シアオク「お疲れ〜!」
「とりあえず酒ちょーだい、酒!」
軋む扉の向こうから冷えた外気が入り込むと同時に、店内をきゃあきゃあと喧騒が包む。
シアがカウンターから緩慢に振り返ると、浮ついたガラの悪い集団がどっと押し寄せるところだった。
居心地の悪さに身を寄せる。対して広くもない閑散としたバーを選んだのは、一人で静かに過ごしたかったからだというのに。
シアは結露した水滴を指先で拭いながら、手持ち無沙汰に集団の様子を眺める。その中で一際目立つ見知った顔の男を認識して、思わず閉口してしまった。
特徴的な色眼鏡に、歩く度にカシャカシャと鳴る義足。プライベートでつけている簡易的なプリントマスクは顎の下までずらされ、だらしないにやけ面を存分に晒している。
オクタビオ・シルバ。そういえば、今日のゲームでは彼がチャンピオンを取っていたんだったか。
数刻前、確かにカメラに向かってサービスポーズを決めていたオクタンの姿を覚えている。ここに来るまでの間、勝利の美酒を浴びるように飲んできたであろう姿を横目に、シアは大きくため息をついた。
「すみません、さっきの注文はキャンセルでお願いします」
マスターに手早くそう告げると、トレードマークの帽子を目深に被り直して手元に残る酒を煽った。
すっかり出来上がった様子で来店したオクタンに声を掛けるか少しばかり迷ったが、そのままカウンターに視線を戻す。
ご機嫌に笑う彼はすでに酩酊していて、明日の記憶が残っているかも怪しかった。
見るからに若い男女の集団はきっとオクタンのファンだろう。激しく騒ぎながら来店した様子から、少なくともマナーのいい客とは言い難い。
そんな中でシアが現れれば酔っ払いたちの格好の的だ。ファンサービスは大事ではあるけれど、レジェンドにもプライベートがある。出来ることなら気付かれる前にさっさとこの場を立ち去りたい。
空になったグラスをそっと置き席を立とうとした瞬間、激しい笑い声が耳をつんざいた。
「マジで頼んだの?」
「ちょっと、やだぁ」
なにやら盛り上がっている場の中心にはオクタンが立っていて、ハイテーブルの中心に置かれたショットグラスには白い生クリームが盛られている。
オクタンが両手を後ろでまとめられている姿と、そのカクテルの名前から意図を理解して、反吐が出そうになった。
ブロウジョブ。要は、口淫を比喩した意味合いの酒だ。口だけでグラスを咥えて飲む姿を笑い物にする、ふざけた催し。
普段から羽目を外した遊びをしているのは知っていたけれど、これは明らかに度が過ぎている。
「なあオクタン、飲み方は知ってるよな?」
「あ〜?トーゼン!」
「じゃあ超やらしく頼むわ」
「んん、お前誰だっけ」
「細けぇこたあいいじゃん!ほら一気、一気」
前後不覚なオクタンがコールを聞いて反応する。掴まれた腕を解こうとしているが、無理やり頭を押さえつけられて叶わない。
周囲の人間はその悪ノリを止めるどころか、あまつさえその現場をカメラに収めようと携帯端末を向けている始末だ。その醜悪さに胃の腑が焼ける感覚すら覚えた。
下卑た笑い声が響くなか、シアは下唇のピアスと帽子を無言で外す。余計なお世話だ。放っておけばいい。それが本心ではないことなど、自身が一番よく分かっていた。
「さっさと咥えろよ!アンタレジェンドだろ?」
「失礼」
集団の中心に割って入ると、それまで激しかった喧騒が一気に静まり返る。ふらつくオクタンの様子を伺えば、目尻を赤くしてへにゃりと笑っている。
「んぁ、オビぃ?ぁにしてんだ、こんなとこで」
それはこっちのセリフだと言いたい気持ちをグッと堪えて飲み込む。代わりにこちらに向けられたレンズの一つにまっすぐ視線を向けた。呪われていると揶揄される青白い瞳に怖気付いたのか、撮影者はバツが悪そうに目を伏せる。それでもなお録画をやめない根性は見上げたものだ。
フゥ、と小さく息を漏らす。じとりとした視線に晒されるのはボレアスの経験から慣れていた。
シアはテーブルのふちに両手を置き、そのまま中心に顔を近づけた。いやらしいことに、グラスの飲み口はわざと少し広がっている。恥はかき捨てだと、一気にショットを咥え込んで持ち上げた。
嘲笑の口笛、わずかな歓声が耳障りで腹立たしい。
甘くねっとりとしたクリームの隙間から、コーヒーリキュールが流れ込む。重ったるい喉越しはまるで好みではなくて、咽せそうになるのを必死に抑える。わざと煽るように喉を鳴らしてやれば、その場を異様な雰囲気が漂った。
全て飲み干したグラスをゆっくりと下ろし、口端の液体を舌で舐めとる。
──こんな催しの、一体何が楽しいのだか。
呆れた顔で周囲を見渡せば、趣味の悪いお楽しみを奪われた主役本人だけが、JAJAJAと小さく笑っていた。
何も理解してないオクタンに苛立ちを覚える。そのまま彼の腕を奪うと、ファンの男は恨めしそうな目でこちらを睨んでいた。
「それでは、私たちはこれで」
「ぅぎ、俺まださけ飲んでねぇよ」
おび。小さく呼ばれたその名に、少なくとも自分の姿を認識できるだけの理性はあることが窺える。
じわ、と火照る顔の熱は先ほどのアルコールが回ったからだ。そんな言い訳でもしないと、とてもではないがやってられない。
シアは財布から多めの紙幣を取り出してその場に差し出す。一刻も早くこの不愉快な空間から離れてしまいたかった。
ざわつく集団に背を向け、ふらつくオクタンの手を引く。素直に応じる姿がなんとも無防備で、誰にでもこんな姿を見せているのだろうかと憤りよりも心配が勝った。
店の扉をくぐり抜ける寸前、忘れ物を思い出して振り返る。
「あぁ、それと忠告ですが……ハッシュタグをつけた投稿はご遠慮願います」
マイクロドローンを光らせ脅しをかける。二度とこの付近の店は利用しないと、シアは固く心に誓った。