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    えのもとゆえ

    @lastella_kt
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    えのもとゆえ

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    壮年鯉月です🎏🌙

    鳴なる神の少し響とよみてさし曇り雨も降らぬか君を留とどめむ
    ― 雷が鳴って空が曇ってきた。雨でも降ってくれないだろうか。そうすれば貴方を引き留められるのに。

    なるかみの 朝から降る長雨に耳を傾けながら、俺は膝上に置かれた頭をゆっくりと撫でる。雨で整髪剤は落ちてしまってもしっとりとした黒い髪が指の間を滑っていく。普段は威厳を示すように撫でつけられ長い前髪が額を覆っている。こうして見ると年齢よりも若く見え、閣下がまだ少尉と呼ばれていた頃を思い出す。
     未だ面影を残しているだなんて……。
     出会ってから数十年経ってもなお若葉のような青年時代の『鯉登少尉』に思いを寄せている自分に気付き、懐かしさに胸の奥が焼ける。月島軍曹としてお側に仕えられ共に過ごせた時間は短かったが今ではかけがえのない思い出としてそっと胸にしまっていた。この焦燥はその懐旧からきていると思うと随分老けてしまったものだと自然と自嘲が零れた。
    「なんだ月島……随分機嫌が良いではないか」
     嬉々として見上げた目から逃げたのは少々罪悪感が疼いたからだ。
     昔の貴方の面影にどきりとしたなんて口が裂けても言えない。
    「そうですね、こうして貴方とゆっくりできるのはとても久しぶりですから」
    「お前には苦労ばかりかけているな」
     伏せた長い睫毛が影を落とす。俺は「いいえ。ご立派になられた証拠ですよ、鯉登閣下」と長い前髪が目の中に入らぬよう手の甲で優しく払う。
    「せっかくできた休みだ、上野の方へ出掛けれればと思ったがこの雨ではな……」
     本来であれば今日は他聯隊との共同軍事演習の日であったが、雨天のため中止となったのだ。
    「雨じゃ砲弾は使えん。その上火薬や弾薬が勿体ないそうだ」
     全く笑えん冗談だと閣下は乾いた笑みを浮かべる。
    「晴天の中で行う演習などなんの意味があるのか。嵐が来ようと雪が降ろうと始まってしまうのが戦だ」
     鯉登閣下は幸いなことに国と国とがぶつかり合う激しい戦地に赴いた経験はない。しかし暴動の鎮圧や市街の衝突には何度も立ち会ってきた。世間的にも隠ぺいされているがアイヌの埋蔵金を巡って起こった紛争では多くの命を失った。その中心には現役軍人だった俺も閣下もいたのだ。
    「上層部はなにもわかっていない。安全な場所から駒を動かして机上遊戯をしたところで、割を食うのは実際に武器を取り地を駆ける兵士だということを。
     金をケチるくせに、兵士の命は惜しまない。その上、人の命と砲弾や銃弾を天秤にかける始末、そんなもの火を見るよりも明らかであるのに……っ」
     あぁと俺は合点がいく。
     雨に濡れながら帰宅した閣下が疲労の色が濃かったのはこれだったか。
     大方上層部のお偉い連中から散々嫌なことを聞かされたのだろう。
     閣下の着替えを手伝った際、複数の銘柄の煙草の匂いが混じっていたようだった。閣下は煙草を呑まない、ということは煙草を呑んでいた者達に囲まれていたのだろう。
     怒りに悔しさに紫の瞳が燃えていた。その表情を見るだけで、上官達の前で冷静さを貫き通してきた閣下の覚悟を見た。
     本当は腸が煮えくりかえりそうなほどの憤怒を抱えながらも、涼し気な目元で上官と言葉を交わしていたのだろう。
     ここで自分が怒っては命を差し出してでも自分を信じ、付き従ってくれる部下達に顔向けできない。
     閣下を支えていたのは上に立つものとして矜持だ。
    「そんな貴方だからこそ、部下の方々は救われていると思いますよ」
     怒りで震える拳にそっと手を重ねる。俺の手はすっかり衰えもはや軍人として価値はないけれど、こうしてこの方の手を包んでやることはできる。

    ―― 雷神の少し響みてさし曇り雨もふらぬか君を留めむ

     子供達に万葉集の和歌を教えている時、ふとこの歌を詠んで俺は閣下を思い出した。
     けれど同時に閣下は雨などでは足を止めない男だと確信していた。
     何故なら鯉登閣下は……鯉登音之進という男は……。

    「貴方は龍のようなお方です。例え雨が降ろうと雷が鳴ろうと、立ち止まることのない真の強さをお持ちです」

     そんな貴方を……。
     そんな貴方だからこそ、心から貴方をお慕いしているのです。

     一瞬の沈黙の後、閣下がふっと笑う。

    「それは少し違うぞ月島」

     口の端に少しだけ意地悪そうな笑みを浮かべながら、低く、俺の耳元で呟く。

    「どんな立派な龍でもな。もし愛おしい月に『私のためにここにいて』と頼まれたら、龍は喜んでずっと夜空を駆けていくだろう」

     言葉の意味をゆっくり飲み込む。夜空に浮かぶ欠けた月の周りを龍が飛び回る光景はとても美しかった。
     紫色の鱗がきらきらと月の光を浴びて輝き、立派な髭を持った龍は満月とは決して言えない不完全な月を愛おしそうに眺めている。広くて暗い夜空に浮かぶ月が孤独にならないように。
     夢物語のような光景が温かくて嬉しくて俺は静かに閣下に微笑む。

    「たとえ月が地平線へ沈んでも、貴方なら追いかけてくれそうですね」
    「あぁ、お前がいてくれと望むなら地の果てでもどこまでも」

     庭に咲いた紫陽花が雨に揺れながら、仲睦まじい龍と月をいつまでも見守っているのだった。
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