きみに苺をあげるとき 私には十歳以上年の離れた兄がいる。兄は温和で優しい人だった。陶器のように白い肌だったが背が高く剣道で鍛えあげられた筋肉がしっかりとおりとても頼りになる人だった。
幼少の頃より可愛がってもらい、成人後も一人の人間として尊重してもらうこともあったが時折昔の癖が治らないのか未だ子供のように扱われることもあった。
そういえばこんなことがあった。
私がまだ小学校低学年の時、剣道の県大会で惜しくも二位だったことがあった。敗因は明確だった。私は頭に血が上ると冷静な判断ができず、つい突っ走ってしまうところがある。
試合中私は自身を驕り、相手のフェイントを見抜けず腕を振り上げてがら空きだった胴に見事一本を決められてしまったのだ。私は動揺を隠せず落ち着くこともできず、勝たなければという焦りだけで走り出した結果先程より綺麗に面を決められてしまったというわけだ。
授賞式を終え帰り道の途中、応援に来ていた母に『惜しかったがね』と言われたが慰めにはならなかった。いつも剣道の大先生に注意されていることを私はすっかり忘れて、ただただ勝つことだけに執着してしまったのだ。自分が情けなくて、勝てなかったことが悔しくて、でもせめて泣くものかと歯を食いしばって帰宅した。
汗だくになった体を母に風呂場で丁寧に洗ってもらいながらも、頭は先程の試合のことでいっぱいだった。風呂から上がると、図書館に行っていたはずの兄がいつの間にかリビングにいた。
『音之進、試合おやっとさぁ。腹減っちょっじゃろ?ケーキ買うてきた』
兄もまた同じ大先生の元で剣道を習う同門のため、兄の剣道の強さは知っていた。だからこそ今日の試合には来ないでと自分から頼んでいたのだ。その兄が母から県大会の結果を聞かされていないわけがない。いつか兄のように強くなりたいと日々願っていた。兄は県大会でも何度も優勝している実力を持っていたのだ。
兄様はきっと呆れているんだ……。
県大会のことについて何も言ってこないのは自身より実力の低い弟を憐れんでいるんだ。だから何も言わないんだ。と当時の私は卑屈になっていた。
箱から取り出されたのは真っ白なクリームを纏った苺のショートケーキだった。スポンジの黄色が卵の黄身のようで、真っ赤な苺がてっぺんに輝いている。まるで冠のようだと思った。
『新しゅうできたケーキ屋ん苺ショートケーキがうんめかち聞いて買うてきたんじゃ。音之進、苺好いちょっろう?』
『うん』
甘くてふわふわで時折苺の酸味が混じるケーキを食べていると、ふつふつと色んな感情が溢れ出てくる。
我慢してたのにと奥歯を噛み締めても、喉の奥から混み上がってくる悔しさを止めることはできない。
これ以上兄様に失望されたくないのに……っ!
湧きが上がってくる感情は体の許容量を超えように涙として溢れていく。
ぽろぽろと流れていく涙が鬱陶しくて袖で拭っても出ていくばかりで止むことを知らない。
勝ちたかった。勝って、兄様に優勝メダルを見せたかったのに。
貴方の弟は優秀なのですと皆が認めてくれた証明をしたかったのに。
ころん……と苺が転がる。私の苺はまだケーキの上に乗っていた。
『これ兄さあの苺……』
『うん』
『おいがたもってよかと……?』
『うん』
そう言って頷く兄はとても温かな笑みを浮かべていた。
幼心にどうして兄が自分の苺を他人に与えて喜んでいるのか不思議であった。しかし兄が素晴らしい人間であることだけは子供ながら理解できた。
次は必ず勝ちたい勝たなければとそれまで以上に練習に励み、翌年の県大会優勝し全国大会にも出場できたのは良い思い出であった。
そんなこともあったな……。
思い出すきっかけなんて些細なもので、私は今ケーキ屋のショーケースに並ぶ苺のケーキを見てそんなことを思い出していたのだ。
多種多様で色とりどりのケーキを前に恋人の月島の好みを思い出していたはずなのに、ショートケーキを見た途端、思い出に浸ってしまっていた。
「すみません、モンブランとオペラと」
テキパキとケーキをトレーに運ぶ店員にちらちらと目の端に映って仕方がない思い出のケーキの名前も告げた。
「……あと苺ショートをください」
店内も混み始めてきたので私はいそいそと支払いを済ませてケーキ屋を後にした。
月島と同棲しているマンションへ帰ってくるとリビングの方から灯りが差しているのが見えた。部屋着に着替えリビングへ向かうとソファでくつろぐ月島と目が合う。
「おかえりなさい。夕飯温めますね」
「月島は?もう食べたのか?」
キッチンから火をつける音が聞こえてくる。
「あなたと一緒に食べようと思って待ってました」
そのぶっきらぼうな言い方と相反する心根の優しさに思わず後ろから抱きしめた。
夕食の後、冷蔵庫からケーキを取り出している間に月島が茶を用意してくれる。ふわりと香るアールグレイ、私の好きなメーカーの銘柄だった。
「ありがとう、月島はどれがいい?」
ケーキを見比べることもなく月島は「先に選んでください。俺はなんでもいいので」と素気ない回答をされる。
「……では」と選んだのは子供の頃から好きな苺のケーキ、月島は甘さと苦さを楽しめるオペラを選び、余ったケーキは冷蔵庫へと戻す。
二度目のいただきますと二人でした後、向かいに座る月島が豪快にケーキにフォークを刺し口へと運ぶ。ふと目がと目が合うと、感想を求められていると思ったのか「甘いです。うまいです」と味の感想を述べられた。
月島らしい感想に噴き出しつつ、私はまだ使ってないフォークでケーキの一番上に鎮座した赤くて綺麗な苺を月島にあげた。
月島はびっくりしたようにしばらく固まった後、何故?とでも言いたげに私の顔をまじまじと見つめてくる。
「いいんですか?」
「いいんだ、私がお前にあげたいんだ」
そんなに意外か?と訊ねると、いえ……なんか……ありがとうございますと綻ばせた月島の口元がなんとも愛おしい。気恥ずかしいのか、その頬は赤く染まっている。
「あなたには貰ってばかりですね」
「そんなことはないぞ!夕飯、美味しかった!」
今夜の夕食は生姜焼きだった。生姜焼きは疲労回復に、副菜のほうれん草の胡麻和えは貧血防止に良いと聞く。
先程淹れてくれた紅茶も私が好きなメーカーのものを月島がわざわざデパートへ行って買ってきてくれたのを知っている。
月島が作ってくれるものの中心には必ず私がいる気がするのだ。
小さい頃の思い出として、私に苺をくれた時の兄の気持ちがほんの少しだけ分かったような気がした。
私もまた口にケーキを運ぶと生クリームのくちどけの良さと苺の甘さが相まって口いっぱいに幸せが広がっていく。
今まで食べたどのケーキよりも美味しい気がした。けれどやはり一番は兄からもらったあの苺ケーキが一番好きかもしれない。
ケーキを食べ終え、洗い物をすべて済ませた私はケータイの電話帳から兄の名前を探した。
なんだか声が聞きたくてたまらない。
「特に用事ちゆわけでもなかとじゃが」
兄はあの頃となんら変わらぬ優しい声で「どげんした音之進?」と問いかけてくれるのだった。