誕生日 昨夜から降り始めた雨は、闇夜に住まう住人たちが起きだす時刻となっても、まだ降り続けていた。日付が変わりそうな時刻に魔フィア同士の小さな抗争があったが、これだけ降るとすべての証拠は流れた後だろう。
狭い診察室の椅子に座ると、耳障りな軋む音がする。持ち主の図体が大きいせいだけではない。椅子が古いのだ。置いてある医学書、機材は常に最新型が用意されているが、“医学”に関係のない機材はすべてが中古品で揃えられている。
すべては、ケチな客のせいだ。
貧しい者からは金ではなく労働や食料で支払ってもらい、富める者からは高額な成功報酬をもらう。絶対に成功するなどという御触書は自らが名乗ったものではないが、その噂を聞きつけた欲深き者たちは後を絶たない。
絶たないが、カララギで購入する医療的消耗品は、とにかく高額なのだ。入手するためのルートを考えると適正価格なのだろうが、万事屋カムカムの容赦のなさには、いつも泣かされている。
そして、一番のお得意先であるバビルの金庫番が、なかなかの吝嗇家なのだ。
昨夜は抗争のせいで、その吝嗇家も寝る時刻が遅かっただろう。もう起きているだろうか。それともまだ寝ているだろうか。
男はしばらく逡巡したが、結局はスマホを取り出した。
《今日、僕の誕生日だよ》
短いメッセージを送る。
《祝いに来てよ》
再び、太い指で器用にアルファベットをタップした。
《ケーキ用意して待ってるから》
《去年も一昨年も遅れたでしょ》
《遅刻は許さないから》
まだ既読にならない。
《寝てるの?》
今度は、返信があった。怒りマーク、ただそれだけだが。
メッセージが読まれたことを確認し、コーヒーを一口飲んで立ち上がった。表の看板を、見る人が見れば休診中とわかる合図に切り替えておく。
昨夜は急患が運び込まれたせいで、まだプライベートルームの掃除ができていないのだ。
「ちゃんと、来てくれるよね」
彼は、約束したことは守る厳粛な男なのだから。
+++
23時43分。暗く細い道に、大きな足音が響いた。
「カルエゴくん、遅い!」
ジト目で睨まれた客人は、躊躇なく手に持っていた箱を男に投げつけた。
「クソ医者が!」
難なくキャッチした男はジト目をやめることなく、乱れたネクタイと洗い息を整えているカルエゴを睨んだ。
「プレゼントなんてよかったのに。買う時間があったのなら、もっと早く来てよ」
「いらんのなら返せ!」
「これはもう僕のですー」
前髪をかきあげた腕を掴んで、男はグイグイと廊下を引っ張って歩いた。
「おま……これ、自分でやったのか?」
部屋はいつもとは違い、輪っか飾りや風船、花などが飾られていた。
「だって、僕の誕生日だもん」
カルエゴは口を閉じ、眉間を揉んだ後に眼鏡をかけなおした。
「本当はローストビーフとか冷製スープとか用意してたんだけど、こんな時間だし、ケーキだけ食べよ」
座って座ってと肩を押さえつけるように椅子に座らされたカルエゴの前に、細い飴飾りが散らされた小さなシュークリームのタワーが置かれた。
そして、彼の向かい側に男も座る。
「今から、ロシアンルーレットをします」
「いや、お前はハズレの場所を知ってるだろう」
「だから、僕が食べるのも、君が指定して。あと、入っているのはハズレとは限らないよ」
カルエゴは両手の手袋を外しながら、目の前の男を観察し始めた。
「早く食べてよ」
「なにを考えている」
「毒とかじゃないよ」
「お前は、俺にそんなことはせん」
男がやると決めたことを途中でやめないことを、カルエゴは長年の付き合いで知っていた。
抵抗するだけ、それこそ時間の無駄だ。男の視線を見つめながら、細い指で一つ摘まむ。
「美味いな」
「それはよかった」
シュークリームの大きさが不揃いなのは、この男が手作りしたせいか。新薬すら作り出す器用な男が、そんなミスをするのか。過失か故意か。カルエゴは慎重にシュークリームを選び、男へ差し出した。
「あーん」
指までパクリと食べられ、唇を軽くつねる。
「痛っ。もー、次からは君が選んだのを僕が食べさせるよ」
「なんでだ」
「だって、持った時の重さで、君が食べるのを躊躇したら嫌だもん」
これは、ヒントだろうか、罠だろうか。
通常のクリームよりも重いモノが入った、アタリだかハズレだかがあるということだ。
「辛子の類じゃないようだな」
「そんな食べ物を粗末にするようなこと、僕はしないよ」
「重いというなら、上の方はノーマルということか」
「それはどうかな」
視線だけの心理戦をしばらく交わし、カルエゴは結局、天辺のシュークリームを指さした。
「これにする」
「はい、あーん」
男の笑顔が胡散臭い。失敗したと思ったが、カルエゴはそれで引くような性格ではない。
「んっ!?」
一口でかぶりついた瞬間、歯に衝撃が走った。
「な、んだ……コレ」
口の中から取り出した異物は、固く、丸い、輪っか。
「よかったぁ。カルエゴくんの引きが強くて」
男は時計を見て、安堵したように息を吐いた。
「ねぇ、カルエゴくん。結婚してよ」
まだ手のひらで輝く指輪を見つめたまま動かないカルエゴから指輪を奪い、テーブルに置いてあったナプキンで綺麗に拭った。
金色のシンプルな指輪が、左の薬指へとはまっていく。
「お返事は?」
「てめぇ、クソ医者が」
「早く。僕の誕生日が終わっちゃう」
23時58分。
「僕ね。君がちゃんと僕の誕生日に間に合うように来てくれて、僕の誕生日内に指輪を君が当てられたら、プロポーズしようって決めてたんだ」
23時59分。
「ここまで来たら、もう運命だって思うでしょ?」
「生憎、神なんぞ信じてないんでな」
40秒、1、2、3……
「だが、いいだろう」
23時59分48秒。
「シチロウ。誕生日、おめでとう」
24時00分。
「ありがとう。カルエゴくん」
シチロウは笑顔で、飴のかかった小さなシュー――フランス伝統のウェディングケーキ、クロカンブッシュを一つ口に詰め込んだ。
「だがな、シチロウ」
「なぁに? カルエゴくん」
「こういう渡し方するなら、金じゃなくてプラチナにしろ! 歯形がついたじゃねぇか!!」
「じゃあ、そっちは僕の指輪にするよ」
「サイズが全然違うだろう」
「診療や手術があるから、どうせ指にはできないし、ネックレスにして首から下げとく」
カルエゴの指から指輪を抜き取り、シチロウはそっと側面を撫でた。
デコボコと跡のついてしまった、その側面を。
「このクソ医者が!」
「えー、なんで」
「最初から、俺の歯形のついた指輪が欲しかっただけじゃねぇか!」
「なんのことかなぁ?」
「シチロウ!」
わかりやすく視線を逸らすシチロウの胸倉を掴み、カルエゴはテーブルへ膝を乗り上げた。
「早く、俺の指輪をよこせ」
そして、その唇に唇を重ねるのだった。