天ぐだ♀／「眠れないマスターに天草が差し出した夜食」チョコ　よりその深い闇は、凪いだ海か、空か、それとも虚無か。
窓際に立ち、頬杖をついて目を凝らしても、星のない夜空に何が見えるわけでもない。夜間飛行に規則的な機械音。午前零時を過ぎた廊下は冷たい空気が足元を流れていく。スカートから覗く膝はとうに冷え切っていた。
「眠れないのですか」
鏡のような暗闇の窓に映る、自分以外のもう一つの影。抑圧的な声音。
「隣、よろしいですか」との声に、藤丸立香は頷いた。
「最近この時間になるといつも此処にいらっしゃるようだ」
「見てたんだ」
別に秘密にしていたわけではない。だけど、誰かに見つかるなら誰であってほしいか、考えなかったわけではない。
天草四郎は沈黙を破るように、「どうぞ」と何かを差し出した。
「キットカットなんて久しぶりに見たんだけど。どうしたの？」
鮮やかな赤のパッケージが目を引く。一体どこで入手したのだろう。至極当然の質問に、天草は普段通りの飄々とした態度で「秘密です」と笑う。
「さっそく、いただきます」
袋の上から力を入れる。冷えたチョコは真ん中から音を立てて割れた。袋を開け、押し上げて一本取りだす。久々にやった割には失敗もせず割れたのではないか。袋を口元に遣り、チョコを口に咥える。夜食にしては後ろめたさも伴う、甘い香りが流れ込んできた。
「んっ」とチョコを咥えたまま、立香は持っていた袋を天草に差し出した。
「私にもくださるのですか」
立香はうんうんと頷く。
「ありがとうございます。……では遠慮なく」
「……っ！天草っ、そっちじゃないって！」
「おや、違いましたか」
立香が口に咥えていたチョコを指でつまんで取り上げたまま、天草は悪戯っぽく笑う。
「冗談ですよ」と立香の口に戻してやる。
「せっかく手が汚れないように渡してあげたのに」
立香の精一杯の強がりも虚しく、涼しい顔でハンカチを出して手を拭く天草。
――まさか、そのまま天草に食べられるんじゃないかと思った、なんて言えるはずもなく。口に戻されたチョコを指で押し込む。冷えた指先が唇に当たる。さくりと噛むと、甘ったるい味が広がった。舌の裏が痛くなりそうなぐらいの懐かしい味。
真っ赤なパッケージを改めて眺める。
「そういえば、受験シーズンか」独り言が漏れた。

雪がちらつく冬の早朝。濃紺の制服に吐く息白く。あどけなさの残る不安げな顔。冷たくなった頬を赤らめ、少女は初めての勝負に向かう。その手に握られたのは、受け取ったばかりの――
視界が霞む。その後のことは知らない。ありふれた戦いを、わたしは知らずにここまで来た。
「キットカットで『きっと勝つ』でしたか。改めて口に出すと少し恥ずかしいですね」
普通の受験たたかいなんて、もう遠いおとぎ話にしか思えない。窓の外は変わらず、星一つ見えない暗闇が広がっていた。
「取り戻すのでしょう？世界だけでなく、貴女の日常も」
暗闇の窓越しに、天草は微笑んだ。
「いつかきっと、貴女も、誰かからそんなありふれた励ましを受ける日が来ますよ」
琥珀色の双眸が細められる。夜の静寂に溶け込む小さな星のような、優しい瞳と声だった。
「そろそろ行くね。……チョコレートありがとう。美味しかったよ」
「はい。おやすみなさい、マスター」

踵を返し、マイルームに戻る。自身の靴音と共に、「良い夢を見られますように」と背中に聞こえる。すっかり冷えきった手には、残ったキットカットの片割れが入った袋。
――何も言わずに、残していかないで
目に映るその赤は、彼のストラと同じ色をしていた。
（終）