天ぐだ♀/Never Again額に落とされたおやすみのキスも流れ落ちるほどの寝汗で目が覚めた。
時計を見れば午前三時。いつも目が覚める時間とほぼ同じ。悪夢の内容もほぼ同じ。とはいえ、二時間連続で眠れさえすればとりあえず翌日の活動は出来るのも今までの経験で分かっていた。
胸元に触れ、タンクトップで汗を拭きながら濡れ具合を確認する。さすがに着替えないとまずいかと、まだぼんやりする頭をおさえながら起き上がる。
「天草、いたんだ」
「ええ」
暗がりでテーブルに着いていた彼と目が合う。手元に広げている小型の本は聖書だろうか。
わたしが眠ってから途中で戻ってきたのか。それとも、ずっといたのか。天草は本を閉じて「さて、どちらでしょうね」と肩をすくめた。
「そのままで構いませんよ」と天草は勝手知ったる様子でチェストから着替えとタオルを出してくれた。別に付き合っているわけでもないのに女の子の下着の収納場所を知っているのも一見おかしな話だが、それも含め互いの罰だと思っている。
ベッドに座ったまま壁際を向いて、タンクトップを脱ぐ。普段のわたしならひと悶着ありつつも天草には一旦マイルームから出て行ってもらうところ、正直それすらどうでもよくなっていた。まだ火照った身体を冷ますように息を吐く。枕元の薬瓶を見遣る。今から入眠剤をもう一錠飲むべきか。でも明日は朝早いし、起きれなくなってもそれはそれで困る。
「しょうがないか」
誰にともなく小さく呟く。天草に見られて余計な心配をかけないように、追加の入眠剤は後で服用しようと決める。それにほら、これは睡眠薬じゃないから。ごく一般的な薬だって、医者たちも言ってたから。
とりあえずの心づもりができ、まずは身体を拭こうとタオルに手を延ばそうとする。だけど、傍に置いていたはずのそれが見当たらない。
「傷、増えましたね」
背中に視線が当たる。毎年あんなに楽しみだった水着すら着るのを躊躇するほどに増えた傷跡。肌を見せなくて済むボーイスカウト風礼装に微かな安堵すら覚える自分があまりに空虚だった。もうあの頃のわたしには戻れない。
「自分で拭けるよ」と言っても、天草は頑なにタオルを返してくれなかった。そのくせ、文字通り腫れ物に触れるような天草の拭き方に、もどかしさを感じる。
「もう痛くないから。大丈夫だよ」
「そういう問題では」
「ほら、ここの傷とか。天草とお揃いだよ?」
背を向けたまま、両腕を挙げておどけてみせる。同時に、身体を拭く手が止まる。
「私がそのようなことで笑うとお思いですか」
時刻は午前三時半。今夜はまだ、眠れそうにない。
所詮、サーヴァントは使い魔に過ぎない。
サーヴァントは影となる存在。どのような偉業があれど、天草四郎時貞の歴史はある時点で止まっている。たとえ戦闘時に怪我をしたとしても、この身体に刻まれた『歴史としての傷』が増えることはない。だが、マスター・藤丸立香は違う。今を生きる人間として、苦難の道を歩み続けている。
英雄でない”君”の傷の数は、いつか私のそれを追い越すのだろう。否、もう当の昔に追い越しているのか。
――彼女のバイタルは正常です
医師たちに何度訊いても答えは同じだった。彼らはおそらく把握している。マスターの不調が最早後戻りできないところまで来ていることを。診断結果など、とっくの昔に形骸化しているのだろう。彼女の優しさと痩せ我慢だけでこのカルデアというシステムは成り立っている。自分が現界していることも含め。まるで、一部の善人が虐げられることで悪がのさばる世界の縮図だった。
「すみません」
「天草のせいじゃないよ」
だったら誰のせいだというのか。
「わたしが、勝手にそうしてるだけ」
それは貴女が自分に言い聞かせているだけだろう。周囲の期待通りにそうあろうとして。
「天草は心配しすぎだよ。わたしは……」
ぷつり、と何かが音をたてる。
気付けば、彼女を抱きすくめていた。同年代の少女にしては筋肉質で、それでいて細身で、傷だらけの身体を。サーヴァントの自分であれば、もう少し力を入れれば折れてしまうだろう。人の身体はあまりに脆くできている。痛いほど知っている。それゆえに。
このまま貴女を壊して、聖杯を掌握して、それから、それから。この歪んだ世界を貴女ごと救ってしまいたい。この世全ての善で世界を満たして。誰も傷つくことのない正しい世界。
彼女の微かに呻く声で我に返る。
腕を解くと、立香は裸のままだった胸元を手で隠し、顔を背けた。突然の暴行じみた振る舞いに怒るでも、マスターとして説教を始めるでもなく。まるでどこにでもいる普通の少女が恥じらうような横顔だった。
替えのタンクトップを着せてやり、枕元の水差しからコップに水を注いで渡す。彼女は美味そうにそれを飲み干した。
「ありがとう、もう大丈夫」
帰ってくれ、という意味なのだろう。水差しの隣に置かれた薬瓶に一瞬だけ彼女の視線が移る。
「そうはいきませんよ」
彼女を抱きかかえ、そのままベッドに横になる。腕の中で身じろぎする彼女の頭を撫でる。
「ちょっと、天草」
「たまには薬に頼らず寝てみましょう」
「別に普通の入眠剤だよ。誰でも飲んでるって」
「ノウム・カルデアで服用なさっているのはマスターだけでしょう」
彼女の顔が、きまり悪そうな表情に変わる。少しは釘を差しておかなければ。
「また途中で目が覚めては困りますから。朝の目覚めまで、私が添い寝して差し上げます。着替えもまた手伝いますよ」
「……言い出したら聞かないよね、天草は」
「はい」
貴女を救えない今の俺に、どうか、密やかな償いをさせていただけませんか。勿論、今夜のことは二人だけの秘密にしておきますから。
それなら一つだけしてほしいことがある、と立香は言った。
「おやすみのキス、もう一度してくれる?」
世界の命運を背負った魔術師とは思えない、これもまたありふれた少女のような願いだった。戯れにしただけのキスだったが、立香は存外気に入っていたのか。拍子抜けすると共に、可愛い、という単純な感想が自分にも芽生える。言われた通り、額に唇を寄せる。彼女は手を握ったまま、そこじゃない、と首を左右に振った。
「……怖い夢を見ても、消えない場所にして」
悪夢から目覚めても、否応なしに思い出せるぐらいの鮮烈な記憶が欲しい、と彼女は俺に強請った。
(終)