I was born (愛は枯れ、君は絶える:曦澄♀の息子藍攸独白)愛は枯れ、君は絶える
毎朝毎晩指折り数えて、何度も繰り返し数えてやっとその日。
雲深不知処では質素倹約が基本だ。宗主の公子といえども例外はない。
叔父に頼んで連れて行って貰った彩衣鎮で悩み抜いて買った練り香を袖に入れ預かり物を持ち縁側に座る。
「母様、藍攸が参りました」
紫の花が咲く庭がある離れに母は一人暮らしている。
静かに戸を開けると母は静かに座っていた。
髪を複雑に編んで結い上げ簪を挿している。衣は壮麗な刺繍が施され薄い青と白、紫が品良く合わされている。爪は整えられ薄く色付き肌は一点の曇りも傷もない。まるで腕の良い人形師が作った完璧な人形を見ているようだ。
「母様、お元気でいらっしゃいますか」
問うと紅のひかれた唇が弧を描き
「元気だ。阿攸も元気そうで嬉しい」
と微笑む。
「あの、膝を…」
勇気を出して口に出してみたはいいが恥ずかしくて言葉に詰まる。その方がよっぽど恥ずかしいのだがどうにもならずに黙り込む。母は苦笑して
「阿攸はまだ子供だからな」
優しい手付きでわたしを抱き寄せ膝に頭を乗せさせた。小さな子供のように膝枕をしてもらっていると母は手櫛で髪を梳ってくれる。優しい手付きで、何度も。
眠りそうになりながら視界の端に置いたままの紙の束を手繰り寄せる。
「母様、お手紙です」
従兄弟と、祖父母と、叔父と、そして父からの手紙を渡す。母は何も言わずにそれを適当な場所に置く。
渡し忘れそうになったけれども結局渡さなくとも変わらない。手紙達は姑蘇藍氏宗主の妻に相応しく慎ましくも壮麗なつくりの棚で埃を被っている文箱に直されるだけなのだ。
丸く切り取られた窓から外の竜胆の花を見る。母は紫を見る度に故郷を懐かしく思うのだろうか。帰りたくはならないのだろうか。祖父母からの手紙も読んでいないようだがもしも読んで帰りたくなってしまったらどうしよう。わたしを置いて。
わたしが宗主だったら窓だって封じて紫の竜胆の花なんて見せないし手紙だって渡さない。
「母様、小攸は母様が大好きです」
「母様も阿攸が大好きだ。可愛い子」
言い聞かせるような言葉にそうすることで母が自分に言い聞かせているように思えた。頭に浮かんだ悪い考えは打ち消して静かに頭を撫でてくれる母の手に集中する。
母の膝に頭を預けている内にいつのまにか寝てしまったようで揺り起こされる。母の手は綺麗で肉刺や剣だこもない。白くつるりとしたその手は人を殴ったことも斬ったこともないように柔らかい。頭を存分に撫でて貰って抱きしめて貰って額に何度も口付けを乞うてから別れの挨拶をする。
「では、母様、また。」
母は静かに微笑む。冷たい印象を与えがちな切れ長の瞳が慈愛に満ちた風に笑むのが大好きだ。
また一月後の面会日まで修練に励もうと固く心を決めた。従兄に弓を習って師兄達の夜狩についていって叔父達に琴や符の教えを乞おう。
自分が立派な江家宗主になることが母への報いになるだろう。泣きそうな唇を噛んでいると回廊の先に見慣れた人影が現れる。
「父様」
驚いた様子もないのはきっと面会が終わるのを此方で待っていたからだろう。
「阿澄はどうしていた」
問う声は父の叔父である藍啓仁が母を離れに匿うと言い激怒した時と違い静かだ。
血を分け幼い頃から教えを乞うていた敬うべき先達に気性の穏やかな父が声を荒げたのは幼心に怖かった。だが
『江晩吟は子との面会にだけ応じる』
と告げた藍啓仁に殺気を鎮めた父が深い溜息を吐いた後叔父達が手を握ってくれたのでどこかに飛んでいってしまいそうな体の足が地面についているのを思い出せた。
離婚するとはいっても母は蓮花塢に変わらずにいるのだと思っていた。しかし母は姑蘇にいる。
祖父母のいる蓮花塢は開放的であり全てがあきらかになるからだろうか。
会いたくない人間がいるなら閉じ籠るには不適当だ。当初は祖父母がやってきた。離れの部屋の前で皆で話しかけても出てくる気配はない。母の親しかった姉である叔母と従兄が来た時やっと
「務めは果たした」
とだけ書いた紙が戸の隙間から差し込まれた。
皆の視線が自分に一斉に集まり意図がやっと理解出来たのだった。従兄が抱きしめてくれていなかったら透明になって消えてしまいそうなくらいだった。
叔父が戸を開けようとしたのを父が止めた。
「貴方の意思はわかりました。ですが会わないからといって私が貴方を手放すとは思わないでくださいね」
怒りも悲しみも見えない声色だった。
悲しみを湛えた瞳を潤ませる叔母の物静かで楚々としていながら周りの人々の心を落ち着かせ華やがせる姿を今となって思い出す。
母は叔母を真似ているのだ。音に聞く若い頃の三毒聖手と真反対。
母は息子であるわたしにしか会わない。あんなに可愛がっていた従兄や夫君である父にも会わない。母に会えるのはたった一人わたしだけ。
「母様は恙無くお過ごしです」
伝えられた父は頷く。二人で回廊を歩く。
「いい匂いがするね」
そこで母に用意していた練り香を渡すのを忘れていたことに気付く。袖の中から取り出すが匂いなど漏れ出ぬよう固く封がされている。不思議に思って父を見ると
「姿は見せてくれないが香だけは嗅がせてくれる」
常は弧を描いている唇が何かを耐えるように歪んでいた。
藍澪標は目を覚ました。
そう、目を覚ましたのだ。ぼろぼろと涙を溢しながら目を覚ました。寝間着のまま裸足で廊下に飛び出し走り出す。雲深不知処は厳格な家規により廊下を走ることは禁止されている。しかし今は緊急事態だ。
「父様!父様!」
父の居所である寒室の戸を開け放てば起床時刻よりまだ早いのに足音を聞きつけて目を覚まして臥牀に座っていた。
「怖い夢でも見たのかい阿攸」
その察しの良さと俊敏さを母に対しても発揮してほしい。
「心の声が出ているね」
そうだったのか。
「父様の母様への不甲斐なさのせいで怖い夢を見ました」
正直に言っても父は夢のような顔をしたりしない。想像のことだから当然といえば当然なのだが。
「私が不甲斐無いせいで苦労をかけるね」
横に避けて布団の上掛けを捲ったのでそこに入る。
「全くです。父様が母様に不甲斐ないのが全部悪いです。なので母様の話をしてください」
寝転びながらお願いすると父は自分のことのように母のことを語り始めた。
父がどんなに母を想っていて、母がどんなに素晴らしい人かを懇切丁寧に微に入り細に入り語り聞かせてもらうのがとても好きだった。怖い夢をみてもそれが全くの夢でしかないのだとわかるからである。
母は最高で父もそんな母を深く愛している。すれ違っているが最悪ではないことを確認出来るのだ。