バレンタインパニック ここ最近、鯉登さんの様子がおかしい。
元々じっとしているタイプではなかったが、それにしても落ち着きがない。何か言いたげにこちらへ視線を送ってくるくせに、目が合うと顔を背けられてしまうのだ。
「言いたいことがあるならはっきり言ってください」
と訊ねても。
「なんでもない!気にするな」
と早口で答えられる。
おかしい……絶対なんかある……。
証拠はないが俺の勘がそう告げる。
鯉登さんは嫌なことは嫌だとはっきり言う人だ。思ってたことはすぐ口にしてしまう。それは鯉登さんの短所でもあるが、同時に長所でもあった。
『言わぬが花』、『空気を読む』なんて言葉もあるが、鯉登さんのように明確に発言してくれる方がむしろ付き合いやすい。
そんな竹を割ったよう性格をしているはずの恋人が最近どうもおかしくて、日常が少しずつズレていくような気分の悪さを覚えていた。
もしかして俺が何か嫌がることをしてしまったのだろうか。
いや、それなら尚更相手からこれは嫌だと言ってくるはず。
同棲を始めたばかりの頃、「バスタオルと靴下と手洗い表示の洗い物を一緒に洗う奴がいるか馬鹿者ッ!」と凄い剣幕で怒られたことがあった。
「洗って綺麗になるんだから一緒でいいじゃないですか。分けて洗うなんて、それこそ金が……水が勿体ないです」と俺が口を出ししようものなら「こッん!貧乏人根性が!!」と更に怒鳴られたことがあった。
睨まれることはあっても、目も逸らされたことはない。
同棲を始めて、こんなに居心地の悪さを感じたのは初めてだ。
何が気に入らないのだろう。
もしかして……気に入らないのは俺自体とか?
ぽかりと浮かんだ仮定がずしりと心に重く圧し掛かる。こんなことでショックを受けている自分に余計に呆れてしまう。
「月島主任、聞いてました?」
突然現れた顔に一気に現実に引き戻される。
まるで寝起きを起こされたような驚きで、椅子からずり落ちるのを、膝の筋力でなんとか事務机にかぶりつく。「だ、大丈夫ですか?!」と目を丸くした前山の顔に、居た堪れなさが増す。
「すまん、少しぼぅとしてた」
難を逃れたものの、心配そうな同僚の顔に胸が痛む。前山は何も悪くないというのに。「すみません、何度か声をかけたんですが返事がなかったもので……」と反省した様子の男、前山は、俺の隣の席の同僚である。
先程昼に出かけたはずだが、時計をみて驚いてしまう。思いの外時間が経過していたのだ。
昼休憩に入ったものの、あと一件、あと一件だけ……とメールの返事を続けていくうち、どんどん時間を削られていたようで、残り十分ほどで昼休憩が終わってしまう時刻になっていた。
鞄の奥から長方形の弁当を取り出し、包み袋を机に広げると、「え!お昼これからですか?!」と驚いた様子の同僚に、「あぁ」と短く応答し、両手を合わせてから箸箱を開けた。
「では食後にこれもどうぞ。僕が作ったので大したものじゃないんですが」
そう言って、前山が差し出されたのは透明の袋に入った丸い菓子だった。
「おぉ、なんか悪いな。ありがとう」
なんとう名前の菓子だったか。
見たことあるし食べたこともある。ふっくらとドーム状に膨らんだ黄金色の菓子。上には多彩な色の細長い飾りがばら撒かれており、中には星の形をしたものもあった。
「美味そうだ。上のやつも食べれるのか?」
「マフィンっていうんです、カラースプレーチョコなので食べれますよ」
「有り難くもらっておく」
前山の趣味は菓子作りで、時々こうして俺にもお裾分けしてくれることが多々あった。このマフィンもお裾分けというやつかと思いきや、「バレンタインなので作っちゃいました」と前山は嬉しそうに告げた。
俺は箸に乗せていた白米を頬張ってから、ん?と時が止まる。
「バレン……タイン……?」
それは自分には無縁すぎるイベントの名前だった。
最近は社内用カレンダーにもバレンタインデー、ホワイトデーと印刷されるほどメジャーなイベントではあるが、女性から男性へ菓子を贈るイメージが強いため、特に意識したことのない行事だった。
そういえば休憩所に、『受付一同からみなさんへ』とメモがついた菓子箱が開いていたのを思い出す。てっきり取引先から貰った贈呈品かと思ったが、それなら『株式会社〇〇の○○様より頂戴しました』と書かれるはずだ。
あの菓子はそういうことだったのか。
冷えてしまっても味の濃い生姜焼きは美味く、咀嚼する度に米を口の中に詰め込みたかった。火加減に失敗した卵焼きはカリカリで少し苦い。
「友達と今年は手作りしたお菓子を交換しようって話になったんです。それで月島さんにもと思いましてね。気軽に食べてください」
俺も話したくて、ペットボトルのお茶で口のなかを洗い流す。
「遠慮なく貰うが……返すものがない」
「あ、いいんです、いいんです。本当にお気遣いなく!日頃の感謝も込めてですので」
「そうか?」
隣の席の俺にもこうして気遣いを忘れない前山にはいつも感心する。
なんとか五分で弁当を食い終えることができ、ほっとする。だが空っぽだった胃に、突如大量の飯やら肉やらを詰め込まれ、急激な眠気に襲われ、伸びをしながら、欠伸を噛み殺した。
前山には申し訳ないが、あとで食べさせてもらおうと潰れないよう、そっとビジネスリュックにしまう。重たくなった腹を抱え、眠気覚ましの缶コーヒーを買いにオフィスを出た。
空調が効きすぎているオフィスと違い、廊下はやや涼しく、食べ過ぎで体温が高くなっていた俺にはちょうど良く感じた。
喫煙ルーム横の自販機は談笑をする人だかりができており、少し遠いが、トイレ近くの自動販売機へ行こうと踵を返したところで、胸ポケットに入れてたケータイが震えた。
メッセージ交換アプリに一件の新着メッセージありとアイコンが知らせる。
『弁当美味かった。特に卵焼き』
鯉登さんからだった。
短い文面。しかし書いた恋人の声がはっきりと脳内再生された。
特に手の込んだものを作ったわけでもないのに、こうやって、一言礼を言われると、胸の奥方そわそわする。
まめだよな……本当。
無糖コーヒーの商品ボタンを押し、ガコンという音とともにコーヒー缶が出てくる。
片手でプルタブを開けると、奥歯で噛んだ苦い卵焼きの味が蘇る。焦げてないところを集めて弁当にいれたことを鯉登さんは知らない。
廊下の壁に寄りかかりながら『どうも』と返信する。既読の文字の早さに、彼もまた俺と同じように画面を見つめていることがわかった。
『次はウィンナーが食べたい』
『タコの!』
今度は語尾が嬉しそうに跳ねて聞こえる。八本足とはいかないが四本足の赤いウィンナーは鯉登さんのお気に入りだ。
わかりました、と打ち込む。
俺の声も、鯉登さんの頭の中で再生されているだろうか。
『ありがとう』
『夕飯は私が腕によりをかけて作るからな』
今日は外回りで出ているため早く帰って用意をするのだと意気込んでいたことを思い出す。
『デザートも作るから腹を空かせて帰ってこい』
文字だけなのに、表情が、声色が、感情が伝わってくる。
『待っている』
こんなことは初めで。
こんなふうな気持ちにさせてくれるひとも初めてで。
『月島』
頭のなかで俺を呼ぶ声が鮮明に蘇る。
『好きだ』
たった三文字、されど三文字。
俺の心臓のど真ん中に確実に射抜くには十分すぎる言葉だった。眠気も退散する。
……なんて返すのが正解なんだ。
落ち着くために缶コーヒーに口をつけると、口の中に流れ混む砂糖の甘さに思わず吐きかける。
缶コーヒーには『バレンタイン限定!コーヒーココア』と印字された、似て非なるものだった。
バレンタイン、今日はその言葉に振り回される予感がした。
その日の帰り道、ずっと考えていた。
俺も何か鯉登さんにあげた方がいいのかもしれない、と。
もしかしたら鯉登さんも俺からチョコが貰えると思ってそわそわしてたのかもしらない。
そう思うと納得いくことばかりが思いつく。
チョコレートのCMでバレンタインの話が出ると露骨に俺の顔を見てきたし。
「二月十四日の夜は何かあるか?私が夕飯作ってもいいか?」とか訊かれたし。
私は甘いのも苦いのもミルクが入ってても好きだし、果物が入ってるも好きだと、謎の好みも言われたこともあった。
……なんで俺は変に思わなかったんだろう……。全部チョコレートに関することじゃないか。
どうして今まで気付かなかったのかレベルだった。
しかしそれは気付いて初めて、ヒントだとわかるような言葉の数々。鯉登さんはいつも思ったことを言う性格だから、脈略がなかったり唐突だったりして、鯉登さんが言ったことを覚えていても、意図がわかるのが遅れることが多々あった。
そもそもチョコレートを渡すってなんだ。
ひな祭りや子供の日は子供のための祝い事だし、勤労感謝の日に日々働けることに感謝だってしない。入社式とか新年会とか忘年会の方がまだ俺にはしっくりくる行事だ。
俺と鯉登さんは付き合い出したのは去年の春のこと。去年の今頃はそんなこと思いもしなかった。鯉登さんも特に言わなかったし、意識すらしていなかった。
けれどこうやって恋人同士になると弊害というか何かが変わってしまうものだろうか。
俺から何か渡すべきなんだろう。
……女、役だし。
低身長の筋肉男で顎髭の生えたむさ苦しい男が「女役」という違和感は残るが事実である。
そもそも男同士で付き合ったのは鯉登さんが初めてでよくわからない。
わからないが、鯉登さんが望んでいることなら叶えたい。
月島、月島、と呼ぶ声を聞くと、仕方ないなぁという気持ちが不思議と湧いてくる。
すこし遅くなると連絡して、いざ行かんと向かったのは男一人では入りにくい女性で埋め尽くされたデパートの催事コーナーだった。
思いの外帰りが遅くなってしまい、急いで玄関のドアを開け中へ入る。
洗面所で手を洗っていると、「月島、おかえり~」という声がリビングから聞こえてきた。
スーツをハンガーにかけ部屋着に着替えてからリビングへ向かうと、エプロン姿の鯉登さんがキッチンに立っていた。
「ただいま帰りました」
「寒かっただろう、もうすぐ準備できるから座ってろ」
キッチンのカウンター越しに見えたのは食卓に並んでいるサラダや副菜が綺麗にラップされているのが見えた。
あぁ……本当だったら俺が帰ってくる時間に合わせて用意してくれてたんだな。
昨日帰宅時間を訊かれた際、定時と答えてしまったばかりに、鯉登さんはずっと俺を帰りを待っていたことが伺える。
俺は持っていた紙袋の持ち手を強く握りしめた。くしゃりという音が微かに聞こえた。
「あの、鯉登さん……っ」
せっかく綺麗な状態で渡そうと手で持っていたはずなのに、このままでは俺が潰してしまいかねないと思った。
「遅くなってしまってすみませんでした。実は買い物をしてまして、デパートが思いの外混んでいて帰宅が遅くなりました」
「あー今日は混むだろうな。なんせバレンタインだ」
鍋から皿へシチューを移しながら鯉登さんがくすりと笑う。
「取引先か何かへの菓子折りでも買っていたのか?」
鯉登さんもまさか俺が人でごった返している催事場へ行ったとは夢にも思わないだろう。
「あの、これ、渡すタイミングとか俺よくわからなくて」
どういう顔をして渡せばいいのかもわからず、俺は下を向いたまま赤いりぼんがハートの形で印字されたデパートの袋を鯉登さんへ渡した。
「チョコレートです。果物が入ってる。流行りとか美味いやつとかよくわからなかったので、前にあなたが言っていた好みに近しいものを選びました」
何が普通なのかわからない。
「月島が……私に?」
恋人同士の付き合い方などわからない。
「貰っていい……のか?」
「勿論です!」と答えると、紙袋を掴む鯉登さんの手から興奮が伝わってくる。
顔を上げてみると、耳まで赤くした鯉登さんの目がキラキラと輝いていた。
キッチンは元々一番明るい電灯を使っていたが、その目の輝きは人工的な光よりも一層眩しく輝いていた。
じっと紙袋を見つめて何も言わない鯉登さんに俺は思わず恋人の名前を呼び声を掛ける。
「き、聞いてる!大事にする!」
「いや食べてください」
食品なのだから賞味期限何に口に入れてくれ。
「大事に食べる!!」
紙袋を胸にしまい本当に大切そうに抱きしめる姿に、
「ありがとう、月島!」
これが『正解』であったことに胸を撫で下ろした。
だが同時に自覚の足りない自分の不甲斐なさにため息が出る。
あのまま今日が大事なイベントだと気付けないままでいたら、
「鯉登さん、すみませんでした、俺の自覚が足りず。次はもっとうまく立ち回ります」
この笑顔に出会えなかったかもしれない。
「俺が『女役』なんですから、こういうことは俺の役目でしたね」
俺は失望されていたかもしれない。
「シチューですか?美味そうですね。俺、運びます」
温め直されたシチューには肉や野菜がたくさん使われていて、白米の美味そうな匂いもする。
食卓にはパンも置かれていたが、飯の好きな俺のためにわざわざ炊いてくれたのだろう。
このひとのそういう処に俺は……。
真っ白な皿の縁に手をかけた時だった。
「それは……どう言う意味なんだ月島」
その目が、声が、表情が、彼かと疑ってしまうほど動揺と不安に満ちていた。
「……え……」
おかしい。そんなはずはない。だって俺はちゃんと『正解』の行動をしたはずなのに。
先程まであんなに喜びで破顔していた恋人が、今はすっかり色を失った花のようにこちらを悲しそうに見つめていた。
「お前が私にこれをくれたのは……本当にそう思っているからなのか?」
その通りだった。けれど「うん」とは言っていけない雰囲気だ。
俺は何を間違えたのだろう。
「すみません、気に障ったことがあったのなら謝ります。俺、こういうことは不得意で」
だから。
「違う」
だからそんな顔しないでください
「違うんだ月島!」
間違いだったなら教えて欲しい。俺の何がいけなかったのか。悪いところがあるなら教えて欲しい。
「お前はどうしてっ」
貴方にはいつも貰ってばかりだから。こんな俺を愛してくれた貴方に少しでも何か返したかっただけなのに。
「いや、私にも非はある……」
高まり膨らんでいた感情を鯉登さんは爆発させることなく、自分の胸にしまい込むように目を両手で覆い、大きな大きなため息を一つした。
吐かれていく空気の中に俺への憎悪は一切感じられなかった。それがまた悲しかった。
俺を嫌いなわけでもなく、憎いわけではない。ならどうしてこんなにも心が冷えていくのだろう。
「ありがとう月島」
肩に触れられた掌はいつものように何も語り掛けてくれない。
「チョコレート、本当に嬉しかった」
言葉が軽く耳を過ぎて風になる。
俺は両手に持っていた皿を落とさぬよう必死に指に力を入れ、押し寄せてくる感情の波に唇を噛んで耐えていた。
その日の夕食は食器の音だけが響く、同棲を始めて一番静かな夕食になった。
続