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    さんじゅうよん

    @kbuc34

    二次創作の壁打ち。絵と文。

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    さんじゅうよん

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    死んだはずの五条が歌姫のところに転がり込んでくる話の後日談というか間話というか(メインの話未読だと意味不明かと)

    下書きレベルの未推敲ですご容赦を
    終始いちゃついている(当社比)

    ##五歌

    死んだはずの五が歌のところに転がり込んでくる話おまけ こんな生業なのだからと、遺書を書くよう命じられた。
    「つってもなー……」
     思ったことも言いたいことも、全て、その場でそのまま吐き出して生きている。生前には胸の内に秘めた感情を、死後になってから態々伝えたいとも思わない。
     日々を懸命に生きていた。
     慢心などは微塵もなく、ありふれた日常にすら全力を尽くすことを旨とする。
     後悔なく、生きなくては、ならないのだ。
     迷いを抱えて死ぬわけにはいかない。
     死地に赴き悉く敵を祓うのが僕に課された役割で、そこに僕の命は一切勘定に含まれず、最強を自負しながらも僕もまた所詮はいつか死に至るだけの生命に過ぎなかった。絶対、はありえない。万が一のその時に、呪術師のまま、訪れた死を受け入れることもまた僕の仕事である。
     故に、改まって保険をかけて紙に残してまで言い遺さなくてはならないようなことなどは、ない。
     そう、思っていたのだが。
    「……あー、やべ。あるわ、言い残してること」
     真っ白な便箋を前に、ボールペンをくるくる回して首を捻る。はてさて、どう切り出したものだろう。本人に直接告げるのならば簡単だが、こうして手紙にするとなると少々悩む。おまけに、下手を打てば黒歴史だ。嫌すぎる。
     この先にどんな困難が待ち構えているのだとして、それでも、僕が敗けるイメージはさらさら湧かない。湧かないのだが、やはり万が一がないとは言い切れないし、死してなお叶えたい未練もこれさえあればきっと解決する。決して、化けて出る破目にはならないだろう。
     ──────君さえ。
     僕がいなくなったその後も、ずっと、君が、僕に囚われてくれるのなら。
    「……。ふふっ」
     まあ、どうせなら予行練習だと思うことにしよう。手紙で告白なんて古めかしくていいじゃないか。最大限に僕らしく、それでいて彼女を惹きつける台詞はなんだろう。もしもの時にこれを読む君はきっと既に僕を悼んで泣いた後だろうから、もっとぐちゃぐちゃに号泣させてやりたい。そして、遂には涙も涸れて声も上げられなくなった後の君の、乾いた傷痕に僕がなるのだ。
     何が何でも、君の生涯に連れ添ってやる。
     遠い未来、可愛い君をこの腕に抱くことがないのだとして、それさえ叶うのであればたとえ道半ばにこの命を終えたその時も僕は笑って逝ける筈だから。










     カーテンの隙間から、ゆらゆらと、細く陽の光が差し込んでいる。
     朝だ。
     ぱちりと開いた目を、数度瞬く。見慣れた天井。肌に馴染んだシーツの感触。
     但し、中途半端に広げたままの腕の中が、やたらと軽い。
    「……」
     のそ、と体を起こした。
     がしがしと頭を掻いてベッドを降りる。
     寝室を出てキッチンの方へ向かうと、香ばしい匂いが漂う中、食器棚からマグカップを取り出している女の後ろ姿が見えた。
     そろりと忍び寄り、抱き締める。
    「んっ」
    「おはよ歌姫。朝弱いくせに、休みの日に僕より早く起きるとかいい度胸じゃーん?」
    「……もう。朝から喧嘩売ってくるんじゃないわよ」
     別にいいでしょ、と彼女は僕の腕の中で、むくれた顔をしながらコーヒーメーカーを操作する。
    「私だって、その気になれば、早起きくらい出来るしっ」
    「ふうーん? ま、昨日は疲れたって言うから、すぐに寝かせてあげたもんねえ。あーあ、こんなことなら、もっといっぱい付き合ってもらえばよかったーっ」
    「なんでそうなんのよしっかり寝たから早く起きられたんじゃないのっ……私が早起きしたら駄目なわけ!?」
    「駄目だよ。そのせいで今日、歌姫の間抜けな寝顔見られなかった」
    「っ……間抜け面見ずにすんだなら、かえって、良かったじゃないッ……寧ろ感謝しなさいよっ」
    「まさか。損したよ。目ぇ覚めて、一番に歌姫の顔見て、それから起きるのがいいのに」
     覚醒したその瞬間から、温かく柔らかい体を直に感じて、意識するよりも先に君を抱き締めて眠っていたのだと知覚する。そんな日々を、日常的に享受していることに幸せを噛み締める。
     しかしまあこういうのたまには悪くないというか、どちらとも比べ難いくらいにはかなりイイ。
    「ん、怒んないでよ。あと、僕もコーヒー飲みたい」
    「調子いい男ねっ……」
    「とか言いつつ、最初っから僕の分まで用意してくれてるとこ、めっちゃ好き〜っ」
    「……」
     本格的にむくれて膨れた頬に、へらへら笑いながらキスをする。甘えたように抱き縋っても、歌姫は、むっと黙り込んで動かない。
     唇で触れた頬は熱かった。
     そこそこ経験もあるだろう三十過ぎの女が、この程度で、こうも簡単に茹だり上がるとは。
     もっと色々と凄いこともしている筈なのに、歌姫ときたら未だに僕に慣れてくれない。照れて固まって小動物のようにぷるぷるされるのも、可愛いには可愛いのだがいい加減に飽きてきた。
    「歌姫」
    「っ」
    「いつまで僕相手に身構えてるつもり? リラックスしてよ。そんながちがちに緊張されると、ちょっと傷つく」
    「きっ……べ、別に、嫌ってわけじゃ」
    「ないのは、知ってるけど。でも、早く慣れてよ」
     怒涛の勢いで攻め落としたし、一応は気遣って近頃遠慮していたのが仇になったか。やはり、この女には少し怒らせるくらいの接し方が丁度いい。怒っている間は諸々忘れて気にならないようだし、荒療治にはなるが、僕に触れられるのが彼女の日常になるまでは強引にいこうと心に決める。
     隣にいることを許されているだけでは、まだ足りない。
     いつでも傍に僕がいて、こうして隙間なく触れ合って、それが当たり前になって、一人の時間が物足りなく落ち着かなくなるくらいどっぷり僕にはまってくれないと。
     少なくとも僕は、既に、ほんの僅かな時間も距離も我慢ならない程、君の温もりに依存している。
    「もう、僕たち、夫婦なんだから」
    「っ……」
    「ね?」
    「…………」
     僕の台詞に歌姫はまごついて、俯いて、口の中で「あんたいちいち言い方が卑怯なのよ」なんて文句を言いながら、二つ並べた空のマグカップに順番にコーヒーを淹れていた。





     結婚した。
     よりによって、あの、五条と。
     状況が状況なので籍を入れただけではあるが、確認のつもりで後日取得した住民票に、私とあいつの名前が並んでいるのを何度も何度も確認して、世帯主の自分の名前と、それに対する奴の続柄の欄に夫と記載されているのを見て一人身悶えた。
     あいつ、本当に、庵になったんだ。
     まあその前は一時的に佐藤さんだったわけだけれど、佐藤悟よりも庵悟の方が格段に変である。語呂の問題ではない。とにかく、違和感が凄まじい。
     それに、だ。
    「…………これ、流石にもう、五条って呼べないわね……」
     十年も慣れ親しんだ呼び方をいきなり変えるのは、非常に難儀である。端的に言うなればあれだ、要するに、物凄く恥ずかしい。
     だって、相手は五条なのに。
     顔を合わせれば喧嘩ばかり、私が怒鳴って喚こうが何だろうがけらけら笑っていたあの、五条だ。付き合いだけは長かったのにそれもこの半年の間にがらりと関係性が変わってしまって、そのくせ五条は平気な顔で以前と変わらぬ五条のまま、それでいて昔とは違う甘い笑顔を毎日のように振り撒くようにもなって、実を言うと、私は、少しばかり置いてけぼりを食らったような心地でいた。
     実感が、湧かないのだ。
     変わらない態度を心がけることも素直に甘えて振る舞うことも、出来ない。昔と同じように振る舞おうにも片言で心にもない悪態を吐く破目になり、甘やかすように抱き締められればどう反応していいのか判らずに顔を真っ赤にして固まるしかない。そして、こうして、公的な書類に夫婦として名前が記載されていたり左手の薬指に収まる金属の重みを感じたりする度に、結婚、の二文字を強く意識して狼狽える。
     ────結婚、そう、結婚。
     結婚、したのだ。
     まだ、誰にも言えないけれど。事情を知っている硝子にすらきちんと伝えられていない、だけど確かに、私たちは夫婦で、家族になった。
     どこにも行かない、私の傍にいると、他でもない私に、こんなにも確かな証立てをして誓ってくれた。
     なのに。
    「…………」
    「歌姫?」
    「あ、おかえり……」
    「ただいま。……で、何やってんの?」
     左手を天井に翳してぼんやりしていると、かちゃり、と廊下に続くドアが開いて五条が顔を出した。
     上着を脱ぎ、カツラを取り、それらをソファの隅に投げ出した五条は、右手に住民票、左手を顔の前に高く掲げ、そのままで動きを止めていた私を見て胡乱な顔をする。
     私は我に返り、複製防止の透かしの入った書類をローテーブルに伏せて意味もなく左手を背中に隠した。
    「や、別に、何も……ちょっと、ぼーっとしてただけで。お、お風呂、沸いてるわよ?」
    「んー、じゃあ、先に入ろうかなあ────って、そんなんじゃ誤魔化されないんだけど」
    「わっ」
    「……何これ、住民票? 何に使うの?」
    「や……ただ、籍入れてそろそろ一ヵ月だし……ちゃんと、受理、されてるかなって」
    「確認に? わざわざ? もぉ〜、歌姫ったら心配性だなあ。大丈夫だって言ってんのに」
     そんな簡単に足のつくような戸籍じゃないよと五条は呆れたように笑い、どか、と私の隣に腰を落とした。
     そして、大きな手が、そわそわと背中の後ろで落ち着かなかった左手を捕まえて引き摺り出し、にんまり歪んだ唇に押し当てる。
    「っ」
    「ふふっ。歌姫さあ、最近よく、指輪じーっと見てるよね」
    「ぇ」
    「あれ、無自覚? よく見てるし、よーく触ってるよ。そんな気に入った?」
     こんなことならもう少し奮発したらよかったかなあと五条はぼやくように零しながら、指輪の上に口付けて、そのまま頬擦りをしてくる。甘く目を眇め、上機嫌に微笑んで、撫でろと言わんばかりの猫のような仕草で擦り寄る姿に、かわいい、と思った瞬間ぼっと顔が発火したかと錯覚するほど熱くなった。
     もう、一体何なのよ。これ。
     目の錯覚だと思って改めて見詰め直したのだが、きらきらしい満面の笑顔を前に網膜がさらなるダメージを負っただけだった。あまりの眩さに、ぅ、と喉の奥から奇妙な悲鳴が漏れ出る。
     五条なんて、ちょっと見てくれが良いだけで実質歩く厄災みたいなものだったのに。敵は勿論味方ですら毛嫌いしていて、ありとあらゆる多方面にダメージを与えていた。そして、それをどこか楽しんでいる節さえある性格の悪さは今尚継続していて、あの頃から何も変わってはいないというのに。
     どうしよう。
     私、結構しっかり、浮かれているかもしれない。
    「ゔぅうう……五条の、くせにぃ……!」
    「何その文句。照れ隠しにしても意味わかんなさすぎじゃね?」
    「喧しいのよ! あんたちょっと口閉じてて!」
     自問自答したところで返ってくる答えに一人身悶えして、更に口惜しさを増すだけである。悔しい。惚れた弱み、という言葉の意味を、日々思い知らされている。
     ぱし、と指に絡む手を振り払い左手の自由を取り返したところで、にまにま笑って口を閉じた男が身を乗り出し、私の唇にキスを落とす。
     ふに、と押し付けるだけの口付けは、わかりやすく続きを強請っていた。
    「……」
    「ねえ。風呂、まだ? 一緒に入んない?」
    「……黙ってろって言ったんだけど」
     やっぱりこいつ、余計なことしか言わない。
     私はじとりと五条を睨みつつ、けれども私が困り果てたのを見かねて話を逸らしてくれたのも察しがついて、でもだからってと頭の中は騒がしく喚き立てつても結局は行儀よくイエスの言葉を待つ男の首に腕を回した。



     五条の今の「仕事」について、私は詳しく知らない。尋ねてもいない。
     けれども大体のところは想像が付いている。あれできちんと義務は果たす男なので、イチ抜けでじゃあ後は全部任せた、なんて無責任は流石に出来なかったのだろう。名前こそ出てはいないがあちこちで派手に暴れているようなのが少々気掛かりなものの、相変わらず上手いことやっているらしいので今の時点では横から口を出す気はなかった。
     蚊帳の外に置かれている不満と寂しさは、ある。
     けれどそれは、私を選んで、呪術師を辞めるとまで決めた五条の愛であるとも理解はしていて、だからこそ不服ながらも奴の帰りを待ち、素知らぬ顔でおかえりと迎え入れている。
     ────全て終われば、きっといつか、私にも話してくれるだろう。
    「ねえ歌姫。今度、いつ休み?」
    「ん……何もなければ、次の日曜……なに。なんか、ある?」
    「うん。ちょっと、付き合って欲しいところ、あってさ」
     遠出になるし保険もかけたいから丸一日欲しいんだよね、と言われて、ベッドの中、温かい腕に抱かれて既に夢現になっていた私は重い瞼を持ち上げられないまま「べつにいいけど」と安直に応えた。
    「でも……あんた、いいの? 普通に出歩いて……」
    「平気だよ。てか、普段から僕、出掛けてるじゃん」
    「あんた一人きりの単独行動とはわけが違うでしょ……」
    「そんな変わんないって。人の多いところじゃないし、大丈夫」
    「……ん……なら、わかった……」
     一緒に遠出。
     こそこそしてばかりで近場の買い出しにすら並んで出掛けたことはなかったな、とふと思う。デートだと思っていいのだろうか。それにしては五条が珍しく生真面目な雰囲気なので、もっと、大切な用件なのかもしれないが。
     でも。
    「……それ、しごと?」
    「んーん。違うよ、プライベート。まあ、完全に遊びってわけでもないんだけど」
    「ふぅーん……そお……」
    「あ。なに、もしかして歌姫、嬉しいのぉ? 二人で出掛けんの、何気に初めてだもんなあ。折角だし、ついでにデートしよっか。ね?」
    「………………うん……」
     時間作るわ、と拙く約束する私を五条は可笑しそうに抱き締めて、「眠たいからやたら素直だねえ」と笑っていた。
     どこに行くとも何をしにいくとも言われなかったのに深く尋ねもせず快諾してまったことを朝になってから後悔したものの、仕事に行く私の見送りに立った五条が、「休みの日、日曜で決まりだったら教えてね」と機嫌よく告げるのを見ていたらそれも些末なことのように思えてきた。
     いや。どう考えても、全然良くないでしょ。これ。
     この男と暮らすようになって随分甘くなってしまったなと自覚はしていたのだが、ここまでくると最早そんな程度の騒ぎではなく、何と表現したものか、底無し沼に落ちてずぶずぶに足を取られて現在進行形で沈んでいっているような気がする。多分、既に腰より上まで浸かっている。抜け出せないのはまあ致し方ないとして、しかし、このまま爪先から頭の天辺まで温くて暗い泥の中に沈んで盲目になるような事態だけは何としてでも避けたい。
     決意も新たに支度を整え、玄関に立つ。
     そして、ブーツを履き、鞄を肩に掛け、背後を振り返ってきつく睨んだ。
    「……じゃあ、いってくる」
    「ん」
     すると壁に寄りかかって私の様子を伺っていた五条は、にやついた顔で身を乗り出して、私の唇にキスをする。
    「……」
    「ちなみに今日、僕、用事ないから。一日家にいるから」
    「…………」
    「早く帰ってきてね。続き、しよ?」
     いってらっしゃい、と舌舐めずりで狼が笑っている。
     改めて睨み直してやったものの生憎と耳まで真っ赤になってしまい、我ながら迫力に欠けた。律儀に見送りに来るのもそうだが、不意打ちでこういうことをするのは卑怯だ。この馬鹿は、いつまで新婚気分で人をおちょくるつもりなのだろう。
     ああ、もう、本当に、嫌。
     こんな浮かれ調子の私は私じゃない。
     放っておくとすぐに緩もうとする顔の筋肉を必死に力んで仏頂面を維持しながら、「……遅くなるかもしれないから、先に、寝てなさいよ!」と喚いて家を出た。
     ……なお、その日はたまたま授業以外の仕事が湧かず降らずで結局いつもより随分早く帰宅することになり、五条を随分喜ばせる破目になった。




     今のところ、休みは無事に日曜日に決まりそうである。
     急な予定変更はあるやもだが、同業だったのであいつにもそのくらいの理解はある。あとはもう、天に運を祈るばかり。
     ……にしても、何処へ、何をしに行くのだろう。
     あの後一応は尋ねてみたのだが、案の定、既に言質を取っているものだから「それはぁ、行ってからのぉ、お、た、の、し、み♡」とまともな回答は得られなかった。
     腹立つ。
     ばっちりウィンクを決めて人差し指を振るあざとい仕草も相俟って、物凄く腹立たしかった。一発殴ろうと思ったのに抱き締められてキスされて抱き上げられて、そのままベッドに押し込まれて、はっとしたときにはもう朝だった。勿論、何も聞き出せていない。ほんと腹立つ。
     何であの男、あんなに勝手なのよ。
     夜明け近くまで潰すように抱いたのも時間ギリギリまで起こさなかったのも甲斐甲斐しく世話を焼いたのも朝食が私の好物だったのも、全部、計算ずくだったに違いない。馬鹿が。今は言えないのなら言えないと、そう、言ってくれればいいのに。まだ言えないけどこれでも
    悪いとは思っているんだよ、と言わんばかりのご機嫌取りが見え透いて、それがまたこの上なく癪に障るのだ。
     こんなの、怒るに怒れない。
     壊れ物のように扱われていることを知っている。お陰様で不平不満が滝のようだ。それも解っているだろうに、五条はただただ大切に、私に触れる。だから何も言えなくなる。本当は、ずっと前からそうしたかったのだと、言葉にせずとも伝わってくるから。
     私だって、何か、したいのに。
     与えられるばかりの愛情では不服だ。文句を言ったところでそんなことはないよと諭すように返されるのが目に見えていて、特別案がある訳でもない私では口を噤むしかないのも苛立ちの要因である。五条は多分、今に満足していて、私に何の期待もしていない。私は昔から、あいつの、ああいう自己完結的な思考回路と振る舞いが大嫌いだというのに。
     ……きっと本来、こういう擦れ違いは恋人期間に擦り合わせておくものなのだろうが、込み入った事情から生憎とその辺りをすっ飛ばした。しかし、これから長い時間を一緒に過ごすのだから、軋轢を生みそうな懸念は早いところ解消すべきである。
     五条は、私一人手に入れる為に、これまで積み重ねた全てを擲った。
     ────だとしたら、私にも、同じ覚悟が必要なのかもしれない。
     変わらなくては。
     本当に欲しいものはたった一つ、これだと決めてしまったのだから。
    「………………い、先生?」
    「あ」
     高い声に呼びかけられ、はっとして顔を上げる。
     慌てて振り返った先には西宮がいた。怪訝そうな顔をして、手にしていた書面を私の方に差し出してくる。
    「はいこれ、報告書。……先生、どうかした? ぼーっとしちゃって、声かけても全然気づかないし」
    「それは、悪かったわね……ちょっと考え事してたのよ」
     差し出された紙を受け取り、可愛らしい丸文字が並ぶ報告書にざっと目を通して抜けがないことを確認してから机の上に伏せる。
    「いいわよ。お疲れ様、今日はもう、帰ってやすみなさい」
    「うん。先生は?」
    「最近は大分落ち着いてきたし、あと少し書類片付けたら帰るわよ。なあに、聞きたいことでもあるの?」
    「聞きたいことっていうか…………。ねえ先生、もしかして、プロポーズでもされた?」
    「ぶっ」
     別に何を飲んでいたのでも食べていたわけでもないのだが、動揺のあまりつい噴き出した。デジャヴである。かなり前だが、非常によく似たシチュエーションを味わった。
     私は口元を拳で拭う。
     平静を装うにはあまりにも手遅れが過ぎるが、それでも硝子の前で酒を噴いた時よりは落ち着いている。無理をして普段通りに笑った。
    「な、何よ急に……どうしてそんなこと聞くの?」
    「だって先生、最近よく薬指弄りながらぼーっとして、溜息吐いてるし。なに? 返事に悩んでるとか?」
    「…………」
     鋭い。
     まあ、厳密にいえばプロポーズは通り越して既に入籍済みではあるが。悩んでいるのはもっと別のことだが。
     細かいことはさておき、にしても、ひた隠しにしている筈の男の存在をこうも明確に嗅ぎ当てられるのも二度目となるとそんなに私はわかりやすいのかと少し落ち込む。反省しなくては。五条にも、無意識に指輪を気にしているとついこの間指摘されたばかりなのに。こんなことでは、今の生活を守り切ることなど出来やしない。
     私はぎこちない笑みを浮かべたまま、またそろりと、左手の薬指を撫でてしまう。
     今、そこに指輪はない。仕事中は着けていなかった。つけたり外したりは紛失の元だとわかってはいるけれど、形として、あの男が私のものなのだと実感していたくて、常に持ち歩いている。
     まだ、知られるわけにはいかない。
     けれどもずっとこのままで、隠し果せるとも思わない。
     ……そうだ。本当は、わかっていた筈だ。考えないようにしていただけ。だって、もう少しここにいたかった。あいつと違って、私はまだ何も果たせていないから。呪術師としても教師としても未熟なまま、なのに、未だ癒えない傷を抱えて、それでも前を向き始めた教え子たちを置いていくのは躊躇われて。
     せめて、あと少し。もう少しだけ。
     居ないよりはましだろう。力不足は承知の上で、それでも、傍で、支えてやりたかった。
     だから。
     だけど。
    「先生、あのね────」
     そして、長い逡巡に囚われて動けないでいる私を前に、西宮が、呆れたように口を開く。





     その日、日没より少し遅れて帰宅してきた歌姫は、僅かだが目元が赤かった。
    「……歌姫。今日、なんかあったの?」
    「え? な、何でもないわよ?」
    「嘘。泣いたでしょ」
    「……」
    「何があったの」
     何故この女は、僕には通用しないとわかっていて口先ばかりに取り繕おうとするのだろう。これだから馬鹿だというのに。
     変わらない愚かしさに呆れと怒りを滲ませつつ、おかえりと抱き締めた格好のまま玄関先で尋問したところ、「本当に何でもないんだってば!」と悪足掻きに喚くような前置きを寄越した後で、実は学生の成長を実感して泣いてしまったのだと白状した。
     本当に、何でも無かった。
     内心ほっとしつつ、気恥ずかしいのか僕の胸に顔を伏せたまま、歌姫がぼそぼそと詳細を語るのに耳を傾けた。
    「今日……西宮とね、ちょっと話してて。色々あったとはいえ、たった一年で、みんな随分大人になってて……子供の成長って早いなあと思ったら、なんか、感動しちゃって……。そしたら、その」
    「ふうん。それで泣いちゃったんだ」
    「ぅ……」
    「歌姫、昔っから泣き虫だもんね。そういうことなら、仕方ないかあ」
    「いっ、今も昔も、泣き虫なんかじゃないわよ! ……あんただって、三十過ぎたらわかるわよ……よくわかんないけど、やたらと涙腺緩くなんのよ……!」
    「えー? 本当かなあ〜?」
     仮にそれが真実だったとして、多分、僕なら泣かないけど。
     それでも教師として、学生の成長に感慨を覚える気持ちはわかる。
     実際、僕も、そうだったから。
    「よかったね」
    「……。うん」
     僕の言葉に顔を上げた歌姫は一瞬きょとんとして、直後、小さく頷いた。
     はにかむように笑うのが、とても、愛おしい。
     照れた様子で再び俯いた彼女の額に唇を寄せて、僕は、ゆっくりと腕を解く。
    「で、仕事の方はどんな調子?」
    「……予定通りよ。明日は仕事、日曜は休み。よっぽど大丈夫だと思う」
    「そっか。良かった、じゃあ、出かける支度しとかなきゃ」
    「そうね。……行き先、まだ、教えてくれないわけ?」
    「うん。内緒。楽しみにしてて」
    「……」
    「人に見られるとまずいし、暗いうちに出るからそのつもりでね」
    「…………。わかった」
     むかつく、と顔に大きく書いた歌姫は、しかしそれ以上追求するでもなく不機嫌顔で夕飯の前に腰を下ろした。




     
    「…………着ける、の?」
    「うん?」
    「……」
     風呂上がりの彼女を捕まえて、ベッドに連れて行った。
     繋がる前にと、いつものようにベッドサイドに常備している避妊具に手を伸ばした僕に向かって、シーツにしどけなく沈む歌姫がどこか穿つような目を寄越す。
     何だろう。
     首を傾げながらも包装を破いて中身を取り出し、支度は済ませる。
     再び覆い被さる僕に、彼女もまた自然と腕を伸ばして、体の中に僕が潜り込む感触に息を荒げて目元を赤らめた。
     蕩けた顔を見せながらも、少し不満そうに僕を睨む。拗ねたような仕草は可愛いが、何かしらの心境の変化を感じさせられどうにも訝しんでしまう。
    「……歌姫、やっぱ、なんかあったんじゃない? 今日、ちょっと変だよ」
    「あっ……そんな、こと、ないし……」
    「だって、今まで一回もそんなこと言わなかったじゃん。急にどうしたの?」
     そりゃ、僕だって、直接触れられるものならそうしたいけれど。
     子供はまだいいかな、と思っていた。お互いそこそこいい歳だが、でもだって新婚だし。漸く長い片思いが終わったばかりなのだ、もっと、二人きりで楽しみたい。それに、歌姫だって、もう少し働いていたいだろうし。
     いずれそのうちに、とは考えているけれど、それが今でないことだけは確かだった。
     だけど。
    「歌姫?」
    「それは……だって。んっ……ぅ、あ、やっぱ、いい。明後日……あんたの用事、終わってから、で」
    「何それ。今、教えてくんないの?」
    「っ、あ、んた、だって……何も、教えてくれないじゃないっ……」
    「だって歌姫、隠し事下手なんだもん」
     もう少し上手に隠してくれるなら、僕だって、こんなふうに追及したりせず知らんぷりしてやってもいいんだけど。思わせぶりにされると、白状するまで追い詰めたくなる。
     しかし僕の言葉に何を勘違いしたのか、むくれた歌姫は「どうせ、私は、わかりやすいわよっ……」と唸っている。
     そういうことじゃないんだが。
     僕が裏でこそこそと後始末に勤しんでいるのは、流石に勘づいているのだろう。気付かないふりをしてくれているのも判っている。はっきり告げないのは、歌姫の前ではただの悟でいたいから。可愛い後輩やら教え子やらに一番の面倒事を押し付けて一抜けしたのだ、お掃除くらいはしておいてやろうかとなけなしの仏心を出したものの、宣言通り、この先、呪術師として生きる気は微塵もない。最強なんて肩書きは、君の隣で生きるには不便なだけ。だから捨てた。彼女に何も言わないのも同じ理由だ。僕らのこれからを思えば、それは、邪魔な情報でしかない。
     しかし、やっと、それも片が付いたのだ。
     最後のけじめをつけたら、これからのことを、もっとちゃんと二人で話したいと思っていた。
     その為に、明後日、連れて行きたいところがあると言い出した僕を、皆まで語らずとも、彼女は察して大事にしてくれている。
    「あっ、んんっ、五条、そこっ……あ!」
    「ん、もう、そんなに物欲しそうに腰揺らして……あんまり誘惑しないでよ。一回じゃ済まなくなるんだって」
     明日早いんでしょ、と尋ねて潤んだ目元を擽れば、歌姫はこくこくと同意しながらもキスを強請ってくる。今さっき煽るなと言ったばかりなのに、聞こえなかったのかこの女。
     奥歯を噛み締めて息を吐く。
     篭る熱を逃がそうにも、目の前には、最愛の女の痴態が広がっている。
     ああ、なんて、幸せな地獄だろう。
     鋭く目を眇める僕に何を思ったのか、歌姫は、一瞬でも怯んでしまったのを隠すように眦を吊り上げてこう言った。
    「……五条。キスして」
    「はいはい」
     ストレートなおねだりに降参する。体を合わせたまま口付けて、少しずつそれを深めていきながら、僕とは違って今もしっかり現役のくせに軟弱なこの女を、潰さない程度に貪るにはどの程度まで許されるだろうかと、頭の隅で緻密に算段をつけていた。





     翌日。
     絶妙な加減で追い詰められた私は、それでもすっきりと朝を迎え、無事に任務も果たすことが出来た。
     とはいえ流石に帰宅時刻のコントロールまでは利かず、日付が変わる寸前に帰った私を出迎えた五条にやたらてきぱきと世話を焼かれて、気づけば布団に寝かしつけられていた。
     とん、とん、と穏やかなリズムで背中を撫でられて、私はうとうとしながらも喉の奥で唸る。
    「ちょっと……あんたねえ、わたし、子供じゃないのよ……? いくら何でもこれは馬鹿にし過ぎ……」
    「けど歌姫、ちゃんともうおねむでしょ? ほらほら、ぐずぐず言ってないではい寝るー、明日早いし、やることいっぱいだよー? ちょっとでも休んどかないと」
    「ぅ……ん……」
     珍しく、まともにキスもしないまま、一日を終えてしまった。付き合いだしてからはそんなこと一度もなかったせいか、何だか酷く物足りない。
     ばか、と呟いて口を尖らせた。
     瞼はもうほとんど開いていない。五条の笑う気配をか感じていると、口元に、柔らかく何かが触れた。
    「……」
    「そんな顔しても、今日はだぁめ。また明日」
    「…………ん」
    「おやすみー」
    「……」
     くそ。こいつ、すっかり私の扱いに慣れてやがる。
     そんなところにもいちいち腹が立つのは、今はまだ照れ臭いからなのだとわかっている。
     時間が経てばこんなやり取りも当たり前になって、習慣として体に馴染んで、意識すらしなくなるのだろう。
     そんなふうに、この男の一挙一動に煩わしく感情を揺さぶられる今を遠い昔だと忘れてしまうくらいに、ずっと、傍にいたい。
     二人の約束を、守りたい。
     その為に、私も、私が出来ることをしたいのだと、温かい脈の音に耳を澄ませて意識を閉じた。



     宣言通り、早朝、と呼ぶにもあまりに暗い時間に起こされた。
    「………………んぅ……」
    「……マジで寝起き悪いね。歌姫」
     こんなんで今までよく一人暮らしなんか出来てたな、なんて呆れた声でぼやくのを他人事のように遠く聞きながら、言われるがままに起きて身支度をしていると「遅い」と溜息を吐かれた。そこからは、指一本動かさないでもみるみる支度が整っていく。それこそ着せ替え人形だ。ああしてこうしてと指示されるのを諾々と熟し、用意された服に袖を通す。
     着せつけられたのは、黒のワンピースだった。
     やっとの思いで開いている薄目に映る五条も白いシャツに黒のスラックスを合わせていて、それは、普段着と呼ぶにはあまりに堅苦しい。
     いつの間に用意していたのだろう、持っていて、と差し出された紙袋の中身を見て、この時ようやくはっとした。
     それは、花束、だった。
     大輪の白菊をメインに、小ぶりの百合、竜胆。スターチス。カーネーション。
     簡素な包み紙に、華やかさとはかけ離れた落ち着いた色合いのそれは、これから何処へ行くのかを容易く予想させた。
    「……五条」
    「よし。じゃ、行こうか」
    「……」
    「近場まで飛んで、そしたら、少し歩くから。掴まってて」
    「………………わかっ、た」
     歩きやすい靴を選び、花を抱えた私を、更に五条が抱えてベランダに出る。
     五条に運ばれての移動は一瞬だった。もう二度と御免である。奴の術式に私自身も守られて傷一つだってつくことはないのだと頭では理解していても、野球のボールか何かのように、無造作に、豪速で、目的地に向かって体が放り出される感覚なんて到底楽しめない。
     げっそりしつつも人目を避けて見知らぬ山中に降ろされた。可笑しそうに笑う五条に先導され、街中に向かって二十分程歩いたところで、広い霊園に行き当たる。
     ここならば、知っている。
     高専所有の墓所だ。
     ────過ぎた春、この場所に、残された皆で、空の棺を焼いた灰を、掻き集めて納めた。
     あの日。
     曲がりなりにも、私は、此処にこの男を弔った。
    「…………」
    「ああ、これか。五条悟(ぼく)の墓」
     一度来たかったんだと五条は笑って、大きな石碑の前に花を供える。
     思えば今日は、月命日である。
     渋谷事変から決戦までの間に命を落とした仲間の中で、引き取り手の無かった術師や、遺体の見つからなかった術師を合同で祀った慰霊碑だ。ありきたりな故人への祈りと、代表で命日と彼らの定めた幕引きの日が刻まれている。
     まだ、あれから一年経っていない。日の出前であったが前日のものだろう供花がいくつか手向けられていて、未だ頻繁に人の訪れがあることを知らせていた。
     墓標の前に屈む広い背中を眺めて、私は、きつく口を引き結ぶ。
     否応にも思い出す、あの日の空虚。今ならばわかる。ぽかりと空いた胸の穴は最早埋めようがないと無意識ながら予感して、私はきっと、静かに絶望していた。
     けれども現実には、五条は生きていて、勝手に私の部屋に転がり込んできて。
     ────五条(いえ)を捨てて、私の手を取って、この先の将来を全部くれた。
    「形があるって、わかりやすくていいねえ。ちゃんと、僕の名前もある」
    「…………五条」
    「もお〜、歌姫ったら、違うでしょお? プロポーズの時にも言ってんじゃん、五条悟は、もう死んだんだって。ほら。これ見なよ、立派に墓もある」
    「…………」
    「それに、五条悟は、みぃーんなの五条くんだったけど。僕は違うよ。歌姫だけの、悟くんだから」
    「………………ッ」
    「ねえ。こうして、無事に墓参りも終わったことだしさ、そろそろ死人の名前で呼ぶのはやめにしねえ? もっと全部、歌姫のものにしてよ。僕のこと、歌姫が、幸せにして」
    「ご…………さと、る」
    「ん。ごめんな、欲張りで。もうちょっとくらい、我慢して、待ってやれるって思ってたんだけど……でも、やっぱ、もっと欲しくて。これから先、歌姫に、僕の為に生きて欲しい。だから──」
    「────、っ。待っ、て」
     続きを遮って、唇を塞ぐ。
     柔らかく触れて、すぐに離れて、しかし驚いた顔で動かないままの男を確認してほっとする。よかった。全部、言われてしまう前で。
     その先は、私から、この男に伝えたい。











    「五条。私────高専、辞めるわ」











     ああ、やっぱり、気付いていたんだなと、思った。
     ずっと今のままではいられない。
     かと言って、優しい君は、大切な仲間を、教え子を、簡単に切り捨てることも出来ない。
     それでも、いつかは天秤にかけることになるだろう。望む幸せを得る為に、僕と、その他を比べて、どちらを取るのか答えを出さなくてはならない。
     迷っているのは知っていたから、もう少しだけ、彼女の決断を待つ気でいた。
     元々、当初の予定よりもずっと早くに事が進展したこともある。僕も、僕のやるべき事が残っていた。それまでは、と君にも僕にも猶予を与えた。
     墓参りは、一つの区切りだ。
     彼女に、もっと自覚して欲しかった、というのもある。最強を名乗る呪術師は死んだのだと。今ここにいる僕は君のよくよく見知った五条悟と地続きで、でも、今までとは違って何の柵もなく、好きな女と共に生きたいと凡庸に願うだけのありふれた男でしかないことを。
     その上で、もう一度、僕を選んで欲しかった。
     ただ、けじめをつけたからとすぐにどうこうというつもりは直前までなくて、けれどもこのところ様子の怪しい歌姫に内心焦りも生まれていて、つい、急かすようなことを言いかけて。
     だけど。
    「高専、辞めるわ」
    「……歌姫」
    「あ、あのね…….だからってわけじゃ、ないんだけど……一つ、お願いが、あって」
    「……」
    「…………………………子供が、欲しい、の」
     意を決した様子で、本当はずっと前から考えていたのだと、目元を赤く染めながら訥々と歌姫が訴える。
    「でも、そうなると、お金とか、もっとかかるでしょ? まだ、高専も人手が足りないし……だから、出来るまでは、ぎりぎりまで働いて、稼いで。それで、その、上手くいったら…………その時は、呪術師辞めて、高専の連中も、誰も知らない場所で暮らさない? 二人で一緒に、産んで、育てたい」
    「……」
    「全部、一から、始めましょう? あんたと、私と、……それから、私達の子と」
     どうかしら、と僕の手を取り、おずおずと見上げて、窺うように首を傾げる。
     もしかしたら断られるかも、とでも思っていそうだ。上気して、僅かに潤んだ瞳が惑うように揺れている。
     馬鹿な歌姫。
     僕が、そんなこと、するわけないのに。
    「────うん」
    「っ」
    「うん。それがいい。そうしたい」
    「……」
    「そう、しよう?」
     握った手を引き寄せて、姿勢を崩した彼女が僕の胸に飛び込んできたところを抱き締める。
     きっと沢山、考えてくれた。
     先の先まで僕との将来を悩んで出したのだろう、その末の提案が、嬉しい。
     東の空が、徐々に白み始めていた。
     しかし、それでも日の出には程遠い。未だ青く翳る夜の中、かつての己を葬った墓標の前で固く抱き合う。力任せに腕に抱いた女の体は細く柔く、それでいて、潰すように抱き締めても壊れてしまいそうな不安感はまるでない。それどころか、負けじと強く、僕を抱き返してくれる。
     大丈夫。
     僕らは、幸せになれる。
     まあそうは言っても、今だって充分、有り余るほどの幸福感で、胸が閊えるくらいだけれど。でも、だからこそ、この程度で満足するなんてあり得ない。今まさに青い春を愉しむ若人たちには負けるものの、僕も彼女もまだまだ生い先長い身の上だ。残りの人生、もっともっと、楽しみ尽くしたい。
     君と、一緒に。
     ……ただ。
    「五条……」
    「じゃないでしょ。悟だってば」
    「あ……う、ごめん。けど、慣れなくてつい……」
    「じゃあ、早く慣れてよ。……ったく、何の為に、わざわざおんなじ名前で戸籍取ったと思ってんの?」
     ずっと昔から、思っていたのだ。
     家から継いだ名前なんかじゃなくて、僕自身の名前を呼んで、君に、笑いかけて欲しいと。
     しかしこの調子ではまだまだ先は長そうである。少々ばつの悪そうな様子で俯いて、僕の胸に頬を押し当て、でもだってとぶつくさ言い訳を並べながらぴったり抱き着いている歌姫を見下ろして溜息を零す。
     贅沢な悩みだ。
     これはもう帰ったら特訓するしかないなと胸の内に固く決め、こちらを向いたまま動かない旋毛に頬擦りをする。
     そうやって、暫く、抱き合っていた。
     ──────長い夜が明けるには、それでもまだ、早い。





     人が来るような時間帯ではないとはいえ、仮にも高専の施設、長居するのは得策とは言えない。何しろ、見られては困るからわざわざ明け方に忍び込んだのである。用が済んだならさっさと退散すべきだ。
     取り敢えず移動しようという話になり、一旦来た道を引き返した。
     道中、手を繋いで歩きながら尋ねる。
    「……あんたの用事って、これで終わり?」
     一日欲しい、と言われた割にはやけにあっさりと済んでしまった。万一の備えにしても、スケジュールを大きく押さえすぎではないのか。
     怪訝に思って確認したのだが、案の定、五条は笑って首を横に振る。
    「んーん、あともう一個。そっちがメイン」
    「……?」
     墓参り以上に大事な用事とは、一体、何なのか。
     眉を顰めながら、どこへ行くのよ、と改めて問うも五条はにやりと笑ってはぐらかすだけだった。
    「まあまあ、そんな身構えなくても平気だって。歌姫は、気楽に楽しんだらいいよ」
    「楽しむ、って……妙なこと、企んでるんじゃないでしょうね……?」
    「失敬だなあ。失礼しちゃうなあ、ほんと」
     じとりと睨む私にぷりぷりとぶりっ子ぶって怒ったふりをした五条は、ちらりとスマホで時間を確認し、すぐにポケットの中に押し込んだ。
    「ちょっとしたサプライズだよ。まあ、八割くらいは僕の為だけど。でも、出来れば、素直に喜んでくれると嬉しいなあ」
    「だから、それは、何なのよ……ッ」
    「そこはほら、サプライズだから。行けばわかるよ」
     立ち止まった五条が指を解き、私の腰を抱く。
     体が浮き上がる感覚に逆らうことなく、私は男の首に腕を回した。
     移動先はこれまたどこぞの山林の奥で、五条に連れられ、鬱蒼とした木々の合間を縫って少しだけ歩くと、綺麗に舗装された煉瓦道に出た。
     整えられた小径の先には、白い外壁の美しい建物が構えている。
     何だ、あれは。
    「……」
    「ほら。行くよ」
    「ん……」
     手を取られ、腕を引かれ、戸惑いながらも中へ入った。
     どうやらそこはホテルのようだった。それも、そこらの安宿とは明らかに一線を画している。品の良い調度品で整えられたエントランスに圧倒され、顔を強張らせていると、腕を絡めた五条にそのままカウンターまで引き摺られて行った。
     そして。
     ────────そして、
    「き──────き、聞いてないんだけど!?」
    「そりゃ、言ってないからねえ」
    「な、何よこれ、こんな、ドレス、とかっ……こういうのは、もっとちゃんと、前もって言っときなさいよ……!!」
    「だってそれじゃ、サプライズになんないじゃん? 似合ってるよ、歌姫。めっちゃ綺麗」
    「お世辞とかいいのよ馬鹿!! 私にだってね、こういうのは、それなりに、覚悟とが準備とか欲しいのよ……!!」
     貸切にしたらしい、薄暗い、小さなチャペルの中、純白の衣装を着せ付けられて、同じく真っ白なタキシード姿の五条を前にして怒鳴る。
     二十四時間対応なのか、早朝にも関わらず嫌な顔一つせずに受付スタッフがテキパキと処理を進める中、何故か女性スタッフに身柄を引き渡された私はそこから問答無用で全身隈なく磨き上げられ、化粧をし、髪を結われ、用意されていた白いドレスを着せられて仕上げとばかりにヴェールを被せられて、状況が飲み込めず目を白黒させている内に「新郎がお待ちですよ」とラウンドブーケを笑顔で握らされると、チャペルの中へ送り込まれた。
     その言葉通り、中には礼服を着て髪を整えた五条が、満面の笑顔で待ち構えていた。
     マーメイドラインの華やかな白のドレス。
     頭にふわりと被せられたレースのヴェール。
     白を基調とした、プリザーブドフラワーの花束。
     礼拝堂を模した式場に、珍しくきちんと身なりを整えた男とくれば、流石にもう、奴がどういう心算であるのか判る。
    「ここ、有名人とかがお忍びでくる、VIP対応の完全プライベートなホテルなんだけどさ。ブライダルもやってるって聞いたから、ちょっと無理言って、お願いしたんだよね」
     むくれた顔でゆっくりと隣に立った私の手を取り、五条は晴れやかに笑って種明かしを始める。
    「内緒じゃないとまずいっしょ? けど僕、素のままだと目立つし。その点、ここなら個人情報漏れる心配もないから」
    「……」
    「一生に一度なんだから、結婚式、ちゃんと挙げときたいじゃん? 歌姫のウェディングドレス姿なんて、今逃したら絶対見られないだろーし。まあ、普通にお願いしても聞いてくれない気がしたから、黙ってたけど」
    「…………」
    「ついでに、初夜のやり直しもしよ。最初の時は、寝惚けたとこ襲ったみたいになっちゃったし。日帰りだけど、部屋、とったから」
    「………………ッ」
     よくもまあべらべらと、余計なことまで喋る男だ。
     私は顔を赤くして、ぶるぶると震えながら爪を立てる勢いで硬く太い男の手を握っていた。
    「……何で、あんたっていつもそうなのよっ……独断専行がすぎるのよ…………私だって、一生に一回きりなら、尚更悔いのないように最善尽くして臨みたかったわよ……!!」
    「んな意気込まなくても。充分綺麗だよ」
    「充分じゃ不足なの!」
    「ええ? 珍しいな、やけに噛みつくじゃん……意外とこういうの、気にするんだ?」
     驚いたように五条は軽く目を見張り、私の手を取って指輪の上にキスをする。
     気取った仕草に誤魔化されない。
     きつく睨んだままの私を、五条は可笑しそうに眺め下ろしている。
     私はくしゃりと顔を歪めて唸った。
    「あのね、普通、こういうのは、花嫁の意向を聞きつつ男も一緒に考えるものなのよ。これじゃあ私の意見も努力もゼロじゃない。全部あんた一人で済ませちゃって。不愉快よ」
    「ふうん。成程ねえ、それはちょっと勿体無いことしたかな。ちゃんと言ってたら、歌姫、僕の為に綺麗にしてくれるつもりだったんだ」
    「………………」
    「でもまあ、言っちゃ何だけど、正直コンディション的には今が最高だと思うよ? ちょっと睡眠不足かもだけど、普段から食事には気を付けてるし、歌姫がうっかり寝落ちしても僕がケアしてたし、適度に運動もして、夜更かししないように早めに寝かせてあげてたじゃん?」
    「…………………………」
     額を合わせるように覗き込んできた五条から、私は、ヴェール越しにそっと目を逸らした。
     改めて聞かされると、このところの自堕落ぶりが身に染みる。ぐうの音も出ないくらい全てに心当たりがある。五条が家を空ける日には私だって家事やら何やらしているが、それでも今は圧倒的に五条の方が在宅が長く、つい甘えて世話を焼かれてばかりいた。気を付けなくては。
     頼りきりになるのは、嫌。
     二人のことは、どんな些細なことでも、二人で決めて二人でしたい。
     私はそろりと視線を上げた。
     それに合わせて、五条がヴェールをそっと持ち上げる。
    「……ん。まじで、今までで、一番綺麗」
    「この期に及んで世辞はいいのよ……ッ。もう、お腹いっぱいなの……!」
    「えー? まだ言い足りないんだけど。ていうか、お世辞じゃないし」
     本当に綺麗だと、溜息を吐くように、伏目がちにそう零す仕草がそれこそえもいわれぬほどに綺麗で、下を向く長い睫毛がステンドグラスから差し込む光を銀に弾くのを見詰めながら、こんなに美しい男から美人だ綺麗だと言われたところで嫌味にしか聞こえないと僻むように苛立った。
     ああ、嫌だ。
     自分の身の丈は理解している。だからこそ、今日まで、何とか生き残った。
     だというのに、今、愛おしげに私を見て触れるこの上等な男は何だ。壊滅的な性格破綻者だと知っている筈が、粗探しに色々な角度で切り取ってみるも、呼吸も忘れて魅入ることしか出来ない。そこもかしこも完璧な男。それが今、傷物の女一人をその目に映して、幸福そのものに微笑んでいる。
     ありえない。
     こんな、奇跡的な、現実。
     体の奥の方から込み上げる熱が、きつく胸を締め付け、目の奥をぎゅっと押した。
     今にも決壊しそうな感情を、必死に堪える。折角綺麗だと褒められたのだ、涙でぐちゃぐちゃにしたくない。
     そっと目元を撫でる手に、手のひらを重ねるように触れる。
     骨と筋の浮いた、大きな手。
     私と、お揃いの指輪をつけている。
    「愛してるわ」
    「……あーもう、また、先越された……」
     何で今日に限って全部先手取るのかな、と五条がぼやいて顔を寄せてくる。
    「そういうのは僕に言わせてよ。格好つかないじゃん」
    「これ以上は、もう、格好つけなくていいのよ……お腹いっぱいだって言ってるでしょ」
    「……ったく、何でそっちは素直に言ってくんないの? 今日の僕、格好いい? 惚れ直した?」
    「っ…………だから、あんたは、何でそう、それでなくとも恥ずかしいのに、より言い難くするのよっ……」
     そういうところが気に食わないのよと思わずぶつくさ続けてしまう私を、いつもの雰囲気に戻った五条が可笑しそうに眺めてこつんと額をぶつけてきた。
     あいしてる、と、吐息の掠めるような声量が、鼓膜を揺らす。
    「愛してるよ。幸せになろ」
    「……ええ」
     抱き合って、キスをする。
     誰もいないチャペルはしんと静まり返って、まるで、二人きり、世界の端に追いやられたような心地がした。言祝ぎなど一つもない。けれど、不足なく満たされている。きっとこれ以上に何か手渡されたとしても、上手く受け止められずに溢してしまう。だとすれば、今はこれが、最善で正解なのだろう。
     いつか、遠い未来には、人目を忍ぶこともなく共に過ごすことが出来ますように。
     それまでは、その後だってずっと、たとえこの命が果てたとしても変わりなく、この男に寄り添っていたい。
    「後でちゃんと、話しましょ。これからのことも、これまでのことも。……あんた、私に言ってないこと、山程あるでしょ」
    「ん〜? 何のことかなあ?」
    「惚けんじゃないわよっ」
    「もーっ、怒んないでよぉ、ちゃんと全部話すって。……けど」
    「!?」
    「今は、いちゃいちゃすんのが先。後でいくらでも叱られてあげるから。な?」
    「…………もう……調子、いいんだからっ……」
     突然ふわりと私を横抱きに抱え、目元にキスを寄越す五条に、私は結局怒りきれずにキスを返した。まあ、今日のところは、いいか。不平不満をぶちまけるのは、お互いの愛情確認が終わった後でも。
     私は五条の首に抱き着いた。
     そのままあいつの耳元に唇を寄せて、こそ、と囁く。
    「たくさん、抱いてね」
    「ッ」
    「デートはまた、今度でいいから。……早く、赤ちゃん、ちょうだい?」
    「…………。言ったな」
     どうなっても知らないからなと、細く鋭く眇められた青色が、ゆらりと、燃え立つ。
     獲物を捕らえた獣の目だ。そして、当の被食者たる私は悠々と、逃げる気もなく、猛獣の腕の中で勝ち気に微笑んで見せる。
     自分の為だなんて嘯いては、私を喜ばせてばかりの身勝手なこの男に、一矢報いる為ならば安い挑発でこの身を餌に使うくらいわけはないのである。



     わかってはいたし自業自得だったが、散々な目に遭った。
     今日という日の為に暫く控えめにしていた分の鬱憤も全部残さず余さずぶつけられて、すっかり足腰の立たなくなるまで抱き潰された私は、異様に御機嫌の五条に抱えられたままベッドで半日を過ごし、ようやく立てる程度に回復した頃にはすっかり外も暗くなっていた。
     泥のような疲労感と甘い余韻にどっぷり浸りながら、逞しい腕に抱かれて、横になっている間に沢山話をした。
     案の定、五条は移住先の候補を既に幾つか見繕っていた。
     その気になれば、いつでもすぐにでも引っ越せるようにしていたらしい。聞いてない、と文句を言えば「だって歌姫、まだ働きたいだろうなと思って」と少し困った顔をされた。私が仕事を辞めてもいいと言うまで黙っている気だったそうだ。
    「先に言うと、歌姫、気にするでしょ。僕はもう好きにやってるからさ、時間なんてこれからいくらでもあるし、僕に気ぃ遣ってやりたいこと諦めるとかはして欲しくなくて」
    「……」
     そんな顔で、そんなことを言われてしまうと私としては黙らざるを得ない。だって、その通りだったし。
    「……」
    「でも歌姫、本当にいいの? 僕、割とガチで孕ませにいくけど。もしかしたら、すぐに辞めなきゃなんなくなるかもよ?」
    「ちょっと、言い方……。まあ、それは、いいのよ。この間も話したでしょ。……もう、大丈夫なんだなって、そう思えたの」
    「……。そっか」
     五条はそれ以上深掘りするでもなく、私の髪を撫でて、こめかみのあたりに口付けを寄越す。
     擽ったい仕草に目を伏せて、心を決めたその日を思い返す。
     大丈夫だよ先生、とあの時、西宮は言った。
     呆れた素振りで。泣きそうな声で。
     それでも強がって胸を張って、私を安心させようと、笑って見せてくれた。
     ────背中を、押してもらったのだ。
     可愛い教え子が前だけ見据えて頑張っている。先生の私が、先の見えない将来に飛び込む怖れから、足を止めるわけにはいかない。
     それに、だ。
    「大体、すぐに出来るとは限らないし。妊娠したって次の日から辞めます、っていうんじゃないんだから、平気よ」
    「ふーん……それはさあ、あれかな。こんなに無茶苦茶にされた後なのに、まだ足りない、って僕のこと煽ってるわけ? もっかいしとく?」
    「っな、何で、そうなるのよ……! 授かり物だから思い通りになるとは限らない、って言ってるのよ!!」
     妊娠してもしなくても、仕事は三年以内に辞めると二人で決めた。その後は、私たちのことを誰も知らない土地で新しい人生を始める。
     長く、呪術師として生きてきた。他の生き方なんて知らないし、わからない。
     全てが手探りだけれど、それでも、この男と一緒なのだから退屈する暇がないことだけは請け合いだ。
    「……ふふ。楽しみね」
    「そうだね」
     指を絡め、額を合わせ、お互いの顔を覗き込んで笑い合う。
     温かなもので満たされて、けれども今はまだ虚なままの胎を撫でると、空気の読めない旦那が「もう。またそうやって、すぐに誘惑するんだから」と不埒に腰を撫で始めるので、今日はもうおしまいだと、手の甲を抓り鼻の頭に噛みついてやった。

















    「大丈夫だよ。先生」
    「……」
    「うちらだって、もう、子供じゃないし。そりゃ、終わってすぐは、後始末とか建て直しとか諸々大忙しだったけど、今はそこまでじゃないしさ、だから…………一人くらい辞めても、フォロー、できるよ」
    「…………にし、みや」
    「大丈夫。信じて」
     みんないるから頑張れるよと、そう言って、西宮は私の手を握った。
    「呪術師なんて碌でもない奴らばっかりだし、女ってだけで馬鹿にされたりとか、面白くないことも沢山あったけど……でも、高専のことは、嫌いじゃなかった。加茂くんとか東堂くんとか、面倒だったけど。でも、後輩は、可愛かったし。先生の授業も、わかりやすくて好きだった」
    「……」
    「楽しかったよ。先生がいたから、楽しかった。辛いだけじゃなかった。みんなそうだよ。…………真依ちゃんも、メカ丸だって、きっとそうだった」
    「っ……」
    「だから、平気だよ。大丈夫。心配しないで。ちゃんと上手くやるから」
     だから先生も、したいこと、していいんだよ。
     そう言って、小さな手が、きつく、私の手を握り締める。
    「今度はうちらが、先生の応援する。今まで先生がしてくれたみたいに。だから……ね?」
    「…………ッ」
    「歌姫先生?」
     お互い肩を寄せ合って、手を握り、深く俯く。もう顔を上げていられない。言葉もない。情けない限りだ、私は、この子の先生なのに。
     せめてもの意地で、嗚咽を殺す。
     頭の奥がつきんと痛い。
     だけど、笑わなくちゃ。
    「……………………ありがとう、西宮」
    「先生」
    「あんたの気持ち、とっても、嬉しい」
     この子たちが巣立つまで、見守っていたいと、思っていた。
     でもどうだろう。もう、私がどうこう言わなくても、立派な一人前じゃないか。導く必要なんてどこにもない。正しい方向を示してやらなくたって、この子達はもう、自分で答えを見つけて歩いていける。
     大丈夫。
     私が、この手を手放したとしても。






    「……西宮」
    「なあに、先生」
    「あのね、まだ、内緒にしておいて欲しいんだけど」
     ずっと一緒にいたい人が出来たのよ、そう言って先生は、困ったように、照れたように、微かに笑った。
    「だから…………このまま、ここには、いられないかもしれなくて」
    「……」
    「勿論、今すぐ、ってわけじゃないのよ。でも────もし、もしも、その時が来たら」
     後は任せてもいいかしらと、赤い目をして、小さく首を傾げる先生に向かって、私は強く頷いた。
    「うん。うん──」
     胸を張る。虚勢でも。強がって、平気な振りで笑って見せる。
     守りたいのだ。
     小さな背中で精一杯、この人が、私たちを守ろうとしてくれたように。
     一人前のふりをして、本当は、まだまだ至らない私だけれど、それでもみんながいてくれるから、怖くても、踏みとどまれる。
     だから。
    「任せて」
     ───────どうか、この優しい人が、望む幸せを得られますように。





     













     妊娠がわかったのは、春を目前に控えた晩冬の時分だった。
     その一ヶ月くらい前から、五条の様子がおかしくなっていた。怪訝そうな顔をして物言いたげにじっと私を見詰めて、何か用かと問えば何でもないといい、一方であったかくしろだの酒は控えろだの口煩くなり、些細なことでも僕がやるからの一点張りで碌に家事もさせてもらえず、夜には私に触れなくなった。
     理由を聞いてもはぐらかされてばかりで、遂にはキレた私が喚き散らすと「もうちょっと待って。具体的にはあと二週間」と、暴れる前にがっちり肩を掴んで押さえ込まれ、恐ろしく真面目な顔をしてそう言われた。あまりの剣幕に気圧されてこくりと頷いてしまったものの、尋常ではない様子にかえって疑念は増して、一周回って怒りが不安に取って変わった。
     そして、内心怯えながら迎えた、約束の二週間後。
    「…………。うそ」
    「やっぱり」
     二人、肩を寄せ合い睨みつけていたのは妊娠検査薬のキットである。
     信じられずに何度も説明書と交互に見比べるも、どこをどう見てもくっきりはっきり、間違いなく、陽性の線が浮いている。
     唖然とする私と、私の肩を抱いたままで脱力し、溜息を吐く五条。
     どうやら五条は、私よりも先に私の体の変化に気付いていたらしい。
     私はじろりと五条を睨んだ。
    「何で、すぐ、教えてくれないのよ……っ」
    「だって、検査薬も反応しないくらい初期じゃ、まだどうなるかわかんないじゃん。ぬか喜びさせんのもアレだし」
    「それは……けど、いつもと急に態度変えるくらいなら、ぬか喜びの方がましだったんだけど……ッ」
     鬱陶しいくらいべたべたして、シないにしても一緒に布団に潜って隣でぴったりくっついて眠っていた旦那が、日中は変わらぬ態度ながらある日急に背中を向けて寝たり、眠る時間をずらしたりするようになった私の気持ちを考えろと言いたい。圧倒的に配慮が足りない。普通に離婚の危機を疑った。あんな熱烈に誓いを立てておいて一年も保たないのかと、殺意すら覚えたのだ。
     あれに比べたら、ちょっと肩透かしを食らうくらい、何でもない。
     顰め面で舌打ちをする私を見て、五条は軽い調子でごめんと言った。しかも、近年稀に見るレベルの、それはもう酷いにやけ面である。物凄く面白がっている。本当にむかつくこの男。
    「……ちょっと。何でそんなにへらへらしてんのよ。私、本気で、怒ってるんだけどッ」
    「うん。ごめんね。不安にさせる気はなかったんだけど、でも、結果がはっきりしないうちは、我慢出来ずに盛っちゃいそうで。かと言って、今更ベッドわけんのもやだったし。ていうか、生理来てない時点で普通気付かねえ?」
    「……」
    「やー、にしても、僕って愛されてるなあ。まさか歌姫から、そんなに過激な愛の告白が聞けるとは」
    「…………ッ」
     くそ。言うんじゃなかった。
     しかし、口から出してしまったものはもう引っ込められない。自制など利かず顔を赤らめてそっぽを向いたところ、五条は膝上に私を抱え上げて、ぺたりと腹の上に手を当てた。
    「ちっちゃいなあ。米粒みたい。早く大きくなんないかな」
    「……見えるの?」
    「んー、まあ、何となく? ここに、歌姫じゃない呪力があるから」
    「…………。そう」
     ならば、生まれてくる子もきっと、呪術師なのだろう。
     ほう、と無意識に溜息を零す。自分でも、様々に感情が渦巻いて、それが一体何の意味を持つのかはわからない。単純な喜びだけでは決して言い表せない感慨が込み上げて、喉の奥で痞えて詰まる。
     子供。
     私と、五条の。
     ────ずっと、ずっと、待っていた。
    「……」
    「歌姫、嬉しい?」
    「…………ん」
    「よかった。じゃあ、そろそろ支度、始めていい?」
    「うん」
     呪術師を辞めたい旨は、それとなくだが既に楽巌寺学長に話して許可を貰っている。引き継ぎもあるからすぐのすぐというわけにはいかないが、少なくとも、手間取ることはないだろう。
     一抹の寂しさは、ある。
     けれども、それを上回る程に、胸が、高鳴る。
    「あーあ、もう。歌姫ったら」
     もしかして泣いてんのお、と揶揄うように耳元で囁かれても、今は、何も言えない。
     ぐず、と鼻を鳴らして体を捻り、広い胸に顔を埋めると、五条はぴくっと肩を揺らした。
     そしてその後は、吐息混じりに笑いながら、私のことを抱き締めてくれた。





     ────あの頃は、想像すら、していなかった。
     大体、どう告白するかで頭が一杯だったし。僕に全くその気がないのだろう、いつだって涼しげな顔の彼女を、どうしたら夢中にさせられるのかと頭を悩ませていた。
     それが、どうだ。
     僕が少し腕を広げる仕草を見せるだけで、君の方から、僕に駆け寄って囚われてくれる。甘い言葉で惑わせるつもりで、拒むでも揺れるでもなくただ受け入れてふわりと花開くように、微笑んで。そっと背中に回った細い腕に、僕の方が雁字搦めに縛り付けられている始末だ。
     こんな幸福、味わうどころか知ろうともせずに心のどこかで諦めて、万が一なんて嘯いて紙の上に行き場のない恋心を独りごちたかつての自分を愚かだと嗤った。想定通りの黒歴史、いや、それ以上か。何にしろ、披露する機会が訪れなくて本当に良かった。
     ────と、思っていたのに。
    「ちょっと硝子。話が違うんだけど」
    『何のこと?』
    「預けといた遺書。捨てといてって言ったじゃん」
     東京帰り、号泣した歌姫が、ルール違反の罰則を課すより先に腕の中で疲れて眠ってしまったのを慎重にベッドへと運び布団を掛けた後、僕は同期の女に電話で苦情を申し立てた。
     捨てないで取っておくにしても、よりによって、歌姫に渡すとは何事か。お陰で散々に恥を掻いた。
     憤懣やる方なく陳情する僕に対し、電話越しということもあって強気な硝子は、ざまあみろと言わんばかりの明るい声音でこう言った。
    『ああ、やっぱりあれ、ラブレターだったんだ。遺書なのに、わざわざ先輩宛にしてたからそうだろうと思った』
    「わかってんなら尚更やめろよ」
    『死んでから告白しようなんて、案外女々しいところあったんだね。……あの時、告う気、なかったんでしょ』
    「違うし。将来的には告るつもりだったし」
     嘘は言っていないが、正鵠を射た指摘に内心動揺はしている。その通りだ、当時、告げる気はなかった。状況がそれを許さなかった。ただ、いつかの未来には、問題の全てを片付けて障害を粉微塵に破壊して告白しようとは画策していたのでこれは別に強がって嘘を言っているわけでもない。
     僕は口をへの字に曲げた。
     お見通しだとばかりに、硝子がくすくす笑っている。
    『どうせ、出会った頃からずっと好きでした、とか書いたんでしょう? 僕のこと忘れないでね、とか。先輩、泣いて喜んでたんじゃない? よかったね』
    「良くねえよ。どこがだよ。未遂とはいえ、死んだつもりで告白するとか最高にダサ過ぎるだろ。どうしてくれんだよ」
    『ふーん。やっぱり先輩、泣いて喜んでたんだ』
    「おい。僕の話、聞いてる? ナチュラルに無視すんなって」
    『聞いてるよ。だから、良かったね、って言ってるんだよ。完全無欠に隙のない最強の男よりも、自分にしか見せない弱さがある方が、女心にきゅんとくるものだし。先輩も、惚れ直したんじゃない?』
    「……」
     それは確かにその通りなのかもしれないし実際相当感極まっていたみたいだし反論の余地もないのが悔しいところだが、でも、どちらかと言うと僕の方が惚れ直させられたし改めて好きになってしまった気がする。それも悔しい。これ以上骨抜きにされてどうする。
     傍に居ればいる程、好きになる。
     僕なしでは生きていけないようにしてやりたかったのに、僕の方が、もう、君なしでは生きていかれない。あんなに可愛い女、仮初の前提だとして、一時の気の迷いだったとしても、諦めようとしていた自分が存在していたことが許し難いくらいだ。
     ……そんな、人生の汚点とも言うべき代物を、他ならぬ最愛の妻が、嬉々として、後生大事に大切に懐へしまい込んでしまった。あの世にまで持ち込もうとする勢いである。
     嫌過ぎる。
    『そのくらい、我慢しなよ。先輩の為に。男でしょ?』
    「……」
    『大分遅くなったけど、私からの結婚祝いだよ。出産祝いは今度、別で渡すから。……予定日、いつだっけ』
    「……十二月。次はもう、余計なことすんなよ」
    『さあ、どうかな。まあ、出産近くなったら、また教えてよ』
     何はともあれおめでとう、と硝子は電話を切った。
     最後に、お幸せに、と言葉を添えて。
    「………………んなもん、今更、祈られるまでもないっつの……」
     してやられた恨めしさから、思わず悪態を吐く。
      落ちるところまで落ちぶれて、僕は現在、この世の春を謳歌している真っ最中なのだ。比翼連理と定めた女は永遠を誓ってくれたし、冬になれば父親にもなるし、それはもう良いこと尽くめである。あとはこの幸せをどう守って支えていくかが一家の大黒柱の腕の見せどころというもので、そしてそれは、可愛い奥さんと我が子さえ知っていてくれれば充分なのである。他人の評価など欲しくもない。
     そう。
     二つの腕に囲い込んで抱き締められる程度の、ちっぽけな成果で、いい。
     誰に知られずとも、何者でもないままこの命を終えるのだとして、最期のその時側に君がいて、僕の手を握って、頑張ったねと褒めてもらえるように、これからの日々を精一杯に熟したい。
     となると、だ。
    「はあ……仕方ない、善処しますかぁ……」
     泣き疲れて眠ってしまったその後も、歌姫は、決して手紙を離さなかった。
     くしゃりと少し皺の寄ってしまったそれを、きつく胸に押し付けて、かさりと音がするたびに涙に草臥れた寝顔が綻ぶのを見た。
     …………本音を言えば、今すぐにでも引っこ抜いて微塵に破いて燃やして捨てたいところではあったが、しかし、意識もないのにあんなに嬉しそうに抱き締められていては流石の僕もそこまで非道になれない。黙って処分なんてしようものなら、歌姫のことだ、それこそ勢いだけで離婚とか言い出しかねないし。硝子の言う通り、ここは僕が、我慢するしかないのだろう。
     それもこれも、全ては愛ゆえに、である。
     背中が痒くなるようなもどかしさも不自由さもありあまる幸福の代償なのだと思えばそれもまた愛おしく、対価と呼ぶにも甘やかだ。平気、ではないが耐えられる。
     きっといつか、僕自身、笑い話に出来る日が来ると期待しよう。
     そういえばそんなこともあったねと、何でもないことのように、遠い未来、彼女と一緒に手紙を眺めて笑い合えたら。






     
    「…………まぁた、それ、読んでる……」
    「あら。おかえり、思ったより早かったのね」
     リビングでソファに背中を預け、寛ぐ歌姫は、僕の方を振り返ると微笑んだ。柔らかい表情。でも少し意地悪だ。
     得意げに、勝ち誇ったように笑う彼女は大人げないが可愛らしいので、僕としては不満はあっても口を噤むしかない。
     白い手が、宝物を扱うようにそっと、少し縒れた白い紙を丁寧に折り畳んで封筒に戻した。そして、大きく膨らんだ腹を抱えてゆっくりと立ち上がり、寝室のほうへ姿を消す。部屋の中にある、鍵付きの引き出しの中へしまうのだろう。
     ……本当に、墓の中まで持って行く気らしい。凄く大事にしてくれている。
     複雑だが、嬉しいことには、嬉しい。
     僕のいないところを選んで、時折、読み返しているのを知っている。目を潤ませて、口元を綻ばせて、静かに笑みを浮かべながら、自分の涙で滲んだ跡の残る文面を繰り返し追うその姿は恋する乙女そのもので、こんな顔もしてくれるのかとときめく一方、僕自身を前にした時には向けられない淡い恋情に、何故、過去の己が遺した恥の産物などに嫉妬心を向けねばならないのかと苛立った。
     あんなおんぼろ紙切れ相手に、可愛い顔して、うっとり見詰めないで欲しいんだけど。そういうのは僕相手にしようよ。
     かつての決意も虚しく、悟りを開いて居直るまでにはまだまだ先が長そうである。
    「……。何よ、そんなとこに突っ立ったままで」
    「何でもないし……」
    「そんな顔しといて、そんな言い分通るわけないでしょ」
     寝室から戻ってきた歌姫は胡乱な顔で僕を睨むと、馬鹿なんだからと肩を竦め、さっさとソファに腰を下ろした。
     そして、僕に向かって手招きする。
     ひょいひょい、と犬でも呼ぶようなぞんざいさに、不服を残しつつものこのこ吸い寄せられる。彼女の足元に腰を下ろし、膝の上に体を乗り出して、丸く張り出た腹に耳を当てる。
     帰宅後の恒例だ。
    「ん、蹴ってる。今日もやんちゃだなあ」
    「あんたが触ってる時、いっつもこうなんだけど……どうしてかしら……」
    「そりゃあ勿論、パパに会えて嬉しいんでしょー?」
     怪訝そうな歌姫に明るく答えながらも、まあ違うだろうな、と内心苦笑する。同族嫌悪の可能性が高い。何しろ、流石我が子というだけあって、歌姫の胎の中で拍動する呪力は僕のものとよく似ている。
     何だか凄く、変な感じだ。
     妊婦を見るのはこれが初めてというわけでもないけれど、好きな女の中に、彼女ではない生き物が収まって、日に日に大きく育ち、僕とよく似た色形を見せている。不思議な感覚だ。あと一ヶ月もすれば、こうして胎盤越しに攻防するのではなく直接対決することになるのだろうと思うと感慨もひとしおである。
     が。
    「…………ったく、あんな胎教に悪いもん、何度も読みきかせするから……」
    「は? 何? 子供に余計なこと聞かせないでよ」
    「べっつにぃー? ママはパパのだから、暫くお前に貸してやるだけだからな、って言い聞かせてるだけ」
    「ちょっと。やっぱり、余計なこと言ってんじゃないの……」
     もうすぐ産まれてくるんだから仲良くしなさいよ、なんて呆れたようにぼやきながら歌姫は僕の髪を撫でた。
     細い指が、髪に絡んで、優しく梳いていく。
     ちらりと見上げた君は笑っていた。
     温かな瞳に、堪えようもなく満面に笑う僕の顔が小さく映り込んでいる。
    「やだなあ。子供相手に本気で張り合ったりしないよ。僕、もう少ししたらお父さんだもーん」
    「だったらもうちょっとしゃんとしなさいよ」
    「だって、産まれてくるまではパパじゃないから。まだ違うから。……歌姫こそ、もうちょっと、僕のこと可愛がるべきじゃない?」
    「……」
    「あとちょっとしたら、子育てでそれどころじゃなくなるじゃん。今のうちに、旦那のご機嫌取っといた方がいいと思わない?」
    「…………何よそれ」
     どんな理屈なのよと眉を顰めつつ、それでもわしゃわしゃと頭を撫でてくれるあたり優しい奥さんである。
     歌姫は口を尖らせた。
    「何をどう甘やかせっていうのよ。私が何かしようとすると、すぐ邪魔するくせに」
    「妊婦は子供を産むのが仕事だから、張り切って家事とかあれこれしようとしなくていーの。そういうんじゃなくて」
    「じゃあ、何よ」
    「……えーっ、それ訊くぅ? そういうのはさあ、僕から言ったんじゃ意味なくなーい? 一生懸命考えようよ、まずはそこからが誠意ってもんだろぉ〜?」
    「っ……あんたね、自分から言い出しといて、やっぱやめたとかで態と人を煽る物言いで有耶無耶にすんのやめなさいよ……ッ! 普通に言えばいいでしょ……!」
    「いててててて」
     そんなんじゃもう誤魔化されないんだからね、と言うわりにはしっかり腹は立てたらしい歌姫は、僕の耳を引っ張ってぐるぐる唸る。
     そして、少し気の済んだらしいその後で、「私だって、何も考えてないわけじゃないけど」と、ぽそりと呟く。
    「けど、臨月になっちゃったし。それでなくともあんた、お腹大きくなってから、過保護ばっかりで何もさせてくれなかったし。今更もう、大したことできないじゃない」
    「ふうん。てことは、待ってたらとーってもいいことあるわけ? たとえば?」
    「それは…………。ほら、その」
    「えー? 言えないようなことぉ? あ、わかったさてはえっちなこ────あいたっ」
    「やっ喧しいわ! そういうことは! 察しても! 言わないもんなのよ……ッていうか別にそれだけじゃないし!?」
    「へえー」
     ということは、それも込みだったのだろう。
     僕もいい大人なので別にそのくらいは自己処理でどうとでもするのだが、最近とんとご無沙汰なのは確かなので、歌姫も寂しがっていてくれるのならそれは大変嬉しい。どうしよう、このままだと、二人目もあっという間かもしれない。
     ばあん、と勢いよく叩かれた頭を押さえつつ、想像して、ついにやにやしてしまった。
     歌姫はかあっと頬を赤く染めながら、舌打ちして、今度は僕の頬を抓る。
    「あんたやめなさいよその顔本当に腹立つったら……!」
    「うはひめほそ、はふかしーはらってひゃふあはりしはいへお」
    「何言ってんのかわかんないわよ、馬鹿!」
     理不尽に怒鳴り散らした後、手を離し多少悪いと思ったのか鼻の頭にキスを寄越した。
    「…………で、結局、私にどうして欲しいのよ」
    「んー、正直、実はあんま何も考えてない」
    「あんたねぇ……」
    「だからさ、何でもいいけど、可愛がって欲しいんだってば。これからは勿論、これまでの分も、うーんとね」
     きっと最初から、それこそ出逢ってばかりのあの頃から一貫して、僕が君に願っていること。
     大体のところ叶っているのだがまだ足りないと思うのはきっと日に日に欲張りになっているからで、強請れば強請るほど僕に応えようと一生懸命になってくれる君の所為でもある。是非とも責任をとって欲しい。
     手持ちの札の中でもとびきりあざとく笑って見せたのだが、生憎歌姫には不評だった。「いよいよ三十路に乗っかる男がぶりっ子ぶるんじゃないわよ」と早口に唸ると、顰め面で、不自由そうに少しだけ身を屈めて、僕の鼻先を指で突いた。
    「……その位置だと、微妙に届かないのよ」
    「えー、何がぁ?」
    「茶化すなら何もしないわよ」
    「うそうそ、ごめんて。して。お願いします」
     反省の色なく満面の笑顔で身を乗り出した僕に、彼女はむっとした顔のまま、それでも優しく口付けてくれた。
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