あんたと君との5年間(仮)③ ロサンゼルスの病院にやって来て、早半年。
爆豪は順調にリハビリ生活を送っていた。
爆豪のケガの回復経過は、こちらの医者たちを驚かせるほどだった。
とはいえ、リハビリは軽いものから始まり、限られた時間しか許されない。
握力の回復、関節の可動域の拡張、細かな筋肉の再構築。
どれも一歩一歩、慎重に進める必要がある。
それらを黙々とこなしていく一方で、爆豪の目には、どこか焦燥が滲んでいった。
リハビリとオンラインの講義以外の時間は、けして空白ではない。
爆豪は自ら病院の軽作業を買って出た。
廊下の清掃、備品の整理などの簡単な手伝い。
汗を流しながら、単純な労働に没頭する。
時間を無駄にすることを、爆豪はよしとしない。
自身がどんな状態であれ、無為に過ごすことなど爆豪自身が許さなかった。
それを努力と呼ぶべきか、焦りと呼ぶべきか。
日本の元クラスメイトたちの近況が、SNSやグループチャットを通じて目にし、耳にするたびに、爆豪の胸にじわじわと侵食するものがある。
彼ら彼女らはそれぞれ、既に新しい道を歩み始めている。
学業とインターンを両立してる者、すでにどこかの事務所のサイドキックとして現場を走り回る者もいる。
なのに、未だ自分は。
焦燥感が、胸の奥で渦を巻く。
握った右腕の拳が、未熟さを突きつけるように痛みを走らせる。
「やあ、爆豪少年」
そんなある日。病院の清掃活動を手伝っていると、通りがかりのオールマイトが声をかける。
その声に、爆豪はハッと顔を上げた。車椅子に座った彼は穏やかな笑みを浮かべている。
オールマイトは暇なのか、爆豪を気にかけているのか、爆豪の病室にもよく顔を出していた。
「今日もお手伝いしてるのかい? えらいね」
その言葉に、爆豪は拗ねたような顔をする。
「やめろ、ガキじゃねンだ」
ぶっきらぼうな声には、苛立ちが滲んでしまう。
オールマイトは一瞬きょとんとした顔をし、すぐにふっと優しい笑みを浮かべた。
「そうじゃなくてね。ヒーローとして、さ」
「あ?」
オールマイトの言葉に、爆豪は顔を上げる。
「ヒーローっていうのは、本来奉仕活動。敵を捕まえることが全てじゃない。だから、爆豪少年のそれだって、立派なヒーロー活動さ」
「ッ……」
その言葉は爆豪の胸に深く落ちる。
救われるような、温かな感覚が広がる。
でも、それでも。
焦りや悔しさ、取り残された感覚がひしめき合い、ぶつかり合う。
爆豪は視線を床に落とし、モップを握る左手が、わずかに震えた。
オールマイトはそんな爆豪をじっと見つめ、柔らかい声で話し始める。
「ねえ、爆豪少年。ギャップイヤーって知ってる?」
「ギャップ、イヤー……?」
聞き慣れない言葉に、爆豪は眉をひそめる。
オールマイトは軽く笑い、雑談のような気軽さで説明を始めた。
「日本じゃあまり聞かないだろうけど、こっちじゃわりとメジャーな考え方でね。高校卒業から大学入学までのモラトリアムのことさ」
その声は説明というよりも、まるで子供に物語を聞かせるような穏やかさだ。
「まあ、爆豪少年はちゃんと講義出てるし、少し違うんだろうけどね。ギャップイヤー中はその間にそのまま進学するのでは得られない経験をすることが推奨されているんだよ。いわば準備期間のようなものさ」
「……そんなん、遊びたいヤツの言い訳だろ」
爆豪の声は鋭く、どこか否定的だ。
納得したくない、してはいけない気がする。
そんな思いが、言葉に棘を立てる。
そんな爆豪にオールマイトは首を振って、「そんなことないさ」と優しく笑う。
「大丈夫だよ、爆豪少年。君は道中の全てを糧に出来る。君は今、ちゃんとヒーローの道を歩いているとも」
その言葉、その笑みに。
爆豪の体から、ふっと力が抜ける。
胸の奥の焦りが一瞬だけ溶けるような、そんな感覚がした。
爆豪は一瞬、言葉を失い、オールマイトの目を見つめる。
その時、廊下の向こうから子供たちの笑い声が響く。
オールマイトと仲のいい小さな患者たちが、彼を呼びに来たのだ。
「じゃあ、私はそろそろ」と、オールマイトは車椅子を動かす。
子供たちに囲まれながら、オールマイトは軽やかに散歩へと出ていった。
爆豪はモップを手に、しばらくその後ろ姿を見つめていた。
清掃の後片付けを終え、爆豪は自分の病室に戻った。
昼過ぎの病室は静かで、窓から差し込む光がベッドの白いシーツを照らす。
タブレットを手に、爆豪はベッドに腰掛け、イヤホンを耳に押し込む。
画面にはオンライン講義のスライドが映し出されている。
今からの講義は「ヒーロー史と象徴の力学」というものだ。
折りたたみ式のベッドテーブルを取り出して、その上にタブレットとノートを置き、ペンを走らせる。
講師の声がイヤホン越しに淡々と響き、自警団の時代から段々と近代ヒーローの誕生へと進む。
『みなさんご存知、オールマイトが出てきてからは、細々としていたヒーローの活躍や影響がそれまで以上に大きく広がっていきました。彼が世界に与えた影響は凄まじく……』
爆豪のペンが、一瞬止まる。
画面の向こうの声に対し、聞こえないことをいいことに、爆豪は思わず小さく呟く。
「ンなもん、言われんでも知ってるっつーの……」
その声は、講義の向こうには届かない。
文句のような、そうでもないような。そんな呟き。
オールマイトの影響が大きいなんて、今さら誰かに言われるまでもない。
わかってる、そんなの。
わざわざ言われなくたって、身に沁みて、知ってる。
誰よりも。
(……つーか、オールマイト出てきすぎだろ)
仕方ないと言えば仕方ない。
日本の治安の維持だけでなく、世界中のヒーローにとっても象徴的存在だった。
彼が築いた実績は、どの科目でも避けては通れない。
講義のスライドには、これまでの彼の功績や取り組みが羅列される。
ヴィランによる組織犯罪が続いている中で、オールマイトは一国からそれを撲滅した希少な存在。
アメリカに滞在していた頃にも数々の犯罪を解決し、その影響力は国外にも及んだ。
彼の応援要請に、世界中のヒーローが日本に駆けつけようとしたほどだ。
オールマイトの名は、まるで教科書の神話のように扱われる。
そのたびに。
爆豪は心臓の裏が、どうしようもなくざわつく。
画面に映る「オールマイト」という文字を見つめながら、爆豪の目がほんの一瞬タブレットの画面から逸れる。
それは逃げなのか、それとも別の何かか。
自分でも、わからない。
けれど、かつてのNo.1ヒーローが、平和の象徴が。
データや分析の対象として扱われることに、どこか薄ら寒い感覚を覚える。
彼が教科書のページに閉じ込められているような感覚。
──罪悪感が、まだ全て拭いきれないのかもしれない。
だから、教科書の中の偉人のように語られるオールマイトが、過去の人として扱われることに、ひどく心が軋むのだろう。
それでも講義は続く。
爆豪はハッとして視線を画面に戻す。
『特筆すべきは、彼がいるという存在そのものが、敵の行動を抑える効果を持っていたという点です。つまり、オールマイトという存在が、生ける抑止力であったわけです。彼が第一線で活躍していた頃、日本の敵犯罪率は平均6%まで抑えられていました。これは世界的に見ても非常に低い数値であり、同時期、他国では平均20%を超えていたことを考えると……』
病室のベッドに寄りかかりながら、爆豪は無言でスライドを見つめる。
ぼんやりと、爆豪の脳裏に昔の記憶が蘇る。
幼い頃、テレビ画面に映るオールマイトに夢中だった自分。
雄英高校に入り、彼の背中を追い続けた日々。
力を失おうとも、変わらず輝いていた、あのヒーロー。
『君は今、ちゃんとヒーローの道を歩いているとも』
今もなお、輝き続ける、憧れのヒーロー。
(……高ぇな)
心の中で呟く。
(高ぇし、……馬鹿みてぇに、でけぇ)
オールマイトを超えるNo.1ヒーローになる。
その誓いは、ただの夢ではなく。
ずしりと重い現実として彼の胸にのしかかる。
それでも。
(だからこそ、俺は)
画面の中で語られるまさに英雄譚のような存在。
いつまでも罪悪感や憧れに縛られていては、決して届かない。
あの、遠く大きな背中に。
(……憧れのままで、絶対ェ終わらせねぇ)
爆豪はふぅっと息を吐き、姿勢を正して、ペンを握り直した。
講義の最後、講師の言葉が妙に耳に残る。
『……そして、いずれ新たな象徴が必要とされる時代が来るでしょう。その時、誰がそれを担うのか。それはみなさんの世代に託された未来なのです』
爆豪の目が、画面に映る「象徴の系譜」という言葉を睨むように捉える。
ベッドの上で拳を強く握りしめ、その目には揺るぎない決意が宿る。
そして、口元は憧れへの挑戦に弧を描いた。