「いってらっしゃい、寛見くん」
「いってくる」
キッチンから顔を出してひらひらと手を振る恋人に向けて後ろ手に軽く手を振り返す。どこか気恥ずかしかったそれが生活に馴染み始めたのはいつからだったろうか。
寝起きと仕事の資料を収納される事にしか消費されてこなかった彩りの欠片も無い2DKの一室は、今や恋人と過ごす為の大切な空間となっていた。
新書と古書の混じったような紙とコーヒーの匂いしか無かった部屋には、いつしか柔らかな花のフレグランスと紅茶の香りが混ざるようになり、殺風景な窓辺には水の張られた一輪挿しが置かれ、季節ごとの花が嫋やかに窓辺を彩るようになった。
学生から社会人となり、忙殺されるがままに三十も過ぎれば「これからも自分は一人で生きていくのだろうか」とぼんやりと未来予想図を描く事もあったが、それが今では多忙ながらも互いを支え合える女性に出会い同棲までしているのだから人生とは不思議な物である。
どこか切り詰められるような鬱屈が心に影を忍ばせるような仕事上のルーティンは容易く変わりはしないが、それでも日向のような彼女が側で笑んでいてくれるとそれだけで心が救われるようだった。
「帰り、今日は早いの?」
「20時には帰れると思うが……そうだな、連絡する」
「うん」
今日は夕方のアポが済めばそのまま直帰できたはずだ。……そうすれば今日は彼女と久々に食卓を囲める。一緒に眠りにつける。その調整の為に多少無理をした事は否めなかったが、今の自分にはそれが何よりも大切な事だった。
「無理しないでね」と甘やかに笑う彼女の微笑みを見送るようにして扉を閉じる。鞄から取り出してチャリ、と手の中で揺れるのは向日葵モチーフが付いたキーリング。年甲斐もなく恋人とお揃いに、と買ったアクセサリーの一つだった。
『一つ』と言うのだからもちろん”お揃い”はこれだけでは無い。彼女と過ごすようになってから、生活に直接関係無い小物がいくつか増えた。最初は彼女が喜んでくれたらとたまの出張やら遠出の度に何か小物やら菓子を手渡していたのだが、その度にどこか寂しそうな顔をするので、いつしか二人で一緒に使えそうな物ばかりを買うようになった。
シンプルなマグカップから、室内履きに箸置きまで。この前の出張ではついに夫婦箸へと手が伸びかけたが、冷静な自分がさすがに浮かれすぎだとストップをかけた。
「……日が高いな」
マンションの共用スペースの廊下から、ふと空を見上げれば外は雲一つない晴天に太陽が一つ。
夏は嫌いじゃない。暑さは苦手だが、からりとした澄んだ空気はこの季節だけでしか味わえない。広く青々とした空も、天を覆う入道雲も。赤くひりつく日焼けだけが困り物だが、許容範囲内ではある。
廊下でエレベーターを待っていると、りん、とどこからか涼やかな風鈴の音がした。近隣のベランダにもかけられているのかもしれない。
今週末にでもあの窓辺に咲く花に合う風鈴を買って帰ろうか。そうすればまた一つ、部屋に彩りが増える事になる。
どんな色にしようかと考えるだけで自然に頬が緩み、肩の力までも抜けるようだった。
その後乗り合わせた住人に怪訝そうな顔をされたので慌てて無表情を取り繕った。決してニヤついていた訳では無いが、やはりぼんやりとしていると人からは驚かれることが多い。
惚気るのはそろそろやめにしよう。
続きは帰ってから──柔らかな日が差すこの場所へ戻った時に考えよう。
エアコンが効いても蒸し暑さを感じるエレベーターへ乗りながら、そう決めた。