ごうたたんぺんいつつめくらい
ある日、高専に見知らぬ男の子がいた。
小学生くらいだろうか。小生意気そうな目をした、その、やたら不機嫌そうな顔をした小さな子供の傍らにはなんと五条が付き添っていて、いつもの調子でへらへらと笑いながら補助監督相手に一頻り話をすると、軽く頷いた補助監督が子供の手を軽く引き、応接室の方へと連れて行った。
何だろう。
怪訝に思って眉を顰めていたところで、目敏くこちらに気付いた五条が片手を上げて駆け寄ってくる。
「よ、歌姫じゃーん。何、仕事終わり?」
「これから任務の説明受けるとこよ。……何、あの子」
まさか攫ってきたんじゃないでしょうね、と当てつけのつもりでそういえば、にやついたままの五条が「んな訳ねー」とせせら笑いで応えた。
「今度から面倒見んの。親、もういねーからさ」
「………………もしかして、例の、襲撃犯の?」
「あったりぃ〜。歌姫にしては冴えてんじゃん?」
後見人として金と名前を貸して衣食住を保障する代わりに将来的には呪術師になる、という約束をしたらしい。実務的な処理は先行で済ませた後なので、今日は、正式に書面を作る為にわざわざ高専に連れてきたのだという。
私は眉を顰めた。
まだ、あんなに小さな子供なのに。
そういう思いは、ある。
……でも。そんな大切な胸の痛みよりも、何よりも。
「あんた────自分のこと殺した男の子供、育てるの?」
「……」
つい、そんな言葉が、口を突いた。
一体あの時、私はどんな顔をしていたのだろうか。いつでもどこでも余裕綽々に人を小馬鹿にしたような笑みを絶やさない無礼者が、一瞬、真顔になって絶句した。
そうは言っても、たかだか瞬き一つの時間ではある。
次の瞬間には普段の調子を取り戻した五条は、薄く、冷たく微笑んで、私にこう言った。
「…………へえ、意外。歌姫でも、そんなこと言うんだ」
「どういう意味よ」
「べっつにぃ? そのまんまの意味。てか、そんないいもんじゃねえし。むしろ逆だし?」
俺が殺したから責任取るんだよ、と肩を竦めて、五条は応接室の方へと消えて行った。
私は一人、その場に取り残されたような心地になって、扉の向こうに消えていく背中をぼんやりと睨む。
──────何故。
何故、そこまでするのか。
責任なんて、そんな聞こえの良い言葉は聞きたくなかった。殺されて、殺し返した。単純な報復の関係性。終わらない連鎖の始まりを、今ならば芽が出る前に摘むことも出来るだろうに庇護下に置いた。傲慢な自信家ならではの驕りと捉えられなくもないが、そうではない。大嫌いな後輩だけれど、多少なりともその人柄に理解はあるつもりだった。
世界で一番嫌いな男だ。
どうなろうが心底どうでもいい。
胸の内では嘯きつつも、笑顔を満面に広げたまま泰然と構え続ける最強の姿に腹の底で感情は燻り続ける。
何故、と。
………………出来るものならば、一つくらい、私が肩代わりしてやれたらよかったのに。
「……っ」
昔の夢を見た。
あまり楽しい思い出ではなく、つう、と静かに肌を一筋伝った雫を拳で拭って深く息を吐く。
腰回りがずしりと重く、何となしに横を向けば白い髪に殆ど隠れて見えない男の顔がすぐそばにあった。前髪の合間から鼻先だけが覗くのが、均整な鼻梁の高さをアピールするようでそれこそ鼻につく。
思わず舌打ちをくれそうになり、しかしすぐさま音を立てるのに気が咎めて、くしゃりと顔だけ歪めた私は顔の半分を隠してしまった髪を脇に避けてやり、体を起こすと、熟睡する男の体に布団をかけ直した。
ベッドを離れて、キッチンへと向かう。
今はまだ、深夜の二時。草木も眠る丑三つ時。明日のことを考えれば、私もきちんと眠ったほうがいい。わかっていたが目が冴えてしまって、不安な気持ちを殺すように冷蔵庫の中身に手を伸ばす。
取り出したのはビールだった。
プルタブに指をかけようとしたその瞬間、ぬ、と背後から伸びてきた手に取り上げられる。
「!」
「やめなよ。寝れなくなるよ?」
「……。返してよ」
「だぁめ。飲むならこっち、あっためたのにしな」
「…………」
じろ、と私が睨むのも何のその、五条は欠伸混じりに缶を冷蔵庫の中へと戻して代わりに牛乳を取り出した。
小鍋に、乳白色が二カップ分注ぎ込まれて、弱火にかけられた。
かち、ぴ、とIHヒーターのスイッチの入る音だけが静かに響く中、コンロを前に、私は奴の大きな体に背中からすっぽり覆われて身動きも取れなかった。
「………………五条。離して」
「お断りしまーす。黙って僕のこと置いてったかと思ったら、酒飲もうとしてんだもん。これは勝手した罰」
「……」
「何不安がってんのかしんないけど、夢見悪かったくらいでアルコールに逃げんのやめろって。まずは起こしてよ」
「…………。だって」
それこそ、そんなこと、できない。
五条は私を抱き込んだまま移動して、棚から蜂蜜とシナモン、それから日本酒を取り出した。
静かに煮立っていく牛乳に蜂蜜とシナモンを混ぜて、まずは半分マグカップに移すと、残りに日本酒を足して少し煮立たせ、もう一つ用意していたマグカップに注いだ。
「はい」
「……あり、がと……」
「これ飲んだら寝るよ。……朝になったら帰んなきゃいけないんだから、それまでは、ちゃんと、一緒にいてよ」
「…………」
ごめん、と呟いたつもりが声にもならなかった。
空回りする唇を誤魔化すように、緩く湯気を立てるミルクに口をつける。
ほんの短い時間でもいい、傍にいて欲しいと、言われていた。
求められることはたったそれだけ。良くも悪くも、それ以上のことはしてやれない。それでいいと五条は言うが、会いに行ったり会いに来たり、何だかんだと働き詰めのこの男の僅かな休息の邪魔になっていそうで怖い。
事実として、こうして、眠っている五条を起こして挙句ホットミルクを作らせて、今はソファで膝に抱えられてあやされている始末。こんなの、愚図る子供より質が悪い。
────解ってる。
あの時小さな子供でしかなかった伏黒は今や立派な呪術師で、生きる為には強くならざるをえなかったあの子に無償の救いを与えるのではなく必要な手段を提示した五条は間違っていない。そしてそれは、きっと、あの時五条にしか出来なかったことで。
解っていても、思うのだ。
仮にも一度は自分を殺した、そして結果的に己が手にかけた仇の男の、その息子をに手を差し伸べる行為に、ぺらぺらのあの笑顔の下で、こいつは何を思ったのか。本当に、この男がやらなくてはならないことだったのか。他にもっといい方法は無かったのか。
まあ、案外、何も感じていないのかもなのだけど。だって五条だし。
でも。だけど。
こんな大馬鹿でも、最強の呪術師でも、突き詰めて仕舞えばただの人間で。鈍く強く出来上がっていても、人並みの感情も良心もあって。
だから。
なのに、私は。
「……歌姫」
「んっ」
「冷めるよ。ほら」
「……ご、ごめん」
「まあ、無理に飲まなくてもいいんだけどさあ」
太い腕がきつく体に巻きつく。
肉に食い込む強い力に、は、と胸が潰れて息が漏れた。
喘ぐように開いた口に唇が合わさって、中へと舌が潜り込む。
結局折角のミルクも殆ど飲まないままでローテーブルへと避難させられ、深く、深く、舌を絡め合う。
貪られるがままに応じるのは単純に、こいつが欲しいと強請るからだ。以上も以下もない。与えられるものは、与えたい。そのくらいしかしてやれない。
五条が平気な顔をして何でもこなしてしまうから、その何もかもが、私の手には余る所業だから、助けになりたいと願ったところで蹲ることしか出来やしない。そう思う一方で、私が傍にいることがかえって負担になっているのではないのかと怖くて仕方がない。
足手纏いになるのは耐えられない。
これ以上、こいつを、私まで、苦しめたくはないのに。
「っ、あ…………は」
「んっ……歌姫って、ほんと、馬鹿だよな」
「ッ────あ、あんたねッ……! ぁ」
「っ……ふ。僕が、勝手なの……知ってるだろ? 歌姫とこういうことする為に、毎日お仕事、頑張ってんの。それって充分、世の為人の為だと思わない?」
「あっ……そ、なの…………んんっ」
「……これからも、僕がご機嫌で働けるように、もっと、ちゃんと可愛がって?」
私に甘えて噛みついているのは膝に抱えられる大きさの猫なんかじゃあなく、簡単に私を組み敷いて喉笛を食い千切るだけの力がある猛獣だ。可愛がるも何も、私なんかの手には負えない。
それでも、抱き締めている。
私をソファに縫い止める手に自ら指を絡めて、股を開いて、割り込む腰に脚を掛ける。
隣に並び立つには、あまりに強く、美しい。
だけど手離せない。しがみついて、その結果こいつを傷つけるのだとしても傍にいたい。
望まれたから傍にいるだけではなく、私自身の願いとして、ここに在る。
「すき」
「っ」
「すき、なの……ッ、あ!」
それだけではどうしようもない。役に、立てない。
何をどうするのが一番こいつにとって為になるのか、言われるがままにこの身を差し出して、今のままで本当にいいのかと、迷うたびに不安で堪らなくなって。
なのに、泣き言を零す私を見下ろして、五条は心底嬉しそうに笑うから。
────抜け出せない。
堂々巡りのまま今日もまた互いの肌の熱を重ねる行為に酔わされて、ずるずると、進むも退くも儘ならないで逞しい腕の中に留まっている。
「わからずやだなあ、ほんと」
すっかり冷めてしまったマグカップにラップをかけて、冷蔵庫に仕舞った。
乱れた姿で、くたりとソファに沈む女を抱え上げる。無理はさせたくなかったのだが、ホットミルクよりは効果があったようでほろりと涙を流しながらも静かに寝息を立てていた。
脱力した体をベッドに運び、改めてその横に潜り込む。柔く熱った体を深く抱き込んで目を閉じると、ほう、と一人でに息が漏れた。
歌姫は、本当に、わかっていない。
君だけなのに。
僕のような規格外を当たり前のように甘やかそうとして、上手くできないと嘆くのは。
本来、そんな嘆きすら必要はない。何しろ僕は、もうずっと昔から、君に甘えて、甘やかされてきたのだから。
「愛してる」
僕を慰めようとして、失敗したのではないかと怯えて、それでも僕が願えば必死に抱き返してくれる臆病が何より愛おしい。そうやって君が、僕を守ろうと懸命になる姿だけで、僕がどれほどの幸福を享受しているのかを他ならぬ君に伝えたいのに。
特別な行為なんて必要ない。
ただ僕に寄り添って、ここにいてくれるだけで、僕の救いになっている。
傍にいてねと眠る彼女に囁いた。今以上を望めない。今ですら過ぎた幸せだと思うのに、失う虞にブレーキがかかる。
もしも、君までいなくなってしまったら。その時、僕は。
「……はあ。やめやめ」
つまらないことを考えるよりは、怒りっぽくて泣き虫な、可愛い恋人の感触を一分一秒でも長く堪能していたい。明日からはまた、しばらくは離れ離れ。しっかり味わってこの感覚を覚えておかなくては、早々に充電切れして気もそぞろになってしまう。
抱え込んだ歌姫の旋毛に鼻先を擦り寄せて目を閉じる。温かな体。甘い香り。女の柔らかさに自然と深く息が溢れ、手足から力が抜けていく。
ああきっと、明日になれば、君はバツの悪そうな顔をして、それでも僕に文句を言うのだろう。
想像するだけで笑みが溢れる。
ふ、と吐息のような笑みを最後に、僕もまた意識を手放した。