温泉にいくわちゃわちゃ鯉月(原作軸)どこそこに刺青の囚人がいるだの、樺太だのと。思えば、色んなところへ共に職務のため移動したものだが。こんな私的に二人で移動するのは初めてのことだろう。
二人分の休暇届を出し、職務から二人揃って離れるのが心配なのか、後ろ髪をひかれるような様子の月島の背中を押して旭川を後にした。汽車に乗ってしまえば諦めがついたのか、切り替えたらしい。月島は落ち着いた様子で窓に流れる景色を眺めている。
「楽しみだな」
試しにそう声をかけてみる。
「……はい」
すると、そう返事が返ってきたので。鯉登はにんまりと笑って月島と同じように窓の景色に視線を向けた。
そんなわけで。道中、鯉登はわかりやすく、そして月島は密かに。共にご機嫌であった。
そしてたどり着いたのは温泉街。そこで一番大きな宿を予約していた。老舗のような雰囲気がありつつも、その実新しく大きな玄関を潜り、宿帳に記名をする。女将に部屋まで案内され、一通りの説明を受けて女将が退出したのを見届けると。鯉登は勢いよく立ち上がった。部屋に入ったときからそわそわしていたのだ。女将が喋っている間、月島の視線を感じていたので。落ち着きなさい。とでも思っていたことだろう。
立ち上がった鯉登を見上げる月島の腕を掴んで一緒に立たせると、部屋の奥に案内する。
「見ろ!月島っ」
それはもう得意げに手を広げてみせた。どこを予約しようかと調べていたときに、情報を見た瞬間ここにしようと決めた宿だったのだ。ここに月島を連れてこようと。
一番のおすすめポイントであるところへ月島の腕を引いて連れてきた。
「……っ!」
月島は目を見開いて驚いてみせている。
「な……なんですかこれ!」
興奮した声で鯉登を見る月島の表情に。どうやら反応は上々のようだと、鯉登は口角を上げた。
「私たち専用の風呂だ。いつでも好きな時に入れるぞ」
今、自分たちがいるのは、今回泊まる温泉宿の中で一番料金が高い部屋。そして目の前に広がるのは、この部屋が高い理由である露天風呂である。大きな桶のような浴槽が大きな窓を開けた先にあり、浴槽には掛け流しで絶えず源泉が流れ込んでいる。浴槽の向こうには綺麗に連なる山並みが見えた。
「なんて贅沢な……」
月島はおそらく、部屋に露天風呂がついているなんて想像もしていなかったのだろう。きょろきょろと風呂を見渡している。そう思って、鯉登もあえて露天風呂のことは言わなかったわけだ。ちょっとしたサプライズのつもりである。
「たまにはいいだろう。無礼講だ。月島にはいつも世話になっているし、日頃の礼だ」
金塊争奪戦が終わって鶴見中尉がいなくなり、残された月島も自分もこれまで馬車馬のように働いてきた。少しそれも落ち着いてきた今、慰労もかねて温泉にでも行ってゆっくりしようでははないかと声をかけると、少し逡巡したあと一瞬だが僅かに笑顔を見せた。よしならばと、あとは旅行の準備をうきうきと進めて本日に至る。
月島が風呂を好きなことは前々から気づいていた。……そのせいで鯉登には少々困っていることがある。その対策としても、部屋に風呂がついているというのは、実は好都合なのだ。
「あ……有り難うございます」
やはり風呂が好きなのだろう。月島は満更でもなさそうである。
「さっそくはいるか?」
長い旅路の疲れを癒すのにも丁度よい。そう思ったのに。
「はい。風呂にははいりますが、まずは大浴場へ……」
月島はそういって、せっかくの露天風呂に背を向けてしまったではないか。
「は?ここに風呂はあるぞ」
目の前に風呂があるのに、何を言っているんだ。何のためにあると思っているのか。部屋に風呂があるんだぞ。月島が何を言っているのかわからず、目を丸くしてしまう。
引き留められた月島は。一度向けた背を元に戻し、鯉登に視線を向けた。
「ここはあとです。食事のあとでゆっくり浸からせて貰います。大きい風呂は大きい風呂ではいりたいので」
風呂は身体を洗うことが主目的である鯉登にとって、まったく予想していなかった返答である。
「同じ風呂だが」
確かに、ここにある部屋風呂は大きくはない。大きい必要もない。部屋にいる者しか入らない風呂なのだから。男なら二人、女子供なら三人ぐらい入れるかというサイズだ。
とはいえ。ここも大浴場も、風呂は風呂だ。湯は同じ温泉。
鯉登としてはどれかに浸かればそれでいいし、大きい宿の一番奥にあるこの部屋から、わざわざ遠い大浴場に行く理由はない。
「雰囲気が違うじゃないですか」
けれど、月島にとっては違うらしい。
「大きい風呂なら、兵舎の風呂もでかいだろう」
「あんなすし詰め風呂と一緒にしないでください」
月島は、何を言っているんだと言いたげである。それはこちらも同じだ。部屋に風呂があるのに、別の風呂に入ると言い出すとは想定していなかった。
「別に貴方は来なくてもいいですよ。一人でさっとはいってくるので」
挙げ句の果てに月島がそんなことを言うので。慌てて返す。
「そ……それは駄目だ。行くなら私も行くっ。……が、疲れたし、ここにあるからここでいいと思うんだが」
長風呂の月島が風呂に行ってさっと戻ってくるとは思えないし、そもそも鯉登としては行って欲しくないので。出来たら止めたい……けれど。難しいか。
思わず呻き声を上げそうになるのを耐えていると。
「どうしたんです。何かあるんですか」
妙に食い下がってくる鯉登を、不思議に思い始めたらしい。月島が一歩近づいてきて、見定めるように間近で鯉登の顔を見上げてきた。
「言いたいことがあるなら、はっきりおっしゃい」
「……うっ」
ぐっとさらに月島が近づいてくる。
出来たら本人には言わずに、さりげなく回避をしたかったのだが。観念するしかなさそうだ。
「その……」
「はい。なんですか。ほらっさっさと言う」
「……月島の」
いつのまにか月島が口づけ出来そうなぐらい近いことに気づき。一呼吸置いてから一歩下がる。
「湯に浸かっている月島を、他んやつらに見られよごたなか」
観念して、正直な気持ちを述べたのにも関わらず。
「……はい?」
きょとんとした顔で見つめられた。
「すみません。意味がわかりません」
もちろん。つい出てしまった薩摩弁が分からなかったわけではないだろう。月島ならこの程度は聞き取ってくれる。純粋に意図が伝わっていないのだ。
「なんで分からんのじゃ。わかれ」
「はあ……」
少しだけ考える素振りをした月島は。
「やっぱり分かりません」
そう言うので、鯉登はがっくりと肩を落とした。
「きさんは自覚が無さ過ぎる」
そうなのだ。色んな意味で自覚が足りない。
間抜けな顔をしおって。と、鯉登は溜息をついた。
温泉に月島を連れて行こうと思いついた時に。思い出したことがある。もうかなり以前のことになるのだが、鯉登は聞いたのだ。とある上等兵が言っていたのを。
鯉登達将校は別として。普段の兵舎での生活において風呂は、始めに特務曹長を初めとする下士官の入る時間が決められており。その後に兵卒の順になっている。階級的に軍曹である月島は最初に風呂に入れる立場だが、兵卒達の時間になってもまだ浸かっていることがよくあり。自分達が風呂にはいろうとすると一人で頬を染めて気持ちよさそうに浸かっているのだと。
軍曹殿は気にせず入れと言うが、こちらとしては気を使うので鯉登少尉からそれとなく言っていただけないかという相談だったわけだけれども。現場は、将校である鯉登には、入る機会のない大風呂。もしも自分がはいれば、月島以上に気を使われ顰蹙をかうものだ。そう言われても様子を見ることは出来ない。
気になった鯉登は、ある逢瀬の夜。自宅の風呂にて、いつも自分から入るところを、月島を自分より先に入らせ。本来なら月島を待って順番に入るわけだが、それを待たずに途中で自分も入ると言って無理矢理一緒に入ろうと試みた。
風呂の扉を開けると、月島が頬を染め惚けた顔で湯に浸かっている。湯の温かさにまどろんでおり、素っ裸の鯉登の進入にもすぐには気付けなかったぐらいである。
「……あ。……え。鯉登少尉!?」
少しの間をおいて、わたわたと今更慌てている。月島が動くのに合わせて、浴槽の中の湯の水面が揺れた。
「ずいぶん気持ちよさそうだな月島」
けしからん。こんなのを兵卒どもに見せていたのか。
「すみません……一番風呂なんて嬉しくて」
「いや。それは全然いい」
そう。今はいい。
今、ここには自分しかいないから。
風呂が好きなことは良いのだ。ただ。
こんな月島を見れるのは、自分だけであって欲しい。
「ちょ……入るんですか!?」
「あけろ」
浴槽に足をつっこみ、月島を端に追いやる。ざーっと鯉登の体格分の湯が浴槽から溢れ出た。それを勿体ないと思っているかのように月島が見つめている。
ぴったりと肩をくっつけ風呂に浸かった。こうやって改めて見ると、やはり月島は自分と比べてだいぶ肌が色白い。鍛え抜かれた体躯にはアンバランスなほどに。
だから、湯に火照るとわかりやすく顔に出る。風呂に浸かっているから、良い感じに力が抜けていて。どことなく色気がある。けしからん。
「なんなんです。……まさか、ここでおっ始めないですよね」
そんなことを言う顔も。まったくもって、けしからん。
「こんな狭いところでするか。……風呂上がってからだ」
狭いせいで、身体が密着する為。ちょっとそういう気にはなるけれど。今はまだ気持ちを抑えておく。
「じゃあなんです。これ」
兵卒達が気を使って困るなんて話は、もはやどうでも良くて。こんな月島は自分しか見てはいけないので。
「ちょっと相談されただけだ」
よく注意しておかなければ。鯉登は月島に、風呂の時間は守るようにと湯に浸かりながら伝えたのだった。
少々長くなったが。
まあとにかく。そんなことがあったので。
今回の月島と二人温泉旅では。部屋に風呂があるこの部屋にしたのだ。なのに。不特定多数のいる大浴場にいったら結局同じではないか。
ということを、切々と月島に語ってみせた。月島はぽかんとした顔で鯉登の言うことを大人しく聞いていた。呆れて声も出ないだけかもしれないが。
「というか、最近は守っているのか。風呂の時間」
そういえば。と、最後にそう言うと。
「え……それは……」
すっと目を逸らされる。これは絶対に守ってないな。先程もすし詰めと言っていたし。相変わらず時間を過ぎても兵卒達に囲まれながら浸かっているのだろう。
「入るのが遅くなってしまった時とかはどうしても……」
ばつが悪そうに言い訳をされてしまった。
「ほんのこて風呂好きじゃな」
風呂が好きだからこそ温泉に誘ったので。それはいい。あとは思う存分、長風呂してくれたらいいのである。
この部屋で。
「そうです。なので、ここの風呂はここの風呂。大浴場は大浴場なんですよっ」
なのに月島に力説されてしまった。
「……くっ」
前のめりな珍しい様子につい気圧されてしまう。こいつは風呂と米に対してだけは熱い情熱がある。
「せっかく温泉に来たのに。はいってない風呂があるなんて、許せません」
そういうものか。鯉登にはよくわからない。けれど月島には折れる気配が微塵もない。それに、月島の為に連れてきたのだから月島が好きなように過ごして貰いたい気持ちも当然ある。
仕方がない。
ここは上官ではなく恋人として、自分が折れてやろう。
「わかった。行こう。大浴場」
「……!」
ぱあっと一瞬、月島の顔が明るくなったのに。
「私が壁になる」
「……邪魔なんでやめてください」
何故か、いつもの顔に戻ってしまった。なんでだ。
こちらから折れるのだから、月島を見られたくないという気持ちも多少汲んでくれないだろうか。
「あと、兵舎での風呂の時間は守れ。むざむざ兵卒達にお前を見せてやることはない」
こうなったら言いたいことは言わせて貰うかと、鯉登は念押しで月島に言う。溜息をついて、月島が口を開いた。
「誰も貴方の思っている意味で私には興味ないと思いますが。気を使わすのは本意ではないので気をつけます」
伝わっているのかいないのか。いや。あまり伝わってないなこれは。
次は鯉登が溜息を吐きたくなったが我慢する。
「で、ここには気を使われる兵卒達もいないので。堂々と風呂いってきます」
「あ!コラっ」
今度こそ完全に踵を返してしまった月島は、先程女将が説明していた浴衣を置いてある場所に一直線で歩いていき、さっさと浴衣を手にしている。
「鯉登少尉はどうしますか。別に面倒であれば私一人で良いですよ」
そう言いながらも。抱えている自分の分とは別に、もう一着分の浴衣を差し出している。
せっかく二人きりでの旅なのだから。一人より二人で。という気持ちは持ってくれているらしい。
「いく!なんで一人でここで待っちょかないけんのじゃ」
それはもちろん、こちらも同じくのだから。行くに決まっている。
「じゃあ行きましょう」
なんだかんだ温泉が嬉しいのだろう。機嫌の良さそうな顔の月島から浴衣を受け取る。
「ただ、壁は不要なので。せっかくの温泉の雰囲気を台無しにしないでくださいね」
「……わかった。善処する」
壁が駄目なら、番犬になるか。よからぬ輩の視線を感じたら牽制してやろう。
そう鯉登が心の中で誓っていることなど。
もちろん月島は露ほども知らない。
まだ一泊二日の温泉旅は始まったばかり。
了
のちほどエピローグ的なもの(壮年鯉月)を加筆修正してpixivにアップ予定です!