家族の言い訳 健康診断に引っかかってしまった。フリーランスの仕事をしていると、なかなか定期検診には向かわない。そんな僕らを心配した去場社長命令で、バビル出版の健康診断に僕ら作家勢も強制参加させられたのが二ヶ月くらい前のこと。
視力検査ゾーンの前で並んでいた明日ノ宮くんと仲良くなれたりして、結構有意義な時間だったのだけれども……返ってきた結果は、まさかのD判定。
要再検査ということで、いつもは行かない病院まで行き、出された結果が軽い脂肪肝。
まだ若いから心配するようなことじゃない。運動しましょうねって言われたけど。
僕は左手にササミ、右手に鶏モモ肉を持って首をうなだれた。
広告の品らしく、モモ肉が安いのだ。ウィーンのリサイタルから帰ってくる啓護くんのために、唐揚げを作ってあげたい。肉食な彼の一番の好物は牛肉で、ヘルシーさを求めるときはラム肉を好む。そんな高級品は中々買ってあげられないから、せめて唐揚げを作ってあげたい。けれど、脂肪肝。啓護くんは、絶対に僕の診断結果を聞いてくるし、嘘をつくのは忍びない。
僕は折角のモモ肉を陳列台に戻し、元から安いことは安いけれども、お得感はないササミをカゴに入れた。
「あれ、野薔薇くん?」
女性の声に、僕は咄嗟にパーカーのフード紐を握った。そろりと振り向いた先には、前職の会社で営業課の経理を担当していたベテラン事務員さんがいた。
運よく絵本作家になれる前は、一般企業で営業マンをしていた。ストレスと職業適性のなさのせいで僕は早々に退社したけれど、変わった苗字と日本人離れした体格のせいで僕はよく人に覚えられるのだ。失礼ながら、僕は彼女の名前を忘れてしまった。だけど、領収書や書類のことで手厳しく怒られたことは覚えている。
「私もあの会社辞めたのよぉ」
驚いた。骨を埋めるタイプだと思っていたのに。
旦那さんの転勤に伴うワンオペ育児で疲労とストレスが溜まり、ドクターストップがかかって急遽辞めることになったらしい。僕の指導係だった人も、評判の悪い人が上司となってしまい体調を崩し一年休職していたようだ。他にも僕と同じようにフリーランスになった人、他社へ転職した人など、相変わらずあの会社は入れ替わりが激しいようだ。
三十分ほどスーパーの隅っこで立ち話をして、僕らは別れた。
「しじみって、肝臓にいいんだっけ」
体調を崩した人たちは、僕よりちょっと年上の人たちばかりで、あの会社をスイスイと泳ぎ続けていた猛者たちばかりだった。なのに、ストレスと疲労で倒れたという。D判定の赤い文字が、僕の脳裏を行ったり来たりしている。
スーパーの出入り口には七夕の飾りと、子どもが書けるように短冊が置かれていた。平日のこの時間、あまりお客さんはいない。会計を済ませた僕は、それを一枚貰い、なるべく子どもに見えそうな文字でしたためた。
――けいごくんと ずっといっしょにいられますように
あまり人の見なさそうな上のほうに括り付け、僕はそそくさと帰路についたのだった。
海藻のサラダとカツオのタタキ、ササミのバンバンジー擬き、根野菜たっぷりの味噌汁を用意して、啓護くんを待つ。空港から一度彼のマンションに寄って、荷物をほどいてからこちらに来る予定だ。けれど、渋滞していると考えても、ちょっと遅い気がする。
チャイムの音に駆け寄って扉を開けると、待ち人は段ボールを抱えていた。
「ワンちゃん!?」
啓護くんの抱えた段ボールの中には、白金色の毛をした子犬が丸まって震えていた。しかも、額に傷がある。
「そこの川岸に捨てられていた。俺が動物病院まで運転するから、後ろの席でこいつを見ていてくれないか」
「もちろんだよ。あ、待って。すぐ支度してくる」
食中毒が危ない季節だ。おかずは冷たいものばかりだから、もともと冷蔵庫にいれていた。味噌汁を鍋ごと冷蔵庫に突っ込み、僕はスマホと家の鍵だけを持って駐車場へと急いだ。
「大丈夫だよ。痛い痛いを治してもらおうね」
啓護くんのハンドルを持つ指が、震えている。怒りのせいだろう。僕も、こんな生物をナメるような真似、到底許せない。
近所でなるべく口コミのいい動物病院を探し出して、先に電話を入れておこうと連絡をいれると、すぐに対応してもらえることになった。
頭蓋骨や脳に影響はなかったようだ。だけど、額には星のような傷跡が残ることになってしまった。栄養も足りていないらしい。
とりあえず、命に別状はないようだ。二人の安堵から来るため息が重なった。
「この子は、私が面倒を見ます。しかし、飼うだけの環境が整っていないので、しばらく預かってもらえませんか?」
今日は、もともと経過観察のための入院だったらしい。医院長の知り合いの保護団体にしばらく預かってもらうことにし、啓護くんは会計を済ませた。
「あの子が無事でよかったよ」
車に乗り込み、再び安堵のため息をついた。だけど、僕のアパートも啓護くんのマンションもペットは飼えない。どうするべきかと、マスクを掻いた。
「お前、そろそろ木が大きくなりすぎているって言っていたよな」
子供のころから育てている、幸福を呼ぶといわれている木だ。木樹竜と名付けて育てているというと、たいていの人は「大の男が」と笑う。だけど、啓護くんはそれを当然のように受け入れてくれた。
大切な木なんだけれど、もっと大きな鉢植えが必要で、でもそうすると今のベランダじゃ難しそうだったのだ。
「なぁ、庭付きの一軒家が売りに出てるんだが」
ちょうど赤信号になり、啓護くんがスマホを僕に寄こしてきた。
ワンコの検査を待っている間、なにやらスマホをつついていると思ったら、鍋島家御用達の不動産屋に連絡を取り、真戒市で犬を飼える物件を探してもらっていたようだ。
「俺の防音部屋と、お前のアトリエ。それから、今のマンションのジムが使えなくなるから、トレーニングジムも欲しいしな」
「え……僕のアトリエ?」
「庭があれば、のびのびと木樹竜も育てられるだろう」
「一緒に住むってこと?」
「お前、脂肪肝だったんだろう?」
病院で会計を待っている間、唐揚げを作れなかった理由を素直に白状していたのだ。
「俺は犬が好きだ」
先祖代々、筋金入りの犬好きだと色々なエピソードは昔から聞いてきた。
「だが、俺は長期間海外に行くし、公演で帰りが遅くなることもある」
だから今まで、動物を飼ってこなかったらしい。
「犬の散歩は、いい運動になるぞ」
「ちょっと無理やりじゃない?」
「犬連れて散歩していれば、不審者扱いされないぞ」
警官の蘚井さんに、「またあなたですか」と言われたことを思い出す。
「それは、ちょっと魅力的かも」
モフモフと一緒に暮らせるというのも、魅力的だ。
「おいおい。俺と一緒に暮らすことは、魅力じゃないとでも?」
啓護くんの眉間に、深い皺が刻まれた。
もちろん、飛び跳ねたいくらい嬉しいに決まっている。だけど、車中とはいえ外で彼を強く抱きしめて、額にキスするわけにはいかない。彼は高名な鍋島家の、世界的ピアニストなのだから。
「あいつの名前は、ケルだ。犬は、あと二匹は増えてもいいな」
僕らは、すぐに一軒家を購入した。啓護くんのマンション売却代が主だけど、僕だって印税を貰っている身だ。共同名義人になる限りは、努力した。
ケルたちの散歩中、いつも会う近所の人と軽く会釈をしあう。
保護団体にケルを迎えに行って、ベロとビュートも飼うことになったのには驚いた。子犬は、あっという間に成犬になる。大型犬三匹の散歩は、僕らの日課となった。
大型犬を三匹飼っているから。絵本作家は運動不足になりがちだから。音楽家は家に帰れないことが多いから。大切な木を庭で育てたかったから。音響設備、アトリエ。そんなところが、親戚でもない男二人が一緒に暮らしている言い訳だ。そんな言い訳は、同じ家の鍵を色違いのキーホルダーで互いに持っている理由にはならない。
だけど、今回の突然降ってわいた言い訳を、僕らは「運命」と呼ぶことにしたんだ。
きっと、そう間違った言葉でもない気がしているから。