リップクリームの行方 今日も厳しい補講を乗り越えた轟と爆豪。そしてそれを見守っていたオールマイト。
専用バスの広い座席にオールマイトを挟むように、爆豪と轟がオールマイトの隣にそれぞれ座り、帰りのバスに揺られていた。
オールマイトと轟は、いつものように和やかに話をしている。
そんな中、オールマイトが何かに気づいたように言った。
「おや轟少年、唇が少し乾燥しているんじゃないかい?」
「そう、ですか?」
爆豪は聞こえてくる会話に興味が無く、窓の外を見ていた。
轟は舌を出し、唇を舐めようとする。
「舐めると余計に荒れてしまうよ」
やんわりと轟の行動を止めるオールマイト。
「ちょっと待ってね」
そう言って、オールマイトはポケットを探り始めた。
聞こえたやりとりに、爆豪は嫌な予感がした。
そして、その予感は的中することとなる。
何となしに爆豪は二人の方に顔を向けると、オールマイトはポケットからリップクリームを取り出して、ニコッと笑いながら言った。
「轟少年、はい『うー』」
オールマイトの言葉に、轟は素直に従い「う」の形に唇を突き出す。
そしてオールマイトは、轟の顔に手を添えて、そのままリップクリームを轟の唇に優しく塗り始めた。
「はぁ!?」
それを見た爆豪は絶句する。
轟はごく自然に何の疑問もなくリップを塗ってもらい、少し擽ったそうにしている。
「んん……」
甘くもない、気取ってもない、単に擽ったがっているだけの反応。
しかし、爆豪にはそれが、どうしようもなく目障りだった。
「ふふ、擽ったい? もう少し我慢してね」
オールマイトが柔らかく微笑む。
その声が妙に穏やかで、優しくて。
(何を、何を見せられとんだ俺は……!!)
爆豪は頭が痛くなった。
オールマイトの指がリップを持ちながら轟の唇をなぞるたびに、轟は擽ったそうに目を瞬かせる。
(何で半分野郎はそんなに当たり前のように塗らせてんだ……! 抵抗とか、遠慮とか、あんだろ普通……!)
そんなものが一切感じられない轟の様子に、爆豪の苛立ちは加速する。
これがクラスメイト同士だったら、気色悪いだけで済んだかもしれない。
しかし、相手がオールマイトとなると話は変わってくる。
爆豪は拳を握りしめ、目の前で繰り広げられる光景をただ耐えるしかなかった。
「はい、いいよ」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
にこりと微笑み合う二人。
「…………」
そんな和やかな二人に爆豪の思考は完全停止する。
リップクリームを轟に塗った。
オールマイトのポケットから出てきたということは、それはオールマイトのもので。
つまりそれは、普段オールマイトが使っているということで。
ということは。
(関節キスじゃねぇかクソがァァ!!)
一連の流れを理解した爆豪の頭が噴火する。
「薄く塗っただけだから、後は自分でならしてね」
「ならす……?」
きょとんとした顔で聞き返す轟。
「うーんと、こうやって」
そんな轟に、オールマイトは優しく微笑みながら続けた。
そして、その瞬間。
んぱっ♡
ほんの一瞬、柔らかく、少しだけ湿った音がバスの中に響く。
「ッ!?」
爆豪、硬直。
(な、な、な、何しとんだァァァ!!)
先程の音が無駄に甘ったるく聞こえて、大した音じゃなかったはずなのに、耳の奥で反響するような錯覚に陥る。
「ッ……!!」
健全な思春期男子にとって、そんなリップ音ひとつが、やけに色っぽい気がして、鼓動が跳ね上がる。
一方、轟はオールマイトの手本を見て、真似をするように「んまんま……」とぎこちなく唇を動かしていると、ふわりと優しい桃の匂いが香る。
「……これ、いい匂いですね」
「だろう? 最近のお気に入りなんだ♪」
(女子か!!)
爆豪の脳内で即座にツッコミが炸裂する。
(いい歳した男だろ! 何で香り付きのリップなんて持っとんだ!!)
だが、なぜだろう。オールマイトが香り付きのリップを使ってても、そこまで違和感を感じない。むしろ、納得してしまう。
普段なら、男がそんなものを持っていたら即座に「きめぇ」と切り捨てるところなのに。
オールマイトだと、「まぁ、あの人ならあり得るか……?」と思ってしまう自分がいる。
思い返せば、オールマイトのそういう部分を見たことは何度かあった。
例えば、昼休み。
弁当箱の包みがうさぎ柄だったのを見たときに「なんでそんなの使ってんだよ」と聞いたら、オールマイトは気にする素振りもなく「これかい? 可愛いだろう?」と笑顔で言っていた。
またある時は、休み時間に女子たちとスイーツの話で盛り上がっていて、「あそこのお店のタルトは最高だったよ!」そう言ってナチュラルに参加していたのを見たことがある。
女子たちも「オールマイトって意外と甘党なんですね!」なんて普通に受け入れて、本人も「スイーツは心の栄養源だからね!」と答えていた。
他の中年男性ならば「うわキツ……」と、ドン引きしているだろうが、オールマイトだと思うと、許せてしまう。
これがウケを狙った作られた可愛さだったなら、話は別だったかもしれない。
だが、オールマイトの場合は何の計算もなく、自然体でそういうことをしている。
そのナチュラルさが、逆に強烈に刺さる。
などと、考えれば考えるほど沼にハマる。
結局、爆豪はオールマイトにベタ惚れというわけだ。
そんな自分に全力で頭を抱えたい衝動に駆られながら、心の中でキレ散らかすのだった。
「気に入ったなら、あとで教えるよ」
「お願いします」
爆豪が人知れず己と戦っている間に、オールマイトと轟の会話が続いていた。
(ナチュラルにお揃いにしてんじゃねぇ!「お願いします」じゃねぇんだよ半分野郎ォ! オールマイトもそんな簡単に勧めてんじゃねぇ! ……ああ、クソ! これ以上考えたら負けだ!)
爆豪が自分の思考を切り替えようとすると、突然オールマイトの声が耳に届く。
「爆豪少年は?」
その声に顔を上げると、こちらを見つめるオールマイトと目が合う。
「爆豪少年は、唇乾燥してないかい?」
「……なッ!?」
爆豪の思考、またしても停止。
(今この流れで、それを聞くのか!?)
だってこの流れだと、自分も轟のように、オールマイトにリップを塗ってもらう展開になる。
(ウソだろ……!?)
そう考えた瞬間、爆豪の胸が昂り、期待する。
オールマイトの手で。
オールマイトのリップで。
自分の唇に……!?
しかし、そこでふと爆豪は気づいてしまった。
(……いや、待てよ。それはつまり、……半分野郎と関節キスになんじゃねぇか?)
高ぶっていた期待も熱も、一気に冷める。
さあーっと一瞬で血の気が引いていった。
(な、なんで俺、今のでテンション上がってた……!?)
さっきまでの淡い期待が、一気に恐怖と嫌悪と絶望に変わる。
「だ、誰がそんなもん付けるかァァァ!!」
爆豪の口から出たのは、魂を込めた全力の叫びだった。
その咆哮に、オールマイトは驚いた顔をする。
「えっ?」
それはそうだ。オールマイトは、爆豪が関節キスだなんだと悩み、今は轟とそうなることに恐怖しているなんてことを知る由もない。
「そんなに嫌がることか?」
オールマイトの肩越しから、ひょこっと顔を出す轟。
(コイツ、誰のせいだと思ってやがる……!)
爆豪の中で、瞬時に轟へと怒りが燃え上がる。
(てめェのせいで俺が今こうなってんだろうが!)
ギリッと奥歯を噛みしめ、轟を睨みつけるが、轟はただ不思議そうに首を傾げるだけだった。
「?」
無垢な表情が余計に腹が立つ。
爆豪の葛藤も、自分との関節キスを恐れていることも、何ひとつ理解していない。というか、わかるはずもない。
ただ純粋に「リップを塗ることがそんなに嫌なのか?」という顔をしている。
強く拒絶してしまって、オールマイトと触れ合えるチャンスを逃したと自覚する爆豪。
(でもアイツとなんて、御免こうむる……!!)
さらば、オールマイトとの甘い時間。
絶賛爆豪の内心で後悔が押し寄せる中、突然オールマイトが大きく声を上げる。
「……あ!」
その声に爆豪はビクリと肩を震わせ、反射的にオールマイトの方を見た。
オールマイトは何かを閃いたような表情を浮かべ、ぽんと手を叩く。
「もしかして爆豪少年、香料強いのが苦手かい?」
「へっ?」
思わぬ質問に、思わず間抜けな声が出る爆豪。
(香料……?)
「ごめんごめん、そうだよね。自分が好きだからって、みんなが好むとは限らないよね」
オールマイトは一人納得したように優しく頷きながら、再びポケットに手を入れる。
「確か、一緒にいれてたはず……」
(おい待て、何を取り出そうとしてんだ……!)
爆豪の心臓に再び淡い期待が灯る。
「じゃーん! 無香料のリップー!」
オールマイトはなぜか誇らしげに、今度は無香料のリップクリームを取り出してみせた。
「ッ!」
爆豪は言葉を失う。
(ちょ、待て……これ、まさか……!)
とある予感が、爆豪の脳内を駆け巡る。
オールマイトは無香料のリップを持ったまま、満面の笑みで言った。
「よかった、これなら爆豪少年も使えるね!」
そう。
「じゃあ、爆豪少年にも塗ってあげよう!」の流れになっている。
(やめろォォ!!)
爆豪の脳内警報、最高潮。
期待に昂って、煩わしいほどに脈打つ鼓動が耳の奥で響いている。
目の前のオールマイトはいそいそとリップの蓋を開ける。
(ダメだ、この人本当にやる気だ……!!)
爆豪の脳内に、いくつもの思考が浮かんでは消えていく。
「貸してもらえれば一人で塗れるわ」
「そもそも別に乾燥してねぇ」
言おうと思えば言えるはずの言葉。
でも、口から出てこない。
なぜなら、微塵も嫌じゃないから。
本当はそれを望んでいるから。
「はい、じっとしててね」
オールマイトの手がそっと、優しく爆豪の頬に添えられた。
「っ……」
温かく、優しく頬を包み込む手のひら。
こみ上げる熱をどうにか押さえ込もうと、震えそうになる手を力強く握り締める。
「あはは、そんなに引き結んでちゃ塗れないよ爆豪少年」
どうやら、爆豪の緊張が無意識に口元に出ていたらしく、口も固く結んでいたようだ。
「『う』ってしてごらん? はい、『う』ー」
轟のときと同じように、子どもに聞かせるように優しく促すオールマイト。
「ッ~!!」
子ども扱いすんな、と言いたい気持ちが込み上げる。
そして、説明するだけでいいのに、自分も同じように唇を突き出すから。
(キス顔になってんだよクソがァ……!!)
それが爆豪にはどうしようもなく破壊力が高い。
逃げ場のないこの状況に、全身の力が入りそうになる。
でも、もう、やるしかない。
爆豪はほんのわずかに、唇を突き出した。
オールマイト相手に、こんなことをしている自分が信じられない。
(だあああッ!! クッソ恥ィ!!)
一体何の拷問だ、と爆豪は思う。
鼓動が速すぎて、なんなら自分の耳の奥で響いている気がする。
(やるなら一思いにやれや……!!)
しかし、爆豪が色々と葛藤しながら待っていても、リップが口に付けられることはなかった。
「……?」
色んな意味で何事かと、そろりと視線を上げるとオールマイトのじっとこちらを見つめる穏やかな瞳と目が合った。
(な、何だ……?)
もしかして、やっぱりやめる気になったのか?
そんな疑問が爆豪の脳内に浮かぶ。
「ああ、待たせてごめんね」
「……?」
「爆豪少年のお肌がすごく綺麗だったからさ」
「はぁッ!?」
理解が追いつかない。
(え? 何?? 今なんつった??)
そう思う間もなく。
すりっ♡
添えられていた手の親指が、ふわりと頬を撫でる。
「ッッ!?」
それは、本当にほんのわずかな瞬間。
けれど爆豪にとっては、すべてが決定的だった。
ただのスキンシップ、ただの触れ合い。
そんなのはわかっている。
オールマイトにとっては、深い意味のない行動なのも、理解している。
でも、わずかに押されるような感覚の後、優しく滑る指に、爆豪は背筋がぞくりと震えた。
「んー、お母さんの個性遺伝子が強いのかな?」
不意にオールマイトがそんなことを言い出し、爆豪の思考は強制的に中断させられる。
「なんっで急にババアの話が出てくんだ!」
爆豪の母・光己の個性は『グリセリン』。
保湿効果があり、肌が乾燥しにくく、そのおかげか、実年齢よりも若々しく見られることが多い。
「いや、爆豪少年の個性は『爆破』だけど、お母さんの個性の影響で、こんなにお肌が綺麗なのかもね」
肌が綺麗だとか、母親の個性がどうとか、そんなのはどうでもいい。
(問題はそこじゃねぇだろ!)
すりすりっ……♡
「ッッ!!」
また、頬を優しく撫でられる。
指の腹が肌の上を滑る感触に、ぞくぞくっと背筋が震えた。
触れられているのは頬だけのはずなのに、全身が熱くなり、爆豪の理性を限界へと追い詰めていく。
「す、るなら、さっさとしろやァ……!」
爆豪は早く終わらせたいわけではなかった。
けれど、もう本当にこれ以上は持たない。
「ああ、そうだった! 待たせてごめんね?」
はっとした顔をして、申し訳なさそうに首を傾けるオールマイト。
あざとい。
狙ってやってるわけじゃないのはわかってる。
本当にただの天然なのも理解している。
でも、許してしまう。
なぜなら、それがオールマイトだから。
「じゃあ、塗るね」
オールマイトはそう言って、リップを爆豪の唇に押し当てた。
何の躊躇いもなく、無遠慮に。
けれど優しく。
「っ……」
爆豪の唇から全身に、電流が走るような感覚が広がる。
柔らかく、なめらかに滑るリップ
その動きに合わせて、わずかに唇が引っ張られる。
この自分の唇に触れているものが、オールマイトの唇にも触れているものだと思うと、全身が茹だるように熱い。
そして無香料と聞いたはずなのに、どこか優しく清潔感のあるいい匂いがする。
それがなんの匂いが気づくのに、時間はかからなかった。
オールマイトが動くたびに、わずかに香るその匂い。
そんなものまで分かってしまうほどの距離の近さ。
それに気づいた瞬間、急激に頭がクラクラしてくる。
(ちょ、待て、これ……ヤベェ……!!)
改めて、距離が近すぎる。
目と鼻の先の距離。
思わずオールマイトの顔に視線を上げて、視界に映ったのは、少し伏し目がちに、自分の唇をじっと見つめるオールマイトの表情だった。
(なんつー顔、してんだよ……)
喉の奥がぎゅっと詰まる。
爆豪の唇にリップを塗る。という、たったそれだけの行為に、驚くほど優しく、真摯な眼差し。
ただ一点、爆豪の唇だけを見ている。
そして無遠慮に触れている、頬を支える大きな掌の温もり。
その手のひらが、何も知らないまま自分の肌に馴染んでいく。
(俺が、あんたに何思ってるか、知らねェくせに……っ)
何も知らないから、こんなにも簡単に触れる。
そして、何も知らないまま、自分の唇に触れたものを、他者の唇に滑らせている。
そんな無防備な神経が、悔しくて、憎らしくて。
けれど、どうしようもなく、甘い。
「はい、おしまい」
オールマイトは満足そうに笑いながら、あっさりと手を離した。
唇に押し当てられていたリップも離れ、ついさっきまで感じていた熱が、薄れていく。
けれど。
頬に添えられた温もりも。
リップが触れた感触も。
すぐそばで感じたオールマイトの匂いも。
全部、まだ残ってる。
オールマイトにとっては、ただの取るに足らないこと。
ただ、轟のついでのこと。
そこに特別な意味なんて無く、たった一人、未練たらしく思っている自分が情けない。
(バカか、俺は……)
奥歯を噛みしめながら、爆豪は俯いたまま拳を握りしめるしかなかった。
「あ、そうだ」
リップの蓋をぱちんと閉めながら、オールマイトが何でもない日常会話のような、軽いテンションで言う。
「よかったらコレ、もらってくれない?」
そう言ってオールマイトから差し出されたのは、先ほど自分に塗られたリップクリームだった。
「はぁ!?」
「いやぁ、実はね?」
オールマイトは少し気まずそうに、苦笑しながら続けた。
「目新しいものが出るたびに、つい買ってしまって、消費が追いついてなくて……。だから、爆豪少年がもらってくれたら助かるな~なんて」
気軽な口調で、にこっと微笑むオールマイト。
今、目の前にあるリップ。
(……これ、持って帰れってのか……!?)
手を伸ばせば、簡単に受け取れる距離。
けれど、受け取ったら最後。
日常的に使うものだ。目につくたびに、使うたびに、オールマイトの指が触れた感触を思い出す。
オールマイトの手の温もりを思い出す。
そして、唇に押し当てられた、あの感覚を思い出してしまう。
そんな日々を、覚悟しなければならない。
「……っ!!」
思わず息を呑む。
「でも使い差しなんていらないかな?」
目の前のオールマイトは、爆豪の葛藤など知る由もなく、ただ純粋に「良かったらどうぞ」という顔をしている。
深い意味は微塵もなく、ただ善意で、余っているからという理由で渡そうとしているだけ。
いるか、いらないか。わかりきった答えだ。
「……しゃーねぇから、もらってやる」
「ほんと? 助かるよ」
オールマイトは、ぱあっと嬉しそうな顔をする。
(ああもう、どうにでもなれ……!)
手を出すと、オールマイトは優しく、ころんと渡し、手の中にすっぽりと納まる。
爆豪は、まじまじと手の中のものを見つめた。
どこにでも売っている、市販のリップクリーム。誰でも簡単に手に取れるもの。
特別なブランドでも、高級品でもない。
だけどもう爆豪には、これはただのリップじゃない。
そう思うだけで、指先がじんわりと熱を持つような感覚がした。
このリップを見るたびに。
店頭に並ぶ同じものを見かけるたびに。
今日の息が詰まりそうになったことを思い出してしまう。
(クソが……)
爆豪は手の中のリップをギュッと握り込む。
冷たいプラスチックの感触に、勢いよくポケットに突っ込んだ。
ポケットの中にあるリップの存在が、熱を持っているように感じられる。
たかがリップクリーム。されど、それは。
(これから毎日、どうしろってんだよ……)
ポケットの中の小さなリップひとつで、ここまで心を乱されてしまう自分が心底、情けなかった。
「よかったな爆豪」
「るっせぇ、黙れ半分野郎」
ポケットの中にあるリップの存在をじんわりと感じながら、まだ自分の中に残るオールマイトの温もりや、触れられた感触、甘い余韻をゆっくり噛み締めたかったのに、轟はそれを許してくれなかった。
轟の呑気な声に、苛立ちを隠そうともしない。
思わずキッと睨む。睨みつけた轟の顔は、なぜかほんの少ししゅんとしていた。
「……?」
一瞬、何でそんな顔をしているのかわからなかったが、見れば、轟はちらりとオールマイトの手元を見やっている。
(……ははーん?)
つまり。
爆豪はもらえたのに、自分には貰えなかったことが羨ましいのかもしれない。
もちろん、轟はそういう意味でオールマイトのことを好いているわけではない。
けれど轟にとっても憧れという存在。
そのオールマイトから、何かを与えられる者がいて、自分にはそれがなかったというのが、恐らくどこか少し寂しいのだろう。
(……ハッ)
爆豪は、その差に気づいた途端、気を良くした。
さっきまで、もらったリップクリームの扱いに困っていたのに。
どうしていいかわからず、戸惑い、動揺していたというのに。
今はそれを自分だけが持っているという優越感が何とも心地いい。
(そうだよなァ、〝特別〟ってのは、そう簡単に手に入るもんじゃねぇよなァ……?)
ポケットの中のリップを無意識に指先で撫でながら、爆豪は口元を歪めるのだった。
実際に言ってやろうかという気持ちが膨れ上がる。
だが、そんなことを言えばオールマイトのことだ、きっと──
「そうだ、轟少年もいる?」
(なんて言い出すに決まっ……)
「え」
「」
轟と爆豪は揃って声を出した。
オールマイトは何の躊躇いもなく、またポケットに手を入れて桃の香りのするリップを取り出す。
「桃の香りというだけでも、色んな種類があってね。だから轟少年もよければあげるよ?」
「なっ……!?」
せっかく手に入れた優越感が、今まさに消し飛ぼうとしている。
「……いいんですか?」
轟がまるで、子どもがプレゼントを目にしたような顔をする。
完全に受け取る気満々だ。
独占感、優越感、満たされた心。
それらが崩れてしまいそうな音がする。
(待て待て待て待て!!)
せっかく自分だけがもらったものなのに。
轟がそれを受け取ったら、もう自分だけのものじゃなくなる。
〝特別〟はたったひとつだからこそ、価値がある。
オールマイトの手が、轟に向かって差し出される。
(やめろ、やめろ……!)
「もちろんだとも! 轟少年も、はいどうぞ」
オールマイトから優しく手渡されたリップを、轟は嬉しそうに目を細めて見つめている。
(っ~! クソがよ!! 結局こうなんのかよ!!)
爆豪の中で優越感も、特別感も、無慈悲に瓦礫となって消えていく。
「ありがとうございます、大事に使います」
轟がリップを手に持ち、素直にお礼を言う。
「はは、そんな大層な物じゃないよ」
何の特別な感情もなく、ただ純粋な親切として、爆豪にリップを渡しただけ。
何の特別な意味もなく、ただ親切心で轟にもリップを渡しただけ。
本当に、それだけだ。
「クソが!!」
何もかもが気に入らない。
素直に受け取って、素直にお礼を言える轟も。
簡単に分け与えて、無遠慮に触れて乱すのに、あっさりと離れてしまうオールマイトも。
どちらも、どちらも、憎たらしい!!
Fin