。作られた表情はどうにも歪で、そこはかとなくなる違和感があった。怒っているのかもしれないと思った。
「誰かの夢に迷い込んだ私を助けてくれたんだよね? ありがとう」
未だにレムレムを制御できない己の未熟さも相まって、申し訳なさで胸の内がいっぱいになる。そうして彼の足元で視線を泳がせた。
「ああ、そんなこと」
オベロンはカクンと首を傾げて、いともあっさり告げた。
「君を招いたのは僕だから気に病む必要はない。……あっちに潜ってしまったのは予想外だったけど」
「え?」
「なんでもない。ここはアテネとバビロニアの中間地さ。この美しい海は地中海だ。綺麗だろう?」
彼はここが『オベロン』が形作られる上で思い入れの強い場所なのだと語った。だが陰鬱とした深い森も、激しく高鳴る断崖絶壁も、彼の主印象である華やかさとはかけ離れている気がした。オリーブ畑だけは穏やかであるが、妖精王としては質素で泥臭さがある。オベロンらしい場所の繋ぎ合わせと言われてもピンと来ないのが正直なところだった。
「得心がいかないって顔をしてるよ」
「意外だなって。妖精の王様だからお城に住んでて、花に囲まれた場所で過ごしてるのかと思ってた」
空を映す瞳が一層その深みを増した。そして口元を歪ませると、オベロンは快活に笑い声を上げた。一見は楽しそうに見える。そう見えるのに違和感が拭えない。
「ステレオタイプの反応をありがとう。でも僕はシェイクスピアのオベロンである以前に、古代の妖精王オベロンでもある。ここは各地に持っていた別荘を集めたに過ぎない」
「……今は違うって聞こえるよ」
「さすがは歴戦のマスターだ。話が早くて助かる」
オベロンは肩を竦めて、いかにも困った風貌で語り出した。
「御伽噺は時代の変化と共に移り変わる。それこそ伝言ゲームみたいなものだからね。失われ、付け足され、捻じ曲がる。それこそ妖精王オベロンの伝承だって例外ではない」
なるほど。つまり彼が伝えたいのは。
「──ここはかつて、オベロンの領地だった場所。その再現だ」
足を滑らせれば真っ逆さまの断崖絶壁スレスレで、彼は笑みを貼り付けたまま佇んでいる。背中の翅は潮風に揺れて、キラキラとした鱗粉を舞き散らしていた。
「それが私を呼んだ理由と繋がってるの?」
「まぁまぁ。焦ったところで人生は早送りにはならない。単に僕の事をもっと知って欲しいと思ったから。これで満足かい?」
オベロンは長いローブに隠れた足を動かして、ゆっくりと近付いてくる。足元の覚束ない崖っぷちから離れてくれて安堵すべきはずなのに、頭の中ではガンガンと警鐘が鳴り響いていた。
「なぜ距離を取ろうとするんだい? 僕と君の仲じゃないか」
「それは私のセリフだよ」
「ほう」
オベロンは感嘆の一言を吐き出した後、静かに目元を緩ませた。心なしかアイスブルーの瞳にどんよりとした影が落ちて、澄んだ青空だった眼差しはいつしか深海の相を呈していた。
「どうして急に距離を取るようになったの? どうして私をここへ呼んだの?」
答えてよ、と真っ向から彼に向き合う。それはマスターとしてではなく、共に歩んできた戦友としての気持ちの方が強かった。
「君に淋しい思いをさせてしまっていたのは素直に謝罪する。でも僕にものっぴきならない事情があって、少しだけ──いや、かなり忙しかったんだ」
流れるように言葉を紡ぐ彼の様子は、さながらミュージカルの独壇場のよう。大仰に腰を折って詫びを示したかと思えば、あっけらかんと紡がれる言い訳。
呼び出して、歩かせて、一人で自己完結して、こちらの都合なんてお構いなし。なんて身勝手な男なのだろう。
「私はまだ頼りないマスターなの?」
「違う。妖精という存在はどうも人間の機敏に疎いみたいだ。不安にさせてしまったの僕の落ち度だよ。すまなかった」
「いいの。でもこれだけは聞かせて。なんでオベロンは怒っているの?」
「僕が怒ってる?」
「全然隠せてない」
「……君に指摘されるようでは、僕も役者として三流だね。ああ、そうとも。むしゃくしゃして仕方なかったんだ!」
もはや苛立ちを見せつけるよう。指通りの良いサラサラの髪を掻き毟りながら、オベロンは青空に向かってがなり立てた。乱暴で、粗雑で、紳士的な振る舞いなど見る影もない。そんな彼の様子に驚きよりも恐怖が優って、一歩、また一歩と後退る。
「どうしていつもいつも理不尽な目に遭わなければならないのか。少しは疑問に思えよ。当たり前だと受け入れるなよ」
「一体、なんのこと?」
「薄々理解してるくせに惚けないでくれる?」
「ほんとに分からないんだって」
「ああそう、だったら尚更救えないなぁ」
けれども彼の歩幅の方が大きくて。やがて背中に硬い木の幹を感じる頃には、彼は目と鼻の先に迫っていた。
「そう怯えないで。今日はプレゼントを贈りたくて君を呼んだんだ」
「……プレゼント?」
「そうとも。ほら、ラピスラズリって宝石さ。綺麗だろう?」
彼が懐から取り出したのは紺色の宝石が数珠繋ぎとなったネックレスだった。ラピスラズリ。古代においては黄金と同列に尊ばれる宝玉。そしてギルガメッシュ王からバレンタインの折に受け取った腕飾りと、同じ素材であると思い至った。
「これ、とても貴重じゃ……!」
「バディリングのお返しさ。これくらいの格式じゃないと、日頃の感謝には報いれないからね」
オベロンの大きな掌が頭の後ろへと回り、追ってパチリと金具の留まる音がした。
宝玉の連なりがぐるりと首を一周する。肩にアクセサリーそのものの重み以上の圧を感じて、チリチリとしたヒリつきを覚えるのは、私の気のせいではないだろう。
「サイズもピッタリだ。これなら調整の必要はないね。何より、燃えるような暁色によく似合う」
鮮やかな橙色の補色となる仄暗い紺色。それが首元で鈍い輝きを返す。
流されるままに受け取ってしまったものの、これは非常に高価な品物でないか。借金の噂に事欠かないオベロンから貰ってしまって問題ないのだろうか。そう恐る恐る顔を上げれば、一転オベロンはニコニコと屈託のない笑みに変わっていた。
「……僕のプレゼントに不満でも?」
「そんなことは。でもオベロンがプレゼントを用意してくれたのが意外というか。ほら、バレンタインの時も結局チョコを受け取ってくれなかったじゃない?」
「あー、それはまぁ。家来からの下賜はともかく、マスターからの贈り物となると、僕にも心の準備が必要だったからね」
「あとシバの女王様が新しい請求書を作っているんじゃないかと」
「他所様の懐事情に首を突っ込むんじゃありません!」
歯切れ悪く呟いたオベロンは悩ましげに瞼を伏せた。長いまつ毛がサラリと下に流れて、彼の瞳が覆い隠される。そして再び顔を上げた時には剣呑な光は幻のように消えていた。
「ともかくだ。僕を好ましいと思うなら受け取ってほしい。そして肌身離さず身につけてくれ。君が何処にいても僕が駆けつけられるようになる」
「ありがとう。やっぱりオベロンは頼りになるね」
「そう思ってくれて光栄だよ」
オベロンは鼻を鳴らして得意気だった。彼が怒っていたのはカルデアでの境遇で、お茶会を避けていたのはプレゼントを作る時間を作るため。それが分かっただけでも、心が随分と軽くなった。
けれど彼に対する疑問は一段と深まったまま。私は彼の全てを知らない。寧ろ知らない事の方が多いのだと思い知らされた。いつか全てを語ってくれる日が来るのなら、正面から受け止める覚悟はある。それが彼を喚んだ責任だ。
「おや、体が透けているよ。もう少しゆっくりしていって欲しかったけど、あいにく時間切れのようだ」
「また来てもいい?」
「勿論。今度はティーセットを用意しておくよ」
「久々のオベロンのお茶だ! 楽しみ!」
彼は光栄だと言ってはにかんだ。僅かに頬が赤らんでいたのは見逃さなかった。
視界がどんどん白くなって海岸から遠ざかっていく。またしても浮遊感に襲われているというのに恐怖は皆無だった。首周りの重みに彼の温もりを感じて心地よいとさえ思えた。
「やっぱり優しいなぁ」
濃紺の宝石をそっと撫でる。明日の朝、カルデアの皆に自慢してみよう。オベロンが用意したと言えば、きっと驚かれるだろう。それから微笑ましい目で見られるかもしれない。
そんな光景を想像して、穏やかな気持ちで目を閉じた。
◇◆◇
「ともあれ目的は達成した」
オベロンは大きく伸びをして頭上の天球を仰ぐ。青々とした空に浮かぶ燃え盛る太陽。眺めれば眩しくて、近付こうものなら燃えてしまう。
「これ幸いと手を出さなくて良かった。あっちにいる僕は加減が効かないし、名前を呼ばれなかったら危なかったよ。全く、自主的に封印を続けるのも楽じゃない」
危なっかしいイレギュラーはあったものの、彼女は贈りものを受け取ってくれた。人間曰く、その宝石が示すのは『永遠の誓い』らしい。俺自身は願掛けを信じる質ではないが、願われれば応えるのみ。
「水晶よりも透き通った心の君がいつか『オベロン』を受け入れてくれるのなら」
生き残るのが望みであれば叶えよう。安寧を求めるならば提供しよう。そして共に久遠の時間を過ごそう。
「あの首飾りがある限り、君は僕から逃げられない」
雁字搦めになっているのはお互い様だ。彼女は僕がいないと折れてしまうし、僕は彼女がいないと化物になってしまう。歪ながらも求め求められる関係は悪くない。
眩しいのも熱いのも、燃え盛っているからだ。深い深海に引き摺り込んでしまえば、いずれは冷えて触れられるようになる。それを太陽と呼べるかは定かではないが、その程度で竜は執着を手放しはしない。
「共に溺れて沈もうか」
天に腕を伸ばして、遠い太陽を掌に閉じ込める。一歩ずつ後ろに下がれば海風が強く背中を打つ。けれどもオベロンは止まらない。そしてファンシーなヒールが空を踏んだところで、彼は八重歯を見せて淫涜に顔を歪めてみせた。
断崖絶壁から身を投げた彼はいつまで経っても水面に浮かんでこなかった。