猫なんてそんなもの猫がいる。大小複数のモニターの明かりが青白く照らし、蛍光色の付箋がそこかしこに貼られ、配線が蛇のように床を這うサイバージャングルの奥、ひっそりと構えられたささやかなベッドの上に、猫がいるのだ。
ミラージュはぱちくりと目を瞬かせた。見間違いではない。本来動物などいるはずのないドロップシップの、それもよりにもよってギークでナードな同僚の個人スペースに、赤茶色の毛の塊がいる。茶トラと呼ばれる柄だろうか。ふこふこと呼吸に合わせて上下する被毛は、日の光の届かない薄暗いスペースで乱雑に置かれた枕やブランケットと同化していて、パッと見では気が付かなかった。
「立ち入りを許可した覚えはないぞ。」
チクリと刺すような声にそろりそろりと抜き足差し足で近付いていたミラージュの体がビクリと止まる。思わず誤魔化すような笑みを作って声の主を見るも、彼はこちらに背を向けたままモニターに向かってキーボードを叩いていた。背中に目でもついてんのか。刈り上げられた丸い後頭部を凝視していると、その後ろで充電コードに繋がれながらもキュルリとレンズを動かす彼のドローンと目が合った。背中どころか空に目を放っちまうヤツだった。壁に目あり障子にも目あり。なんなら床にも天井にも目があるかも知れない。
「いや、猫がいたもんで、つい…てゆうかドロップシップに猫?!どうしたって気になっちゃうだろ。お前の猫か?」
「いや、ナタリーの猫だ。」
椅子を回してこちらを向いたクリプトの顔は、意外なことに穏やかなものだった。作業の手を止められようものならワールズエッジのクリマダイザーからフラグメントイーストまで走る溝より深い皺を眉間に刻んで不機嫌をあらわにするのが常だというのに。一体どうしたことかと思っていたら、クリプトの動きに反応してベッドで寝ていた猫がスッと起き上がり、トトトッと迷いのない足取りであっという間に彼の膝に飛び乗ってしまった。
「彼女が射撃訓練や衣装の打ち合わせで席を外す時はよく俺のところに来るんだ。」
特に驚いた様子もなく猫を撫ではじめるクリプトは、相当猫の扱いに慣れているように見える。頭を撫で、そのまま両手で顔を包んでマッサージするように揉み込み、顎の下を擽る。デスクの上のネッシーのぬいぐるみ然り、意外と可愛いもの好きと見える彼のことだから、外でも猫を触っているのかも知れない。彼が触れる度に赤茶色の毛の塊が目を細め、喉を鳴らし、蕩けていく。傍から見ても気持ちよさそうで、ごくりとミラージュは生唾を飲み込んだ。この男は、こんな風に何かに触れることができるのか。銃を撃つ、キーボードを叩く、ドローンのコントローラーを操作する。ミラージュの知る彼の手のそのどれとも違う、優しい触れ方。
「こうしてちょくちょく構ってやらないとヘソを曲げてしまうから、作業が進まなくて困っている。」
そう言う割に猫を撫でるクリプトの表情は柔らかい。満更でもないのだろう。素直じゃないヤツめ。
「それじゃあ忙しいハッカー様の代わりにこのミラージュ様がキティーのお相手をしてあげましょうかね。さあかわいこちゃんこっちに…っておい!」
思わず大きな声が出た。ミラージュが手を伸ばすと猫は蕩けていた体を急に強張らせて、逃げるようにクリプトの膝を降りて元いたベッドに戻ってしまったのだ。身を守るように体を丸めたその耳はすっかり横を向いてしまっている。呆然とするミラージュの目の前で、呆れたようにクリプトは溜息を吐いた。
「上から触ろうとするヤツがあるか。」
「えっ、ダメ?」
「想像してみろ。自分より何倍も大きな生き物に上から手を翳されたらどう思う?」
「…そりゃあ怖いな。叩かれるかもって怖くてチビっちまうかも。あ、あくまで比喩だぞ!本当にチビったりはしない。」
「お前がチビろうがチビらまいがどうでもいいが、そういうことだ。あとお前は香水臭い。」
「は?!」
猫にも嫌われて、同僚にも罵られて、散々である。人間と違って動物は純粋だから、嫌われるとダメージが大きい。原因はクリプトの言葉の通りかも知れないが、ちょっと落ち込んでしまうのはしょうがないことだと思う。
「ま、まあいい!俺は元々犬派だからな。将来はソラスシティの外に牧場を買って、そこで犬と幸せに暮らせればそれで…」
「鼻のいい犬なら尚更香水は嫌だろうな。」
容赦のない追い討ちに泣きたくなる。もう動物を飼うのは諦めた方がいいのかも知れない。将来設計にも入れていたが、見直すべきだろうか。さよならゴールデンレトリバー。さよならダックスフンド。ミラージュが妄想の愛犬に別れを告げていると、猫が突然弾かれたように顔を上げて、再び立ち上がったと思ったら一目散にドロップシップの出入口に駆け出して行った。
「ニコラ!」
遅れてワットソンの明るい声が聞こえてくる。どうやら射撃訓練場から戻ってきた飼い主と感動の再会を果たしたらしい。姿こそ見えないが、船内に響く鈴を転がすような笑い声を聞いていると、沈んでいた気持ちもふわりと浮かんでくるから不思議なものだ。
「残ったのはベッドの上の毛だけだ。そんなもんだぞ、猫なんて。」
やれやれといった様子でクリプトは肩を竦めて笑ってみせる。片眉を歪めた皮肉っぽい笑みだが、どこか優しげで、ミラージュは先程飲み込んだ生唾のことを思い出した。秘密の多いこの男に触れたいという欲を自覚したのはいつだったか。つい最近のことのようにも、遥か昔のことのようにも感じられる。今日また、新たな欲を自覚してしまった。デスクの隅から粘着クリーナーを取り出したクリプトの手からそれを掠め取って、おいと静止の声がかかるのも構わずにグッと顔を近づける。
「なあ、毛だらけになったあのベッドを掃除したら、俺のことも撫でてくれよ。」
「は?何言って…」
「犬猫の気持ちがわかれば接し方がわかるかも知れないだろ?俺のハッピーな未来のためにさ、頼むぜクリプちゃん。」
我ながら苦しい言い訳だったろうか。ただ目の前の男に触れられたいという欲を、よく回る口で適当な建前を並べて覆い隠したそれに、賢い彼は気付いてしまうかも知れない。ミラージュが内心冷や汗をかいていると、ワールズエッジの亀裂のような見事な皺を刻んでいたクリプトの眉間がふと緩み、おもむろに手を伸ばされてぐるりと髪の毛を掻き混ぜられた。まさか、いきなり、そんな。予想外のことにミラージュの思考はフリーズする。そのまま左に流した前髪に沿って二、三度撫で下ろされ、刈り上げた後頭部を擦られる。金属デバイスと革製のグローブに大半を覆われた手からはあまり温度は感じられないが、僅かに触れる肌が溶けるように柔らかく、擽ったい。撫で擦られる頭部から痺れるような甘さが背筋に走って、腰の辺りでじわりと広がる。堪らずミラージュの喉がぐ、と鳴ったのを合図に、クリプトの手は名残惜しくも離れていってしまった。
「…前払いになってしまったが、これでいいか?」
「あ、ああ、ありがとう。参考になった。」
曇りのない黒々とした目で窺うように見つめられて、感謝の言葉も上擦ってしまう。この男は賢いが、欲に聡くない。性欲なんてありませんというような涼しげな顔をしているだけあって、他人のそれにも気が付かないのだろう。純真でこそないが、いつか邪な思いを抱いた人間にいいようにされてしまうのではないかと心配になる無垢さに、ミラージュは眩暈がした。
「猫になっちまいたいくらい気持ちよかった…」
眩暈ついでに口から世迷言が飛び出してしまうのも仕方のないことだと思う。自分はクリプトのベットはおろか個人スペースに立ち入ることさえ咎められるというのに、猫になれば出入り自由な上に彼の膝の上で寛ぐことだって許されるのだ。猫相手に詮無きことだとはわかっているものの、羨望の感情は止められない。幸いミラージュの言葉は既にデスクに向き直って作業に戻ってしまったクリプトの耳には届かなかったようで、ミラージュは約束通りベッドの掃除をすべく猫の毛にまみれたベッドに粘着クリーナーをかけはじめる。
「…お前が猫になったら、今日のゲームは俺の勝ちだな。」
そうだ、コイツは背中どころか空に目を放っちまうヤツだった。耳だって放ってたっておかしくない。
「お前の欠けた部隊からサクッとキルと物資をいただいて、安置を読んで強ポジを取る。ポイントはあるから無理せず順位を上げて、上手くいけばチャンピョンだ。猫はここから中継でも見ているといい。」
しっかり聞こえていた、否、聞いていたらしい。こちらに背を向けたまま滔々と話すクリプトの言葉に、ミラージュの頬がじわじわと熱を持つ。俺の口のバカ、道路も言葉も飛び出し注意って言うだろ。右見て左見てもう一回右見て飛び出せよ。さもなきゃ事故っちまう、こんな風に。
「そ、そいつは困る!」
「なら猫になるのはやめるんだな。お前はお前のままでいい。」
デスクトップの電源を落としてクリプトが立ち上がると同時に、ゲーム開始前の点呼のブザーが船内に鳴り響く。一足先に集合場所に向かう彼に擦れ違い様に肩を叩かれて、ミラージュは爆発しそうになった。今、すごい殺し文句を言われた気がする。胸の内から沸き上がる何かを抑え込むために粘着クリーナーを持ったまま固まる自分のダサさときたら、パスのガールフレンドに引っ張り回されるシーズン11のトレーラーより酷いかも知れない。なんで俺こんな役回りばっかなんだろうな?
「しっかり掃除してから来いよ。点呼に間に合わなくても安心しろ。その時は俺がお前の分まで活躍してチャンピョンを取ってやる。」
固まっている場合ではなかった。一瞬こちらを振り返ってニヤリと笑ったクリプトに、ミラージュは自身の真価を示すべく、ひとまずベッドに全速力で粘着クリーナーをかけるのだった。