傷ってのはそう簡単になくなるものじゃない。治ったと思っても、乗り越えたと思っても、その奥にずっと眠っていて、何かのきっかけで不意にどうしようもなく痛み出す。――そんな夢で目を覚ました、最悪の朝。
頭が痛い。カーテンに早朝の白が僅かに透けて、世の中のあらゆるものを穏やかに呼び起こしている。
惰性でスマホを点ければ日付が灯った。
殿下――もとい、"陛下"サマの来日まであと数日。――あいつは今や立派に祖国を背負う立場になり、それでも義理堅く定期的にこっちに訪れては、"学友"たるオレ等に正面突破で会いに来ていた。
フケてもよかった。なんて言えたのは、子供の頃の話。
一応でも社会に出ている何かしらの端くれとして、こちらも相応に身なりを整えて顔を出す、という義理は果たすことにしている。――それが。
(こんな顔で会えるか)
見つめていた画面が消える。残されたのは、酷い顔の自分。
だるさに効くのはより重たいだるさだけ。小一時間かけて重たい体を何とか起こすと、オレはそいつの部屋に向かった。
呼鈴を鳴らせばそいつは面倒がって居留守を使うから、アポ無しで訪れた時には戸を叩くというのがいつの間にかの了解になっていた。それでも無視される時はされるが仕方がない。今日は運良く、数十秒ほどでその戸が開いた。
「今日も元気だねえ」
「そう見えるかよ」
「そうでないことは頭では知っているが、見えるか否かで言えば是だな」
まあ入りたまえよ。
言って奥へ引っ込む家主に、オレも続いた。
*
「で?」
手土産の袋の中から器用に紅茶のパックだけを探し当てて啜りながら、奴は白々しくこちらに視線を寄越す。端的に言って、こういうところが最高にダルい。
「態々訊くんじゃねえよ、他にあるかよ」
「ふむ、他とは?」
「テメエ」
早くも苛々し始めた手が、所在なくソファの上のクッションを掴む。
機嫌の悪い時に会うこいつ程癪に触る存在も他にない。……のだが、こればかりはこいつにしか頼めないので本当に、世界は皮肉に出来ていた。
起き抜けの癖にやたら小賢しく回る口で、奴はやはりヘラヘラと笑う。
「認識の不一致は事故の元だぞ」
「テメエのそれは楽しんでるだけだろ」
「分かっているなら話は早い。で、何の用なのかね」
「……」
至極楽しそうに問いかけながら、奴は飲み干したパックを机の上に放置して(せめてゴミ箱に放っていけ)、奥の部屋へと引っ込んでいく。
追うように、小さく声をかけた。
「シャワーは浴びてきた」
「ふむ。その心は?」
「……もういいだろ」
茶番に付き合うだけの余裕なんざ最初っから無いってのに、こいつはつくづく焦らすのが好きで、奥の部屋から一纏めにした必要物一式――ゴム、ローション、玩具や拘束具の類、得体の知れない薬液等々――を持ってくると、態々見せつけるようにオレの眼前に置く。
不覚にも、ゾク、と下腹部が疼いた。
ああ、一思いに貫いてくれたらこちらはそれで良いのに。
まるで服を一枚一枚丁寧に脱がされていくかのように、解放を待つ熱が身の内に仕込まれていく。
「よくないさ、答えてくれなきゃ私が楽しくない」
十分楽しそうにしながら、奴は伸びをするように服を脱ぐ。
その肩からキャミソールが落ちると乳の香りが仄かに漂って、つい涎が溜まった。
「相変わらず悪趣味だな」
「なら私になぞ頼まなければいいじゃないか。愛しの彼女はどうしたんだい?」
「頼めるかよ、ンなこと」
「ああまだ言ってなかったのかい、君が本当は『そっち』側だって」
「言えるわけねえだろ」
分かってる癖に、と、誰のせいだ、が一挙に犇めく。
そんな内心なんざお構い無しで、奴はガキに視線を合わせでもするかのようにオレの眼前に膝を突くと、
「さて、準備は整ったが」
顔を近づけ、改めて、問うた。
「どうしてほしい?」
――ブチ上がりてえ。
出掛かって、寸でのところで呑み込んだ。
胎の奥、埋めを欲する欲の穴は、ジリジリと音でも立てるようにすっかり疼いていた。
趣味は最悪だが、望めばこいつはどんなことだってシてくれる。
でも、今日は。今日に限っては、アガり過ぎて身体に変な傷を付けるわけにはいかない。
堪えるように、ソファに置かれた両手を固く握って、告げた。
「……優しく、して」
「おやおや」
今までで一番性悪な笑みがその顔に浮く。クソが。
奴はそのままオレの隣に腰掛けると、両手を広げてオレを招いた。
「任せたまえよ。ほら、おいで」
「……クソ」
「うん、いい子だ」
「……ふ、」
仕方なく凭れれば、その手が髪を掻き分けて首筋に触れる。
たまらずゾクゾクきて、息が逃げた。有体に言えば性感帯だ。こいつには全部バレている。
――優しく、と言ったって、手加減したり甘やかしたりなんぞ、こいつがするわけがない。
要は身体に傷を付けるなという、一種の隠語だった。言っておかなければ、こいつは本当の本当に何でも使うし何でもする。
そして一層タチの悪い事に、こいつは身体に傷を付けずにトばす方法すら持っている。
オレは結局、それに縋るしかなかったというわけだった。
「シャカール君」
呼ばれて薄らと目を開ければ奴の顔が迫る。
勿論接吻なんかじゃない。口を半開きにして応えれば、捩じ込まれたのは嫌らしいくらいに甘ったるい飴玉が一つ。
いつも『服用』させてくるそれだった。聞いてみたこともないが、多分何か、普通でないものが入っている。
――溶けゆくそれを嚥下するが早いか、じわじわと汗が滲んで喉が乾いた。
「…は、」
たまらず喘ぐと、奴はニタリと笑む。
オレに取り合う余裕はない。奴の手首を掴んで訴える。
「早く、」
「まあまあ、そう急くな」
宥めるように背を摩ったかと思いきや、その指がつっと背筋を撫で下ろして、思わず縮こまった。
「やめろ、それ、」
「我慢だよ、ほら」
「あッ…!」
水を得た魚のように、細い指は繰り返し背をなぞり下ろした。
触れられた皮膚の全てが熱もって、ビリビリとした快感に灼かれていく。
膝が折れ、腰が砕ける。それでも奴は弄ぶように皮膚をなぞるばかりで、内の方へは踏み行ってもくれない。
「……早く、」
「だらしがないな、根性見せたまえよ。――ほら、」
その唇がオレの耳元に寄る。
同時に指が脚の内に入り込み、疼くそこを左右に拡げるようにしながら、囁いた。
「たっぷり我慢した後の『ご褒美』は格別だぞ」
*
あとがき:ここまでにしておきます