丸くなるのはまだ早そうだバチン、と音を立てて軽やかだったタイピングが止まる。流れるように美しいコードの途中から不可解な文字列。意図せず薬指の第二関節が曲がって、あらぬキーを押してしまった。クリプトは眉間に皺を寄せて自らの手を、正確にはその先にのった薄桃色の、白い先端を睨んだ。
「爪、伸びたんじゃねえの?」
ソファの裏から顔を出したミラージュの手にはほかほかと湯気の立つマグカップがふたつ。差し出された片方には白とハニーブラウンの液体がマーブル模様を描いている。集中力が切れたタイミングのコーヒーの差し入れはありがたい。
「いただこう。」
ほろ苦いそれを一口啜れば、眉間の皺もどこへやら。ミルク多めに作られたそれは、疲れた脳に糖分を運び、優しく体に染み渡る。カフェインさえ摂れればいいとコーヒーといえばブラック一択だったはずなのに、凝り性の恋人によって様々なコーヒーの味を覚えさせられてしまった。しかもそのどれもが絶品で舌も肥えるというもの。おかげでクリプトの作業場は自宅から、徐々に恋人の家へシフトしつつある。
舌鼓を打ちながらすり、とマグカップの側面をなぞればカツ、と衝撃を伝える指先。指摘の通り、クリプトの爪はまるでハロウィンの吸血鬼をモチーフとしたスキンの時のように、長く伸びてしまっていた。最近よくキーボードに引っかかってはタイプミスを起こしてしまう原因なのは明らかで。面倒で放置していたが、そろそろ潮時だろう。ちょうど爪切りを取ってきてくれそうな大きな犬もいるし、お使いを頼もうか。
「爪切りはあるか?」
「そんなものこの家にはない!」
胸を張って偉そうに言うことではないだろうに。人一倍身だしなみに気を使うくせに爪切りもないというこの家の家主はどこか誇らしげだ。使えない犬だったと思っていたら、その犬はいそいそとリビングを出て行って、別のものを取って戻ってきた。大きな掌にちょこんと乗った銀色のそれは、表面がザラついていて、鈍く光っている。
「やすり?」
ピンポーン、とミラージュは子供っぽい擬音を発して、ソファに座るクリプトの目の前に跪いた。そのまま彼の手を取って、指先の、少しはみ出した白色に爪やすりをあてがう。まるでそうすることが当たり前かのような自然な動作に、おい、手を離せ、自分でやる、などという言葉は音になることを忘れてしまって。クリプトは銀色のそれが動き出すのを黙って見つめていることしかできなかった。
「イイオトコは爪は切るんじゃなくてやするんだぜ。」
ニヤリと笑ったミラージュの手付きは言うだけあって手慣れている。イイオトコだかなんだか知らないが、その技術は確かなものらしい。先を固定して一定方向に、爪に対して四十五度の角度を保って、優しく圧をかけられる。爪は切るより削る方が爪への負担も少なく綺麗に仕上がると聞く。兼業のバーテンダーでは手を見られることも多いのだろう。それゆえの爪やすりか、はたまた実家の習慣か。どちらにせよマメな男だと思う。ミラージュの手の中で伸びすぎた爪が、あっという間に丸く整えられていく。
「そんなに見つめられたら穴が開いちまうよクリプちゃん。」
クリプトの視線を感じ取ってか、手元に目を落としたまま、ミラージュは肩をすくめておどけてみせる。大の男がその背を丸めて同じく大の男の爪をやする、側から見れば滑稽な光景かも知れないが、丸まったその背に愛おしさを感じていたなんて言えるはずもなく。
「白髪がないか見てやってるんだ。」
「えっ、ある?ないよな?毎朝鏡でチェックしてるんだ。今朝だって見たしあるわけが…なあおい、笑ってんじゃねーぞ!」
なんだか悔しくて適当なことを言えば、途端に慌てふためく恋人が面白くて、思わず吹き出してしまった。
丸くされているのは爪だけじゃない。ミラージュから与えられる健康的な食事で体つきも、一緒に寝るために長くなった睡眠で肌つやも、どんどん良くなってる気がする。硬かった表情筋でさえ、今ではこの有様だ。ミラージュの手の中で丸く整えられる爪のように、身も心も丸くされていってしまう。
見た目と言動の派手さに反して意外と家庭的な恋人との温かな触れ合いは、クリプトの人生に足りなかったものを補うようで。それはミルクを注がれるブラックコーヒーのように、じわじわとクリプトの色を甘く柔らかく滲ませていく。まだ果たさねばならない目的があるというのに、この止まり木は居心地がよくて、よすぎて、いけない。
「っ!」
フ、と急に指先に息を吹きかけられてクリプトの体がビクリと跳ねる。しまった、完全に気を抜いていた。削った爪の残骸を落とすためだけの行為にさえ敏感に反応してしまう体が恨めしい。おそるおそるミラージュを見ると、予想通り意地の悪い笑みを浮かべていた。
「どうしたクリプちゃん、感じちゃった?」
ああ、台無しだよ。折角人が感傷に浸ってたっていうのに。目の前のふざけた顔から悲鳴が上がるのも構わずに、クリプトはまだやすられていない爪をグサリとミラージュの手に突き立ててやった。