purgatorium「ただいま。」
帰宅を知らせるミラージュの声とチリチリと玄関のタイルが擦れる音。耳を擽る愛らしいその音は次第に激しさを増して、慌てたようにミラージュが声を上げる。
「おい、待て!お前らその足で家の中に入るんじゃない!」
一体今日はどんな有り様なのか。小さく笑ったクリプトはラップトップを閉じて書斎から玄関に向かう。ペタペタと裸足の足音を廊下に響かせながら途中の洗面所でタオルを二、三枚拾って行けば案の定、脚を真っ黒に汚した二匹の獣が飼い主の静止を振り切らんと暴れていた。
「今日はまた一段とはしゃいで来たんだな。」
ステイ、と一声。クリプトが手の平を見せて短く、しかし鋭く発すれば、たちまち二匹の獣は従順な犬に戻って大人しくなった。本来賢いはずのゴールデンレトリバーとダックスフンドだ。正しくコマンドを出せば指示に従ってくれるものなのだが、いかんせんミラージュは彼らに舐められている節がある。同じように犬たちに接しているはずなのになぜなのか。犬を飼うにあたり二人でいろいろ調べた時に見た情報と照らし合わせてもその理由は謎のままだ。
「そりゃあもう大はしゃぎだったぜ!牧場の羊の群れに興奮しちまってよ、追いかけようとして一昨日の雨で出来た泥だまりにドボンだ。」
そのまま泥の中で転がろうとするから思わず叫んじまった、と白い歯を出して笑うミラージュも犬たちに負けず劣らず汚れている。タクティカルブーツからカーゴパンツ、白い半袖のティーシャツにまで泥が跳ねていて、泥遊びをしてきた子供もかくやという有り様だ。大方リードも繋がず好き勝手させていたのだろう。ソラスの郊外のこの家のまわりには何もなく、近所も民家が数件と小さな牧場があるだけだ。定期的に街まで食料や生活用品を仕入れに行かないといけないような片田舎は天然のドッグランのようで、犬たちを自由に散歩させたくなる気持ちも理解出来なくもない。が、雨の後の数日は危険だと何度言ったらわかるのか。いや、わかっててやってるんだろうな、コイツは。犬にも俺にも甘いヤツだとつくづく思う。
「犬を洗った後は飼い主も洗わないとな。」
サンダルを引っ掛けてポーチに出ればそこも泥だらけの大惨事で思わず苦笑が漏れる。犬の足跡にブーツの足跡、そこにサンダルの足跡が新たに加わる。この天気なら水を撒いてもすぐに乾くだろう。クリプトは昼下がりのあたたかな日差しに目を細めながら、玄関脇に備え付けられた立水栓のホースを手に取った。カム、とコマンドを発すれば犬が三匹寄って来て、これには流石のクリプトも口を開けて笑ってしまった。一番大きな犬、もとい恋人は不思議そうに首を傾げていた。
犬を洗って洗濯物を干して、お前も濡れちまったし一緒にシャワー浴びようぜ!と絡みついてくる一番大きな犬とすったもんだして、予定外の労働で小腹が空いた。それはミラージュも同じだったようで、シャワーと着替えを済ませた後、早速ティータイムとなった。
「さっき牧場でミルクジャムをお裾分けしてもらったんだ。これにつけて食べたら絶対美味い。なんてったってミラージュ様特製スコーンと産地直…ちょく…とにかく新鮮なミルクジャムだ!間違いない。」
ミラージュが朝焼いていたスコーンとソラスの街で仕入れたコーヒー。いつもはそこにクロテッドクリームを合わせるのだが、たまにはミルクジャムもいいだろう。もったりとした乳白色のそれを温め直したスコーンに擦り付ければ、ふわりと熱で溶け出すように甘い香りがあたりに広がる。
「いただきます。」
どちらともなくそう言って、サクリとひとくち。スコーンの表面はサクサクと香ばしく、中はしっとりと柔らかい。そのふたつの食感にミルクジャムの甘さがとろりと絡んで、素朴ながらもどこか懐かしく、味わい深い仕上がりになっている。非日常を楽しむ華やかなスイーツもいいが、日常を彩るシンプルなスイーツもいい。深煎りのコーヒーで後味を締めてほう、とクリプトは甘さと苦さが混じった息を吐いた。
「うーん、やっぱり鮮度って大事だな。こんなにフレッシュなミルクジャムは初めてだ。」
ミラージュはスコーンを咀嚼しながらうんうんと頷いている。エンジニアの自分以上に料理人の彼の味覚は鋭い。かつてはパラダイスラウンジで腕を振るっていた彼だが、今は月に三、四回顔を出す程度で、オーナー的な立ち位置に落ち着いている。それでも料理人としての性は抑えきれないのか、何か料理に使えないものかと髭の生えた顎に指を添えて思案しているようだ。
「今度お礼しに行かないとな。」
「そうだな。お返しにこのスコーンをまた焼いて持って行こう。小さめに作って摘みやすいようにすれば、休憩時間のおやつとしてもピッタリだ!ついでにこの間産まれた子ヤギも見せてもらおうぜ。」
「ああ。」
そういえばそんな話を聞いたような気がする。だがそれはいつだったか、パッと思い出せない。記憶をたどるうちに以前動物番組で見たピョンピョンとおもちゃのように跳ね回る子ヤギを思い出して、クリプトは頬を緩ませる。
「おっと、ここにも子ヤギちゃんがいるな。」
不意にダイニングテーブル越しにミラージュの手が伸びてきてすり、と頬のあたりを親指の腹で優しく擦られる。いつのまにかついていたミルクジャムを拭ったその指は、そのまま彼の口の中に吸い込まれていってしまった。にやにやといやらしい視線を寄越す恋人に、いちいち照れてしまうような初心な時分はもう過ぎた。クリプトは大きく口を開けて、その鋭い犬歯を見せつけながらスコーンに齧り付いてやった。誰が子ヤギだ。少なくとも立派な大人のヤギだろう。そうだ、ヤギといえば。
「ヤギのミルクで作ったチーズも買おう。あれは美味い。」
「子ヤギから大事なお乳を奪おうってか!とんだ極悪人だな。」
「奪おうってわけじゃない。ご相伴に預かるだけだ。」
「まあ今が旬だもんな。はちみつをつけて食べてもいいし、ナッツやドライフルーツと合わせてもいい。酒のつまみにしたらもう最高に…あー、ダメだ!想像しちまった。仕方ない、俺も極悪人の仲間入りをしよう。」
「極悪乳泥棒か。ダサすぎるな。」
ふは、と同時に笑いが漏れる。
美味しいスイーツとコーヒー、恋人と笑い合う穏やかな昼下がり。リビングのソファでは愛犬たちが健やかな寝息を立てていて、テラスでは午後の日差しを受けて洗濯物が風に揺れている。外の景色の柔らかな色合いに目を細めていると、いつのまにか一緒に笑っていたミラージュの声が途切れている。不思議に思ってダイニングテーブルを挟んだ向こう側を見れば、太い眉を下げてなんとも言えない表情をした男と目が合った。その厚い唇が、ゆっくりと開く。
「気付いているか?」
一言。言われてしまえば、ああ、と答えざるを得ない。
「俺は騙されたりしない。」
クリプトは自ら、幸福な夢に終止符を打った。
薄汚れた天井、煤けた壁、打ちっ放しのコンクリートの床。それらに囲まれて気を失うように眠っていたクリプトは目を覚ました。ベッドを背に座ったまま寝ていたせいで首は嫌な痛みを訴えているし、硬く冷たい床に接していた臀部の感覚は完全に麻痺している。痛みに眉を顰めながら首を捻って小さな窓から外の様子を窺うも、昼とも夜ともつかないどんよりとした色を映すのみだった。
再び追われる身となって何日経っただろう。突然ヤツらの襲撃を受けて着の身着のままセーフハウスを飛び出してからというもの、足取りを掴まれないように移動を繰り返していて日付の感覚がない。いつ、どこで、どうやって尻尾を掴まれたのか。焦る気持ちがたたって、知らないうちに疲れていたのだろう。眠りに落ちる前の最後の記憶はこの牢獄のような安ホテルにたどりついて一息吐こうと腰を下ろしたところで終わっている。
あんな夢を見てしまったのは恋人に何も告げずに逃げた自分への罰だろうか。いつかミラージュがベッドで聞かせてくれた願望通りのシチュエーションに、これが夢だと夢の中でさえ気付いてしまった。我ながら残酷な夢を見るものだ。ミシミシと軋む体以上に、心が血を流して悲鳴を上げている。耳に纏わりつくその声を無視して、広がり続ける血溜まりを踏み締めて、立ち上がらなければならない。
ただ今だけは少しだけ、とクリプトは自分自身に言い訳て、目を閉じてそっと自分の頬に触れてみる。夢をなぞるように触れたそこには、微かに濡れた感触が残っていた。
※purgatorium=煉獄