死者の声「あ!なぁ、お前!お前だよそこの、背の高い……あ〜なんつったっけ?子猫?杉下の子猫!」
繁華街をふらふらとぶらついていた子猫は後ろから聴こえる声に足を止める。つい先日『お別れ』をしたひとが呼ぶ名が子猫の中で反響した。子猫を人間として扱って、真正面から『それは違う』を突きつけて、愛し方を教えたひと。
子猫がゆるりと猫背のまま振り返ると、蛍光グリーンのラインの入るキャップを目深に被る男が小走りに駆けてくる。
「そう、そう、お前。〜走らせんなよな……はい、これ」
「……なに」
男が差し出したのは一枚のCD ROMだった。白いメモ欄には何も書き込まれておらず、中身が何もわからない。男はツバを持ち上げて髪を掻き上げると、そのまま被り直しながら説明を始める。
「覚えてねえかな、ヤンキーみたいな金髪でバチくそにピアス開いてる奴。アイツ古いカメラとかビデオ好きで良く撮ってんのね?で、撮ったデータん中にお前いたから次来た時渡したろって思ってたらお前あれからずっと来ねえからさ。てか自分で渡せよって話だよなほんと」
「はあ、」
『お兄ちゃん』に会いに行ったとき、そういえばビデオ回してる奴がいたような、いなかったような。『お兄ちゃん』にしか関心がなかったので、子猫は名前も顔も朧げだった。名前を知らないのは『お兄ちゃん』もそうであるのだが。
「じゃ、渡したから。気が向いたらまた来いよ!」
話すだけ話して男は去って行き、子猫は男の去った方向と手元のROMとを交互に見て藍色の髪をかき混ぜながらぼやく。
「今時CD ROMて……」
引っ張り出してきたノートPCの電源をつける。ネットに繋がってもいない、アップデートも何もしてないものだが、データの再生だけなら問題ないだろう、と子猫は多少動作の遅いそれにROMをセットした。殺風景な自室に読み込み音が響く。
ポン、と動画データがひとつだけ入ったフォルダが開き、トラックパッドをするりと撫でてデータを再生する。
『お前また撮ってんの?好きね、それ』
子猫の息が止まった。
もう一度だけで良い、と願った聴き違えるはずもない『お兄ちゃん』の声だった。
『撮っても良いけど、流すなよ?インスタとかさ。バズっちゃうよかっこよすぎて笑』
『お前このオンボロ家庭用ビデオにインスタ搭載されてると思う?』
『アッハ、無いね。良いよもう好きなだけ撮れよ』
『ね〜杉下〜子猫大丈夫なん?さっきから動いてなくね?』
『え、だって目開いてるよ?子猫〜?にゃーんしてみ?』
『……にゃぁ』
『ほら、大丈夫じゃん。子猫、あれ見てにゃーんして?杉下お兄ちゃんの子猫ですって』
『ぁい……?ンン……ゃ……』
『やか!そかそか!ハハ、かあいいねェお前は』
『お前とタッパ変わんねえのに可愛いはねえだろうがよ笑』
『は?俺はいつだって可愛いだろ、シバかれたいんか?ア?』
ほんの一分ちょっとの短いものだった。とっくに再生の終わった画面がスリープに入り、暗い画面に子猫の泣き顔が映るようになるまで、子猫は茫然と画面を見ていた。
自信満々にきゃらきゃらと笑う『お兄ちゃん』が、すぐ後ろにいるような気がして振り返ってみても、そこにあるのは古い家の壁で、子猫はさらに涙を溢す。
「お兄ちゃん……」
痕が残ってしまった背中がひりつく。それこそ腫れるまでねだった唇が震える。触れた指の感覚を思い出す。
それを与える『お兄ちゃん』はもういない。
いっそこんなもの見ない方が良かった。『お兄ちゃん』の喪失をより浮き彫りにするだけだった。画面の中の『お兄ちゃん』に撫でられる自分にすら嫉妬する。
子猫は最近になって『大事』に種類があることを知った。壊したくなくて、撫でて、摩って、キスをして、セックスをして、腕の中に閉じ込めておきたい『大事』と、撫でて欲しくて、ずっと見てて欲しくて、触るだけのキスをして、その腕の中に入れて欲しい『大事』。子猫にとって『お兄ちゃん』は後者の大事なひとだった。
突然取り上げられて、寂しくて仕方がない。けれど、もういないのだから、どうしようもない。だから。
「会いたいよお、お兄ちゃん……」
子猫はこうして一人、みゃあみゃあと鳴くしかないのだ。