あんたと君との5年間(仮)④ 一年も経てば、かつて力なく垂れ下がっていた爆豪の右腕は日常の動きを取り戻した。
スプーンを持ち、服を着替え、荷物を持つ。そんな当たり前の動作が、出来るようになった。
力を入れることも可能になり、拳を握る度に力強い感覚が戻ってくる。
それでも個性を使うには、まだ危険が伴うので慎重さが求められる。
医者たちはその慎重な診断を重ねた上で「この調子なら予定より早く回復するだろう」と口を揃えた。
そんな爆豪の驚異的な回復力に、医者たちが「今後も研究させてくれ!」と熱心に迫ったが、彼はそれを「ふざけんな」と一蹴したという。
自身の病室でその話を思い出したオールマイトは、くすりと笑みをこぼす。
けれど、そんな微笑みも手元に視線を落とされると、すぐに消えてしまう。
オールマイトの手元には、シンプルなオレンジ色の風船がある。
リハビリ用の風船だ。
自分の肺の力だけで綺麗に膨らませること。
そんな単純な課題。でもオールマイトにとっては遥か遠いものだった。
オールマイトはまだ一度たりとも、その風船を綺麗に膨らませられたことはない。
風船は頼りなくしぼんだまま、オールマイトの手の中に握られている。
オールマイトの体は長年のヒーロー活動による手術や後遺症が体に爪痕を残し、決戦での大怪我がさらに追い打ちをかける。
加えて、年齢による体力の低下。
歳月と負荷のすべてが、確実にこの体を蝕んでいた。
風船は膨らまない。
息は続かない。
力は入らない。
歩くための筋力のリハビリには、まず体力がいる。
そのためには呼吸器の強化が必要だ。
だが、オールマイトはまだその段階にすら立てていない。
自分の身体が、もうかつてのようには動かない。
風船ひとつを膨らませられない自分に、胸の奥で静かな無力感が募る。
「……」
じわじわと滲む自己嫌悪や情けなさにオールマイトはそれらを振り払うように、ぶんぶんと首を振り、車椅子を動かし、気分転換に今日も院内の散歩に出る。
廊下に出ると、通りすがりの看護師や患者が、オールマイトに笑顔で挨拶をする。
オールマイトは穏やかに手を振り返し、時折握手やサインを求められると、かつてのヒーローらしい笑みを浮かべて応じた。
けれど時折、その笑顔の裏でどこか齟齬を感じる瞬間がある。
これは、はたして今の自分に向けられているものなのだろうか?
かつての「平和の象徴」として喝采を浴びた自分と、今の、ただ車椅子に座るだけの自分。
そのギャップが、オールマイトの心に小さな影を落とす。
オールマイトがこの病院来た当初は、一般病棟に入院していたのだが、どこからかそれを聞きつけたファンたちが病院に殺到し、ちょっとした騒動が起こってしまった。
そのため、オールマイトは現在著名人向けの特別病棟に移されている。
そこは清潔で静かで、患者の数が少なく、人の気配が薄い。
患者がいないのは良いことなのだが、ほんの少しだけ、寂しさが胸をよぎる。
だからオールマイトはわざわざ一般病棟まで足を延ばす。
見知った顔ぶれと交わす挨拶。
気さくに笑いかけてくれる人々。
そんな人たちと接していると、心がどこか軽くなる。
病院はどうにも嫌いだ。
守りたかったものに届かなかった過去や、自分の無力さをいつも突きつけられる場所だから。
でも、そこで出会う人々のことは好きだった。
命に向き合い、痛みに耐え、それでも前を向こうとする患者たち。
黙々と支え続ける医師や看護師たち。
彼らの姿は、時にヒーローよりもずっと強い。
心から尊敬している。
だから、そんな尊い人たちが笑顔になれるように、自分は頑張らなければならないのだと思った。
けれど、今は。
──今も。
そんなことを考えながら、気づけば馴染みの病室の前までたどり着いていた。
こっそり中を覗くと何人かの患者に囲まれてる中心に爆豪がいた。
中心にいる彼の手には、ハンドグリップが握られていて、力を込めるとゆっくりとグリップが閉じていく。
そのたびに、周りの患者たちが歓声を上げ、子供から大人まで、目を輝かせて爆豪を見つめていた。
「てめェら、一々うるせえンだよ!」
吠える爆豪の声など気にせず「すごいなバクゴー!」と褒める周りの患者たち。
最初は医者や看護師たちと必要最低限だった人間関係も、爆豪の病院で清掃や不遜な態度ながらも人を手助けする姿を見た人たちが、自然に爆豪の周りに輪をつくる。
今ではああやって軽口を叩ける間柄になったようだ。
そんな光景を見たオールマイトの口元に、ふっと思わず笑みがこぼれる。
なんだか雄英の元A組を思い出す。
あの騒がしく、温かな教室の空気。
爆豪を中心に広がるこの輪は、まるでその延長のようだ。
「あ、オールマイトだー!」
病室の子供がオールマイトに気づき、視線が一斉に彼に向く。
「ほんとだっ」
「わー! オールマイトー!」
「やあみんな、こんにちは」
オールマイトの周りを幼い子たちがあっという間に囲み、オールマイトは苦笑しながらも車椅子の上で、ひとりずつ小さな頭をよしよしと撫でる。
その時、爆豪がベッドの上で胡座をかいていた姿勢を解き、すっと立ち上がった。
「丁度いいオールマイト。ちょっと話がある」
爆豪はオールマイトの車椅子に近づき、ハンドルを握る。
「えっ?」
突然のことに、オールマイトが目を丸くした。
「いいから来いや」
困惑するオールマイトを無視し、爆豪は車椅子を押し始める。病室に残った患者たちが「どこ行くんだろうな」「何のお話かなー?」と笑って見送られながら。
爆豪が連れてきた場所は病院の中庭だった。
中庭は、色とりどりの花壇が咲き誇り、柔らかな日差しが芝生を照らす穏やかな場所で、老人たちがゆっくりと散歩し、子供たちが笑いながら遊び、リハビリ中の若者が杖をついて歩いている。
爆豪はベンチの隣にオールマイトの車椅子を停め、自身はベンチに腰を下ろした。
「それで、話って何だい? 爆豪少年」
オールマイトの声に爆豪は一瞬、視線を花壇に投げ、ぶっきらぼうに答える。
「ンなもんねぇよ」
膝に肘をつき、軽く前屈みになる爆豪はいつも通り、ぶっきらぼうな声で返す。
「え、でも、さっき話があるって」
「あいつらが鬱陶しかったから、適当な理由つけて離れたかっただけだ」
悪びれもせず言う爆豪に、オールマイトは苦笑した。
中庭の静かな空気が、二人の間に流れる中、爆豪は右腕を軽く動かし、拳を閉じたり開いたりする。
「腕の調子、よさそうだね。」
オールマイトの声は、静かに響く。
爆豪は拳を見つめながら、短く答えた。
「やっと感覚戻ってきたわ」
オールマイトの目が、爆豪の腕にそっと落ちる。
そして、独り言のようにぽつりと呟く。
「……すごいな、君は」
そのオールマイトの声は、どこか温度を欠いているようだった。
自分と爆豪を遠く離れた場所に置くような響きをもっているような、そんな声に、爆豪は感じた。
「あ?」
爆豪は顔を上げ、オールマイトの横顔を捉える。
オールマイトの視線は、中庭の向こう、遠くの風に吹かれる花壇を眺めているようだった。
そこには、かつてアメリカに来た初日、ふたりで海を眺めていた時の彼と同じような影がある。
爆豪の目の前には、いつもの明るく朗らかな笑顔が消え、ただ寂しそうな、弱々しい人間の姿がそこにあった。
「たった一年でここまで回復するなんて、そりゃお医者さんも驚くさ」
オールマイトの言葉は、確かに爆豪を褒めていた。
それはけして嘘じゃない。そんなことはわなっている。
だが、爆豪はその裏に隠された、言葉にできない何かを感じ取るのだった。
羨望のような、諦めのような。
そんな何かを感じとり、爆豪の眉間に力がこもる。
オールマイトは、ふっと視線を戻し、静かに爆豪に問う。
「ねぇ、爆豪少年。爆豪少年はさ、何でアメリカに留学しようと思ったの? 留学するにしても、他にも行き先はあっただろう?」
突然の何気ない調子で放たれた質問に、爆豪の目が、揺れる。
「それ、は……」
医療面での先進的な支援。実戦に近い訓練環境。
再起を目指す爆豪にとって、アメリカという土地は確かに申し分なかった。
それを選んだ理由は、どれも正しい。
論理的で、誰に聞かれても堂々と答えられる。
でも、それだけでもなかったのも事実だ。
大層な理由はない、大それた動機でもない。
それでも、ただ。
(……ただ、あんたに近づきたかった)
爆豪は自分の憧れがかつて歩んだ道を、自分も辿りたかった。
そんな幼稚で小さなその理由こそが、一番の決め手だった。
けれど、その気持ちをそのまま口にするには、あまりに青臭すぎて、爆豪は喉奥で言葉を飲み込む。
羞恥と、意地と、捨てきれない自尊心が、簡単にはそれを許してくれない。
「……ヒーローの本場だからな。遅れを取り戻すには、ここしかなかった」
どこか言い訳じみた響きを帯びたと、爆豪は自分でも自覚する。
それでも、それ以上のことは言えなかった。
「……あんたは」
これ以上踏み込まれると、自分の中の脆くて柔い何かが露見してしまうような気がして、矛先をオールマイトへと変えた。
「私? 私、は……」
言葉を継ぐその声はどこか躊躇いを含み、普段のオールマイトには似つかわしくない震えがあった。
爆豪を見つめていたオールマイトの視線が、深く地面に沈む。
「……逃げて、きたんだ」
オールマイトの声は、信じられないくらいにか細くて。
まるで懺悔のように、重い。
「逃げてきた?」
穏やかではない言葉に、思わず爆豪は聞き返す。
オールマイトの視線は、地面に落ちたまま動かない。
幼く未完成だった、あの日の痛みがオールマイトの脳裏に浮上する。
「そう、私は、オール・フォー・ワンから逃げるために、師たちから逃がされた」
オールマイトの声は、まるで遠い昔を語るように静かだ。
学生時代、まだずっとずっと未熟で無力だった自分。
オール・フォー・ワンの脅威に立ち向かえず、師である志村奈々が命を賭けて自分を逃がした。
『オールマイト。後、頼んだ!』
グラントリノに抱えられ、逃げる自分が最後に見た、師の凛々しく笑う顔が、使命が果たされようと、何年の月日が経とうと、胸に焼き付いて離れない。
その後、無謀に挑もうとするオールマイトを叱咤するグラントリノに言われたのだ。『卒業したら海を渡れ』と。
『志村が何故おまえを逃がしたか、わかるな……!?』と。
そして、雄英を卒業後、オールマイトはアメリカに飛んだ。
全てを救う力を身につける為に。逃げるように。
「……君のように、志高くここに来たわけじゃ、なかったんだよ」
オールマイトの声は、悔いと悲しみが滲んでいて、まるで自分を責めるように響いた。
そんな、無力感に苛まれた過去。
そして、今もまた、同じような影に囚われている。
「……本当に、すごいよ、君は」
ぽつりとこぼされたオールマイトのその言葉には、純粋な賞賛と、どこか自分を比べるような痛ましさと戒めが混じっていることに、爆豪は気づく。
爆豪は勝利の子だとオールマイトは思う。
恵まれた才能と、それに驕らず磨き続ける努力。
なにより。決して折れない気高く強い心。
オールマイトの胸に、羨望のようなものと自嘲のようなものが綯い交ぜになる。
「あのね、私なんかもう年で、回復するのにも時間がかかって、体のあちこちが言うことをきかないんだ」
オールマイトがへらりと笑みを浮かべた。
その声には、どこか諦めのような響きがある。
もう自分は役目を終えたんだと、諦めようとする者の、あまりにも優しい顔。
だから仕方ない。そう思い込もうとする声だった。
無理に納得しようとする言葉だった。
そんなオールマイトの言葉が、声が、表情が。
爆豪にはひどく癪に障る。
「……ふざけんな」
低く鋭い声がふたりの間に響く。
「え……?」
オールマイトが顔を上げる。
そこに浮かんでいたのは驚きと困惑。
「そんなん、あんたが生きようとしてねぇからだろ……」
爆豪の言葉は、まるで刃のように、オールマイトの胸へと容赦なく突き立てる。
言葉は鋭いのに、どこか不器用で。
けれど、だからこそ。
その一つ一つが真実味を帯びて、容赦なくオールマイトの奥底へと届くのだ。
爆豪の視線は、声は。真っ直ぐで。
オールマイトは言葉を失ったまま、ただ爆豪を見つめる。
(全く。痛いところを、突いてくれる……)
けれど爆豪の言葉に、確かにと納得する自分がいる。
情けないと思う。だが否定できない。
オールマイトは自身の生を諦めたことは、一度たりともない。
だが、力を失い、象徴の座を降りて、使命を果たし、弟子も自分で自分だけの道を切り開いた。
世間ももう自分を必要としない。
だから自分は、過去の存在になろうとしていた。
でも、本当は。
自分の役割が見えないのだ。
皆がそれぞれの役割を担う中、自分には何もない。
何をすればいいのか、どこに行けばいいのか、誰のそばにいるべきなのか。
自分の今の価値を、見出せずにいる。
爆豪は静かに、けれど力強く。言葉を紡ぐ。
「俺は、〝あんた〟をも超えてNo.1になるんだ」
「っ……」
真っ直ぐすぎて、痛いくらいのそんな言葉に、オールマイトの胸が熱くなる。
彼が目指す、超えるべき男として、まだそこに自分を見据えてくれていることが、オールマイトにはたまらなく嬉しかった。
「あんたがいねぇ土俵でNo.1になっても、そんなNo.1なんて、なんの価値も、意味も、ねぇんだよ……!」
最後の言葉だけ、わずかに声が揺れていた。
怒りか、それとももっと他の感情か、オールマイトにはわからない。
わかることとすれば、その言葉は、紛れもない彼の本心だと思った。
魂の叫びのような、純然たる言葉。
爆豪の瞳には、燃えるような決意と、切実な祈りがあった
オールマイトの胸に、過去の声が蘇る。
自分を支え、導き、背中を押してくれた者たちの言葉。
折れかけた心を、いつだって支えてくれた灯火。
『生きてここにいる。それだけで背中を押される人間が沢山います』
どこか冷めていて、乾いたような声でありながら、その言葉には深い敬意と感謝が含まれた、相澤からの励まし。
『彼の残した埋火は雨風に負けず僅かな人間たちの間で火継ぎされ、今新たな大火へと進化しつつある! ならば人はその火を絶やしてはならない。生ある限り醜く踠いてでも、焼べ続けなければならない!』
敵でありながら誰よりも純粋にオールマイトを信じていたステインという男。
その激情に満ちた叫びは、今も胸に焼きついて離れない。
『がんばろうっ、がんばれっ』
あの夜、自分が最後に救った一人の女性。
そしてその命は、今も、必死に生きている。
あの懸命な声が、どれほどオールマイトの心を震わせたことか。
『あなたに……幸せになってほしかっただけだ、だから……。抗うと、決めてくれたなら……私は、いい……』
かつての相棒、ナイトアイの優しい願い。
反発し合いながらも、誰よりも自分を案じてくれた相棒。
オールマイトのために未来を変えると、ずっとオールマイトの幸福を肯定してくれた、唯一無二の相棒。
『僕……っ、あなたに何があっても、僕も一緒にねじ曲げます』
無個性だった少年の、同じ夢を見た緑谷の健気な決意の声。
共に、巨悪をを相手に抗おうとした少年。
理不尽を前に、目を背けず、オールマイトの思いに、いつも応えようとしてくれていた。
それが、どれだけ自分を突き動かしたか。
『言われなくても!! 俺はあんたをも超えるヒーローになる!』
そして今、自分の目の前のいる少年。
誰よりも荒々しく、誰よりも真っ直ぐなその瞳が、今も変わらず自分を見据えている。
言葉は不器用で、棘だらけで、でも本心しかない。
そんな、揺るぎない宣誓。
──まだ。
まだ、残り火はオールマイトの中に残っている。
かつてのように世界を照らす大火ではない。
それが、どれだけ小さく、弱々しくとも。
風に揺らぐほどに儚く、それでも、まだ消えていない。
確かに、まだ命がここにある。
心の奥底でずっと問われ続けてきた、なぜ生き延びたのかという問いに、漸く納得出来る答えが見つかった気がした。
この命にまだ意味があるのなら、それはきっと。
爆豪に、緑谷に、次の世代のヒーローたちに、確かに受け継がれたその火を見届けること。
「だから、それまで。俺があんたを超えるまで、絶対くたばんなよ。勝ち逃げなんて、許さねぇぞ、オールマイト」
その爆豪の声は、怒気を孕んだようでいて、その実、どこまでも真剣で、熱を持っているものだった。
爆豪は、いつだって射抜くようにに頂点を。
オールマイトだけを、いつまでも真っ直ぐに見つめている。
「……そうだね。君が私を超えるところ、きちんと見届けなくてはね」
オールマイトの声に、熱が戻る。
オールマイトの瞳が、静かに、けれどどこまでも強く輝く。
この少年の中に、自分の火が確かに残っている。
そしてその火を、爆豪が再び、焚きつけてくれたのだ。
寄り添い合うことから逃げてはならない。
胸の血潮が、燃える時。
オールマイトに新たな使命が宿る。
それはかつてのように世界を背負うものではない。
けれど、誰よりも重く、尊い、ただ一つの役割。
(必ず見届けさせてもらうよ。大・爆・殺・神ダイナマイトが、君が、No.1になるところを)
それは、ヒーローがヒーローに誓った、最も強く、優しい約束だった。