がそさんはお日様の匂い『がそさんはお日様の匂い』
すみれ-Drsumire-
がそさんに恋人がいることは知っている。
でも、いいよね、女の子どうしだし。
わたし、大きくなったら、がそさんみたいな女の子になりたいな。
がそさんは特別なおともだち。わたしが生まれる前から、おとなりのおうちに住んでいる。お父さんとお母さんも、知らない人の家にあがるのはダメだけど、がそさんの家に遊びに行くならいいよっていう。門限をすぎて帰っても、がそさんが家まで送ってくれたら叱られないし。いつも笑って話を聞いてくれるから、すき。がそさんはわたしのお気に入りで、あこがれ。
特別だから、学校のともだちにも教えてない。日曜日にだけ会える、秘密のおともだち。
コンコン。朝九時、日のあたる部屋のまどをノックする。おはよーって小さく声をかけてみるけど、返事はない。庭に転がっているバケツをひっくり返して足をのせ、うんと背伸びをして部屋の中をのぞいてみた。白いレースのカーテンの間からクリーム色のお布団が見えて、もう一度ノックしてみたらもぞもぞとうごいた。あわてて地面におりて、キンモクセイの木のかげにかくれる。枝をゆらしたせいで小さな花がいくつもふってきて、つんと甘い香りがした。カチン、カラカラ。窓が開いてカーテンが風でふわりと広がると、がそさんが黒く長い髪をゆらして眠そうに半身を起こしていた。
「んん、おはよぉ」
朝日がまぶしいらしく、目をしばたかせている。わたしがおそるおそる近づくと、がそさんはあくびをひとつしたあとに、笑って手をのばして頭についた金色の花をとってくれた。
秋から冬にかわる季節のお天気の日。やわらかいお日様の光は、ぽかぽかと気持ちがいい。
茶色のスカートと黄色のセーターに着替えたがそさんは、縁側に座ってハーブティーを飲んでいる。わたしは、おさとう多めのミルクティ。ほんとうは同じのを飲みたかったのだけど、はなにぬける匂いにおもわず顔をしかめてしまった。がそさんは、ミントはくせがつよいよね、とほほえんでかわりにミルクティをいれてくれた。紅茶だって家ではほとんど飲まないから、ミルクティもがそさんと会う時だけの特別だ。甘い香りをもうひとくち飲みこんで、となりのがそさんを見上げた。左手に持ったとうめいなカップの中であざやかな緑色の葉がくるくるとまわっている。がそさんがカップをかたむけるたびに、光がすけてきらきらした。あんまりきれいで、見とれてしまう。
ふと、夜に見かけたがそさんのすがたが浮かんだ。二階のベッドでごろごろしていたら表で音がしたからベランダからのぞいたら、ミントグリーンのコートを着たがそさんが帰ってきたところだった。車のライトに照らされた時、ひるがえった黒髪のあいだで白い貝のイヤリングがちかっと光った。すっと背をのばして歩くがそさんのふんいきはいつもより大人っぽくてドキドキして、わたしはかけようとした声をのみこんだ。そのまま扉が開いて閉まって家の明かりがともるまで見守って、ようやく自分のはだしの足のうらがつめたくなっていることに気がついた。背中はぞくぞくするのに頭はぽかぽかして、いそいで部屋にもどったのだった。
「がそさん、きのうはどこに行ってたの? だれに会ったの?」
思いきって聞いてみる。なんだか心がむずむずした。わたしの知らないがそさんがいて、わたしの知らないがそさんを知っている人がいる……あたりまえのことなのに、へんなきぶん。
「うーんとね、ひみつ」
「えーっ!」
ふふふ、とがそさんは目をほそめて笑った。わたしが声をあげても教えてとせがんでもダメで、ひみつだよぉといじわるを言うがそさんは、なんだかうれしそう。わたしはますます、いじになった。
「わかった、デートでしょう!」
だから、おしゃれして会いに行ったんだ、そうに決まってる。
「ね、わたしも連れていって!」
がそさんはちょっとおどろいた顔をしたけど、照れたようにはにかむばかりで、うんとは言ってくれなかった。
「もういいもんっ」
わたしはふくれて、ぷいっとそっぽを向き、ういている足をぷらぷらさせる。わたしたちが並んで座っている向かいはギンモクセイの生垣になっていて、今は白い小さな花がいっぱい咲いている。太陽にあたためられた庭ぜんたいにほんのり甘い香りがただよっていて、手の中でぬるくなったミルクティにも香りがまざっている気がした。
両手で持ったマグカップをくるくる回して、ミルクティのうずをつくる。頭の中もぐるぐるする。がそさんが会いに行くのってどんな人だろう。がそさんはデートでどんな話をするんだろう。どんな風に過ごして、どんな顔で笑うんだろう……。
だまってぼんやり考えこんでいたら、さらりとやわらかな髪の毛がひたいに当たった。左肩がすこし重くなってふりむくと、がそさんは縁側に座ったまま、うとうととうたた寝をしているようだった。目をつぶったままのがそさんがゆらゆらしているから、わたしは手を伸ばして倒れないように支えた。ふに、とすべすべでやわらかいセーター生地がほっぺたに触れる。わたしは、はっと息をのみ目をつぶった。がそさんが目を覚ましたようすはない。大丈夫、もう少し、もう少しだけ。のびをして体をかたむける。きんちょうして息を止めてしまう。閉じたまぶたの裏にやわらかな熱を感じた。トクトクトク…自分の心ぞうの音がなんだか大きく感じる。
胸が苦しくなってきて、そーっと長く息を吸った。
***
お日様の香りがした。それと、香ばしい、猫砂の匂い。ん? ……猫砂?
「なぁお」
私が顔を埋めていた温かながそさんのセーターが、ふるふると身動きして短く鳴いた。
すーっと、私の意識が浮上する。目と鼻の先に寝そべった毛玉からゴロゴロと低いうなり声が聞こえた。手探りで枕の向こうにある眼鏡を探し出し、ようやく正体を視認する。長い腹毛を惜しげもなく投げ出した猫は、満足そうに流し目をすると、起き上がってエサ入れの方に歩き出した。
パジャマのまま猫にカリカリをやって、自分は飲むヨーグルトを一本胃に流し込む。カーテンは閉めたままだが部屋は明るく、時計を見れば朝八時。でも今日は会社は休みだから、寝てていい。私は二度寝を決め込むつもりで、ばふんっとベッドに寝転がった。目が覚めるまで浸っていたあったかくて幸せな感覚が抜けなくて、もういちど夢の中に戻れないかと無駄なあがきをする。ずいぶん小さい頃の夢だった。小学三年生くらいだろうか。ちょうど背伸びしたい年頃で、同級生と遊ぶより近所の歳上のお姉さんの真似をしたかったのだ。今考えてみるとがそさんだってまだ大学生だったはずだけど、大人から子供扱いされず対等な友達として接してもらえるのが嬉しくて仕方なかった。そんな時だから余計に、自分の知らない大人びたがそさんを知って、自分も同じようになれないのが仲間はずれみたいで悔しかったのかもしれない。羽毛布団をつぶしながらふわふわと考えた。戻ってきた猫が腹の上にのってきたので、遠慮なく撫で回す。
結局、教えてもらえず仕舞いだった。あの日以降も土曜日に出かけるがそさんを何度か見かけたし、問いかけたこともあるけど、はぐらかされてしまった。がそさんとも、私が中学にあがる時に引っ越してしまったから、それっきり。私の記憶の中のがそさんはあの頃のまま笑っている。あれからもう何年も経っているから、私は当時のがそさんの年齢をとっくに越しているはずだ。
結論から言うと、私はがそさんのようになれなかった。いや、もっと言うなら、私はがそさんのようになりたいわけじゃなじゃかった。素直に認めてしまえば、私はがそさんの隣に立てるようになりたかったのだ。
そういえば、初めてがそさんの恋人に思いを馳せた時も、がそさんが付き合っている相手がどんな人だろう、といったことよりも、がそさんがどんな風にお付き合いするのかとか、がそさんとお付き合いするのはどんな感じなのか、と考えていたっけ。あれ、それって、つまり、わたしはがそさんの恋人になりたかったってことになるよね……。
「う、うわぁー!」
かあっと頬が火照って、私は両手で顔を覆って布団の上で足をじたばたさせた。猫が飛びのいて抗議の声をあげたが、そんなことに構っている余裕はない。女の子どうしだから、友達だから、なんて言い訳して一番近くに居たかった過去の自分の淡い恋心を今頃になって自覚して、甘酸っぱさと青臭さが急に込み上げてきた。恥ずかしい!
ピロン、頭上に放り出していたスマホから軽快な音がして、ようやく私は転がるのをやめた。うおぉ、と唸りながら用件を確認すると、デートのお誘いである。天気が良いからランチに出かけないか、と。二つ返事で了承の旨を送る。良い気分転換になるだろう。いくら衝撃の事実とはいえ、もうずっと昔の話だ。いつまでも拘泥しているわけにはいかない。
そう、私には今、恋人がいる。そういえば、がそさんに似ているのかも? ……うーん、どうだろう。優しい雰囲気は似てると言えなくもない。だけど、どうってことはない。だって、がそさんはがそさんだし、あの人はあの人、だ。
えいやっと起き上がってカーテンを開けると、見事な秋晴れが広がっていた。日の当たるベランダに歩み出せば、秋の訪れを告げる甘い香りがふわりと届いた。
あの想い出が本当にあったことなのか、私には分からない。
わたしの隣にいたがそさんが、わたしの空想ではなかったか、確かめる術はもうない。