幸せの味今日はスペシャルランチだそうだ。何がスペシャルなのかは知らないが、起き抜けにミラージュがそう言っていた。
日曜日の、もう午前も終わろうという頃。昨夜の無理がたたって、クリプトはいまだにベッドから抜け出せずにいた。2人で過ごす久々の休日。土曜日からデートをして、夜は年甲斐もなくはしゃいでしまった。
クリプトの頬と腰をひと撫でして、一足先にベッドから抜け出していったミラージュは、既にキッチンにいる。トントントン、とまな板と包丁が触れ合う音。ジュー、とフライパンの上で何かが焼ける音。ソファでラップトップを叩きながら聴く、いつもと同じ音。いつもと違うのは、こういった音のしない、謎の間があること。その道のプロでもあり、元々器用で手際のいい彼にしては珍しい。その理由が気になって、クリプトは重い腰を上げて、ようやくベッドから抜け出した。
寝室を出て、日の当たるリビングからキッチンを見やると、丸まった大きな背があった。
「何をしているんだ。」
「おっとクリプちゃん、起きたのか。もうちょっと待ってくれ、今最後の仕上げをしているんだ。」
仕上げとは、ミラージュの手元が気になって、クリプトが近づいていくと慌てて隠される。隠されると余計に気になるのが人間というもので、体を左右に揺らして覗き見ようと試みるも、バスケットボールのディフェンスのごとく視界を遮られる。不満をあらわに唇を尖らすと寝坊助は顔を洗って来いと洗面所に押し込まれてしまった。仕方なく言われた通りに顔を洗って、ミラージュ好みの甘い味のする歯磨粉で歯を磨く。彼の家に泊まるたび口にしては眉を寄せていたそれにも、もうすっかり慣れてしまった。甘い味が残らないようしっかり口を濯いでキッチンに戻ると、そこはもう片付けられていて、ダイニングテーブルの上に2人分、それは並んでいた。いつも以上に華やかというか、賑やかなその皿に、クリプトは見覚えがあった。
「昨日、食べたことないって言ってたろ。」
だから、作ってみた、と。白い歯を出して笑う男が指すのは昨日のこと。買い出し中にファミリーレストランの前を通った時、ふと目に入ったディスプレイ。ハンバーグにオムライス、エビフライにサラダ、そしてデザート。いかにも子供が好きそうなそれらがワンプレートにおさめられた定番メニュー。路上生活をしていたあの頃、ファミリーレストランの前を通るたび、食い入るように見つめた憧れの一皿。
「おいおいおっさん、いくらアジア人で若く見えるからってお子様ランチは食べられないぜ。それともオマケのネッシーのオモチャが気になるのか?」
「いや…」
珍しく歯切れの悪い返事をするクリプトが続けた言葉に、ミラージュは思わず目を見開いた。
「…食べたことがなくて。」
口に出してからしまった、と思う。一般的な家庭に生まれ育った者にとってお子様ランチは身近なもので、それを食べたことがないということはすなわち、特殊な環境で幼少期を過ごしたということにほかならない。同情を誘いたいわけでもなければ、自分の正体を晒したいわけでもない。この一言がすぐさまクリプトが孤児であったことを示すわけではないが、こうしたひとつひとつのピースが繋がって、いつかクリプトとパク・テジュンが結びついてしまうのではないかと、クリプトは不安だった。
「そうか〜」
俺も最後に食べたのいつだっけな、なんて。クリプトがしまったという顔をする度に、ミラージュは決まって何も聞かずに笑ってくれる。昨日もそうだった。待たせてしまっていることはわかっている。それでもその優しさに甘えてしまう。
「ミラージュ様特製お子様ランチ、召し上がれ。」
そんなやりとりの昨日の今日でこれである。スペシャルランチだなんて、本当にサプライズが好きな男だ。
目を丸くしてプレートを見つめたまま、クリプトはゆっくりとダイニングチェアに座った。ハンバーグにはデミグラスソースでハートが描かれ、オムライスには小さな旗が立てられている。旗は手作りのようで、旗の柄の部分は爪楊枝、布の部分は紙でできている。さっきキッチンで作っていたのはこれか。よく見ると旗の真ん中にはうろ覚えで描いたと思われるハックがいた。カメラ部分が笑っている。
「上手く描けてるだろ。」
「ハックは笑わないぞ。」
鼻で笑って手を合わせる。いただきます。ようやくナイフとフォークを手に取って食べはじめたクリプトを、ミラージュはキラキラした目で見つめる。正直食べづらい。が、それ以上に目の前の料理が魅力的だった。オムライスの卵は半熟で、チキンライスに絶妙に絡む。ハンバーグはつなぎが少なめで肉肉しい。ジューシーなそれと肉汁を使ったデミグラスソースが甘めのオムライスといい対比になっている。サラダもジャンキーなものの並ぶ皿の内容に配慮して多めで健康的だ。お子様ランチというコンセプトを守りつつ、しっかりとした味はもちろん、なによりそこに込められた愛情が、クリプトの頬を自然と緩ませる。
「スペシャルランチはお口に合いましたか?」
「ああ。」
ぶっきらぼうな返事しかできない自分の口がもどかしい。それでもミラージュは上機嫌に笑っている。2人でデザートの自家製プリンまで完食したところでミラージュが、あ、と声を上げた。
「オマケのネッシーのオモチャ、忘れちまった。」
どうしようと慌てる、優しくてマメで、可愛い恋人。その唇に目一杯の感謝と愛情を込めたキスをひとつ。
「これで我慢してやる。」
あの頃の自分が夢見ていた幸せの味がした。