何でもない一日だった。
授業中、突然つきんと、体の中央に痛みが走る。
「ッ…………」
「先生っ」
痛みの中心を抑えてよろめき、体が傾いだ。
生徒たちが慌てて駆け寄ってくる。
近くの机に腕を突き、倒れることは防いだものの下を向いたその拍子に、ぼたりと滴り落ちる色彩の鮮やかさに目を剥いた。
──────血。
どうして。
「…………………………、え」
頭の中を埋め尽くす疑問符とは裏腹に、下腹部の痛みが胸まで突き抜けて、涙が零れた。
医者が言うには流産だそうだ。
妊娠三ヶ月未満。全く気が付かなかった。
体に特別異常はなく、子宮の中身もほぼ流れ出てしまったようで、経過観察を言い渡された。その頃にはもう出血も止まっていて、痛みもなく、ただ平生通りの自分だけがそこにいた。
労りの込められた医者の言葉も上滑りするばかりでまるで頭に入ってこなかった。ありがとうございますと頭を下げて、診察室を後にする。
実感はない。
ただ、ぽかりと胸に穴の空いたような、喪失感があった。
そもそもそこにあるとも知らなかったのに、喪った、なんて嘆くのは少々都合がいいような気もする。けれど知ってしまった今、哀しい、と思う。そうやって、惜しむ気持ちは間違いなくここにあるのに、なのに今は涙の一つすらこぼせない。
「……」
いつもと何も変わらない、ぺたりとした胎に触れてみる。
素知らぬ内にこの中で根づこうとしていたものは、もう、此処にいない。何処にも居なくなってしまったのだと、その結果だけが私に残された。
遅れて込み上げる感情は、まだ、現実に追いついてはいない。全て、薄い膜越しに聞かされたように、遠く感じている。
「…………うん。平気、大丈夫」
こんなの何ともない、と丁寧に言い聞かせる。
翌日教室へ向かうと、現場に居合わせた二年生たちが大丈夫ですかと声をかけてきた。
板書の最中に突然出血して、そのまま早退までしたのだから当然の反応だ。
私は「驚かせて悪かったわね」と苦笑する。
「何ともなかったのよ。ただの不正出血だって」
いきなりで私も驚いたわ、と明るく笑い飛ばすと場の空気が和らいだ。内容が内容だけに深く掘り下げることも躊躇われたのだろう、一先ずは緩んだ空気の中、少しずついつもの調子を取り戻していく生徒を前に、私もまた平生を装って教壇に立つ。
案外笑っていられるものだな、と頭の片隅でほっと息を零す。一方で、些か薄情な気もして胸が痛んだ。
死は、とても身近な存在である。
あの子は人にすらなれないままで儚くなった。芽生えたばかりて形も不確かな生の喪失を、これまで幾度となく味わった絶望と悲哀に並べて語って良いものなのかと逡巡する。だって、未だに、現実味がない。輪郭のない死に、私の感情もまた不明瞭なまま立場を決めかねている。
その反面、ほんの短い期間でも私は母であった筈なのに、お前は亡くした我が子を悼むこともしないのかと嘆き憤る私もここには居る。事後的な喪失の知覚に伴う悲嘆は、確かに、ある。けれども私は上っ面に笑っていられる程度には余裕があり、取り繕う必要がなくなったところできっと、涙どころか嗚咽の一つも零れない。その程度の感情を、悲しい、と表すのは不十分な気がした。それが苦しい。
切り捨てることも受け入れることも、まだ、出来ていない。どっちつかずの中途半端な自分が恨めしい。こんなことでは弔えない。あの子だって浮かばれないに違いない。わかっているのに、何も出来ずに立ち尽くしている。これではあまりに救いがない。
────私だけ、なのに。
あの子には、私しか、いないのに。
「何ですぐ、僕に言わないの?」
あれから数日が過ぎた、とある放課後のことである。
苛立ちの滲んだ声に顔を上げて、ぽかんとした。
五条だ。
私服姿だった。シャツのポケットに外したサングラスを引っ掛け、瞳を眇め、私を睨み下ろしている。
ここにいる筈はない男の姿に私は呆気に取られ、掠れた声を上げた。
「なん、で」
「様子オカシイって、連絡貰ったから」
「…………。別に、何もな」
「なくはないでしょ」
校舎裏のベンチに腰掛ける私の前にしゃがみ込み、五条は、膝の上に置き忘れになっていた拳を二つ、掬い上げて無理矢理広げる。
強引に開かれた掌に爪の食い込んだ痕を見て、その時ようやく、自分が酷く力んでいたのだと知った。
浅く皮膚の抉れた凹凸を、かさついた男の指が、具合を確かめるようにそっと撫でている。
「全部、聞いてる」
「……」
「病院行ったんでしょ。体、平気? ごめんね、一人で行かせて」
「…………そんな、の、あんたが、謝ることじゃ」
「謝りたいんだよ。傍に居たかった。居られなくて、ごめん」
「……」
「悲しいね。僕も、僕と歌姫の子に、会いたかった」
きっと可愛かったのにね。
重ねた手が離れ、抱き締められた。きつく。締め上げられて、胸が、潰れてしまいそう。
苦しさに喘いで五条の背中に腕を回す。シャツの背中に爪を立てて、ぐしゃりと握って引っ張った。
潰れた喉から、ひしゃげた嗚咽が溢れてやまない。
「っあ……わ、たし、全然、しらなく、て」
「うん」
「産み、たかった……ッ! あんたの、子供……っ、わたし、産めなかっ、たの……ぉ」
「うん。辛いね」
寂しいけど、ちゃんとお別れしようねと、宥めるように言い聞かせられて言葉を失う。堰を切ったようにぼろぼろと頬を伝う涙と共に、形を成さない泣き声を響かせる。
五条は何も言わないで、私が泣き疲れて声を嗄らしたその後もずっと、抱き締めてくれていた。
避妊に失敗していたのは痛恨のミスだったと思う。気を付けていたつもりだったが、心のどこかに「出来ても構わない」という気持ちがあった。その隙が、こうして彼女を傷つけたのかもしれないことを思えば、甘い考えは捨てるべきだったと猛省する。
子供が欲しい、とは思っていない。
年齢を考えれば結婚を意識もするが、状況的にそれも難しい。元よりそのような願望も薄い。手段として選択肢の内には入れているが、あくまでも僕の願いは、歌姫を手中に収めておくことのみである。
君がいれば、それでいいのだ。
流産したのは残念だが、それだけ。惜しむ気持ちはあるものの心乱される程でもなく、歌姫が無事であるのなら他に言うことはない。
────ただ。
僕との縁を喪って、産みたかったと嘆く君の姿は、愛おしい。
「じゃあ僕、そろそろ行くけど」
「……ん」
「歌姫、もう平気? 一人にしたら、また泣いちゃわない?」
「なっ……泣かない、わよっ」
真っ赤に泣き腫らした目とがらがらの声で言われても、説得力に欠ける。が、怒鳴る元気くらいは取り戻したようだ。
良かった。
と、思うと同時に、勿体無いなあと思わないでもない。どうせならもう少し、もうちょっとだけ、弱った歌姫を堪能したかったなあ、なんて思ったり。強がりで意地っ張りがデフォルトな僕の恋人は、滅多なことでは甘えたりしてくれないから。
もっと、頼ってくれてもいいのに。
歌姫の性格上、まあ、難しいだろうが。僕としても、いつでもどこでも、というわけにはいかないのが悩ましいが。しかし、聞き分けが良すぎてたまに面白くないのも事実である。
今回の件だってこの女、自分から僕に連絡する気などなかったに違いないのだ。もう終わったことだからと自分一人の腹の中に抱えて、誰にも相談せず、涙一つ零せないで悶々と自責に苦しんでいたに決まっている。
あまり、馬鹿にしないで欲しいものだ。
歌姫如きが僕に迷惑をかけずに済ませようなんてそんなもの、百年は早い。すぐのすぐには駆けつけられなくとも、電話一本くれたなら、邪魔なものは速やかに排除して君の元に向かうのに。大体、そんなのは迷惑でも苦労でも何でもない。
一人で、苦しまないで欲しかった。
それでなくとも、僕が君にしてやれることなんて、そう多くはないのだし。
ぐずぐず鼻を鳴らしている歌姫の目元を親指で拭い、僕は言う。
「僕の前以外で、泣いたら駄目だからね。歌姫」
「いくらなんでも、もう、泣かないわよ……」
「他所の男にこんな顔見せたら殺すから。絶対、駄目だからね。あと、泣きたくなったらすぐ電話してよ。別に、泣きたくなくても電話くれていいけど。会いに行くし。いい、わかった?」
「だから、もう泣かないって、言ってるでしょ……!?」
何で泣く前提で話進めんのよ、と吠える歌姫をぎゅうっと抱き締める。
細い肩が、びく、と震えて固まった。
それからゆっくりと全身から力が抜けていって、こてん、と小さな額が僕の肩に凭れる。
「……平気よ。本当に。あんた、来てくれたし」
「どこが。一週間も過ぎてんのに? 出遅れもいいとこだよ」
「……」
「次は、何かあったらちゃんと教えてよ。傍に居られないんだから、僕だって、言ってくれないとわからない」
「それは……ごめん……」
「ほんとな。反省しろよ、歌姫」
「っあんたね────、ッ!」
「また、連絡するから。時間作る。……そしたら、今度、供養に行こう。二人で」
こういうものは、きちんとしておいた方がいい。
骨も肉も残らなかった空の亡骸だとしても、弔って、送り出してやらなくては。この世の穢れを知る前に散った清いままの命が、僕らの悲嘆と執着に、呪われてしまわないように。
とんとん、と白いリボンごとあやすように頭を撫でると歌姫はぐずるように僕の胸に顔を埋めて、うん、と小さな声で頷いた。
どうやらまた、泣いてしまったらしい。
もう泣かないなんてキレた直後にこれでは、先が思いやられる。再び顔を上げられなくなった彼女を腕の中に閉じ込めて、艶やかな黒髪に顎を乗せ、僕は大仰に溜息を吐いてやった。
「もー、しょーがないなぁ歌姫は」
「ご、ごめ……」
「いーよ。僕の前なら、いくら泣いたって。我慢しないで、今の内に全部吐き出しときなよー? その代わり、明日からはしゃんとしろよな」
僕が隣にいない間に、隙だらけの無防備な姿を何処ぞの馬の骨相手に披露されては困るのだ。虫除けは念入りに施しているものの、いつどこで湧いて出るかわかったものではない。歌姫自身にその気がなくとも、これ幸いと下心満載の手が可愛いカノジョに伸ばされる可能性を考えればどうしようもなく苛々する。
それに、そういうのは、僕だけのものにしておきたいし。
……そう。今はまだ、僕だけの君でいて欲しい。
独り占めしたいのだ。歌姫がどうしてもと望むのならば僕とて張り切って応じる所存ではあるが、しかし、やはり、もう暫くは二人きりがいいと思う。いなくなってしまった我が子には悪いが、頼むから、数年後に出直してきてくれと切に願う。
その時には、彼女と二人、目一杯に可愛いがるから。
「ぅ……」
「あーあ、心配だなあ。置いていきたくないなあ。仕事休んじゃおっかなぁ〜っ」
「……っ、ぐす。馬鹿……いいからもう、行きなさいよ……ッ」
「え…………歌姫、全然、だめだめじゃん……こんな調子じゃ、マジで一人にさせらんないんだけど」
今日の打ち合わせはそれなりに重要案件なので、遅刻はともかく流石に欠席というわけにはいかない。どうしても戻らなくてはならないのだが、行けと言いつつ僕の上着を掴んで離さない歌姫を置き去りにも出来ない。
ならいっそ、連れて行ってしまおうか。
明日の歌姫の予定がどんな調子だかしらないが、まあ、朝までに帰せば何とかなるだろう。そうすれば、会議の時間以外は一緒にいられるし。一晩過ごせば歌姫も流石に落ち着くだろうし。
そうと決まればもたもたしていられない。
「じゃあ、行こっか。歌姫」
「は?」
「しっかり捕まっててね。落とす気ないけど。ちょっと時間やばいからさ」
「な、何を──────、ッ!!」
駅まで飛んだお陰で、新幹線には間に合った。
道中、事後承諾にも程があると僕はがみがみくどくどお説教を食らうことになったものの、多少なりとも気を紛らわせる役には立ったようで、涙の引っ込んだ彼女に我ながら英断だったと内心胸を撫で下ろしていた。