#3【まこはる】おやすみハルちゃん、良い夢を。.
「ん、」
喉の乾きを感じて、ふわりと遙の意識が浮上する。
ぱちぱちと数度瞬きをしてぼやけた視界を晴らしてから、枕元に置かれていた自分のものと色違いのスマホを手に取る。
液晶に表示された時刻は04:05。
調整日で練習が休みである今日、起きるにはまだまだ早い時間だ。
数時間前まで行われていた情事の、その余韻が色濃く残る身体をもぞりと動かして、遙は隣で眠る男をついと見遣る。
遙のことをこれでもかと激しく愛し、獰猛な肉食海獣の片鱗を覗かせていた男は、今はその影もなく涎を枕に吸わせながら幸せそうに寝こけている。
こっちはまだ身体に甘い痺れが残っているというのに呑気な顔しやがってと、理不尽(何故なら昨夜は遙自身ももっともっとと強請ったからだ)とも言える怒りがふつふつと湧いてきて、その鼻っ面をむぎゅりと摘まんでやる。
そのままの状態で待つこと数秒。
ふごごっとみっともない音を発して朝露をまぶしたような新緑が覗いたので、遙の溜飲も幾らか下った。
「………おはよぉ?」
「はよ」
瞳をしぱしぱさせて、むにゅむにゅと口を動かす無防備な姿は酷く幼くて、こいつはいつまでも変わらないなと遙の口角もふんわりと弧を描く。
「んー…、いま、なんじ…」
「朝の4時だ」
「うえぇー…寝てからまだ2時間しか経ってないじゃん…」
明日休みなんだしもっと寝ようよぉとふにゃふにゃの声で遙を抱き込む男………真琴に、喉が渇いて目が覚めたと告げれば、ああそういうことかと即座に得心してのっそりと起き上がる。
どんなに自分が眠かったとしても、どんなに理不尽な叩き起こされ方をしても、愛し合った後の真琴は遙を全力で甘やかしてくれる。
今だって喉が渇いたと漏らす遙のために、眠気を堪えて冷蔵庫へ向かってくれようとしている。
橘真琴という男は、老若男女誰に対してもとても優しいけれど、しかし遙のことは一等大切で愛おしいのだと、言葉で、態度で余すことなく伝えてくれるのだ。
世界へ飛び出せば、ハルはハルらしく泳いでおいで、いってらっしゃいと送り出してくれて。
戦い終えて満身創痍で帰ってくれば、やっぱりハルの泳ぎは綺麗で世界一だ、おかえりと愛おしげに抱き締めてくれる。
だから遙は世界へ向けて泳いでいられる。
誇張でも何でもなく、真琴だけは絶対に遙を手放さないと知っているから。
いつまでもどこまでも、待っていてくれると確信しているから。
ベッドを降りて立ち上がった真琴に倣って、遙も立ち上がる。
「ぅん?ハルも行くの?」
「ん、」
真琴の背中にぴったりとくっついた遙はそのまま腹に腕を回して抱きつく。
ひとつのスウェットの上下を分け合って着ているせいで晒されている真琴の上半身は、その肌は、起き抜けのせいかいつもより少しだけ熱い。
「はるかさーん、歩きづらいですよぉー」
「我慢しろ。あと遙って呼ぶな」
「ふふごめんって。…それでは急行真琴号、キッチンへ向けて出発しまーす」
真琴の腹に回した遙の腕に、真琴が掌を重ねて。
そうしてゆっくりと歩き出す。
歩きづらい体勢で、そもそも大の男二人がこんな風にちょこちょこと歩く姿なんて間抜けなことこの上ないけれど、真琴が楽しそうにくふくふ笑うので遙の口角もまた楽しげに持ち上がる。
昔から遙の表情筋はあまり仕事をしないのだが、しかし真琴相手だと解けるように和らぐのだと少し前に遠野日和によって指摘され、二人して(…というよりも主に真琴が)真っ赤になってしまったことは記憶に新しい。
居間からキッチンまで出て、真琴が冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すのを肩越しに眺める。
キャップまで開けてくれて、至れり尽くせりで差し出されたそれをしかし遙は受け取らず、じっと真琴を見上げる。
その視線の意味を正しく理解して今日のハルは甘えたさんだね?と眉を下げる真琴は、さすが七瀬遙検定特級の資格所持者だ。
腹に回った遙の腕を優しく解いてから身体を反転させ、ペットボトルの水を口に含む。
顎を持ち上げた遙に合わせて屈んだ真琴と唇が触れあって、そうして少し温くなった水が遙の喉をすべり落ちていく。
ベッドの中で酷使したせいで鈍く引き攣った痛みを訴えていた喉にはこの温さが丁度良くて、少しずつ与えられる水をこくこくと嚥下していく。
「…もっと?」
「ん…、」
再び真琴がペットボトルを呷って、今度は先程よりも多い量が流し込まれる。
それを二度三度と繰り返して、ペットボトルの半分くらいを減らしたところでもう大丈夫と視線で訴えれば、もういいの?と首を傾げた真琴が一口呷ってからキャップを締める。
「…でもその代わりに、」
こっち、と真琴の首裏に腕を回して引き寄せて先程とは違った意図を持って唇を重ねあわせる。
ちゅっ、ちゅっ、と数回啄んでいると合間にわっ、ハル!と焦ったような声が聞こえてきて、その隙に舌を滑り込ませ逃げ腰な真琴の舌を捕まえる。
「んっ、ふ、ちゅっ、んっ、まことっ…、」
「ん…む、も、…もーはるってばぁ、」
ちゅくちゅくと舌を吸って絡ませてから、はふっと息を吐いて唇を離せば、伝った銀糸がふつりと切れて遙の口端を濡らす。
それを真琴の親指が拭ってくれるから、その指ごと咥え込んでもう一度ちゅうと吸えば、ひくりと真琴の肩が震える。
無自覚こわいと呟きながらこれでもかと大きな溜め息を吐き出した真琴は、それでもぎゅっと遙を抱き込んでおでこにキスを落とすに留めてくれた。
さっきまで散々抱き合って…それこそ精も根も尽き果てるくらい交わったのだから、お互い今日はもうこれ以上セックスをする気はないのだ。
真琴に沿うように、ぴったりと身体をくっつけていると、頬に触れる素肌の温かさにとろりと思考が溶け出して、遙の口から、くあっと一つ欠伸が漏れる。
遙よりも少し高い真琴の体温は触れているだけで酷く心地良い。
そんな遙の様子に、まるで猫の子のようだと、ふわりと頬を緩めた真琴が、ベッド行こうかと促すので、ん、と鼻を鳴らして抱きつく。運べの意思表示だ。
遙のそんな仕草も大層可愛くて真琴の心を大きく打つのだが、しかし冷たいフローリングの上…しかもこんな薄着で…いつまでもイチャイチャしている訳にはいかない。
でろでろと思わず緩んでしまいそうになる頬を懸命に引き締めた真琴は、遙を抱き上げ…所謂お姫様だっこというやつだ…首筋に懐いて吸い付いてくる遙にダメだよーと制止をかけつつ来た道を戻っていく。
上京したての頃よりも随分と重たくなった遙の身体は、幼い頃に神童だ天才だと言われていた彼が、泳ぐため、世界で戦うために、積み上げてきた努力の証だ。
その事実を真琴も誇らしくは思えど不満に思うなど欠片もないのに、変わり行く己の体型を前に遙は当初、抱き心地悪くないか、こんな身体じゃお前も萎えるんじゃないかと心許なさげに溢していた。
だから真琴は、どんな遙でも興奮するのだということを、言葉で、身体でこれでもかと伝えてやった。
腰が立たなくなるまで散々真琴に貪られ、ベッドに横たわりながら文句を溢していた遙だけれど、真琴の胸に頬を擦り寄せながら、安心したように笑み綻んだその時の彼の表情を、真琴は今でも忘れることが出来ない。
二人で眠るには少し狭いベッドの上。
抱き締めあって眠るのは暗黙の了解になっているので、ベッドに遙を下ろして真琴も上掛けに潜り込んでいけば、するりと伸びてきた遙の腕が、脚が、真琴に絡み付いてくる。
真琴の腕を枕に、暫くごそごそと動いて自分の収まりの良い場所を探していたかと思えば、胸に埋めていた顔が持ち上がったので、自由になる方の腕でもっふりと抱き込む。
遙の腕も真琴の背中へと回る。
「ん、…って、こらハル…足は絡めて良いけど、ちんちん押し付けてくるのはダメだよ」
「ん」
「いやだからぐりぐりしないでってば」
「狭いから仕方ない」
「もーさぁ…そんなんされたらエッチな夢見ちゃうだろぉ…」
「俺とエッチなことする夢だったら見て良いぞ」
「…中学の頃からエッチな夢見るときは相手全部ハルだからそこは安心して」
「起きたとき真琴が朝勃ちしてたらよしよしもしてやる」
「…ハルの体力オバケ」
「アスリートの体力なめんな。何のために鍛えてると思ってるんだ」
「泳ぐためだからね?!」
「真琴うるさい」
思わず大きな声が出てしまった真琴をスパンと嗜めた遙が、この話は終わりだと言わんばかりにまた一つ欠伸を溢す。
その様子にほんと気紛れな猫みたいと真琴がぼやくから、遙はにゃあと鳴いてやる。
うわっ可愛っと落ちてきた言葉にも無視を決め込んで、再びその広く逞しい胸に顔を埋める。
聴こえてくるのは、とくりとくりと刻まれる真琴の鼓動の音。遙を眠りの世界へ誘う音。…世界で一番、安心する音。
「…ふふ。おやすみ、ハル」
とろとろと蕩けてしまいそうな温もりの中、心地良い鼓動の音と小さく笑う真琴の声を聴きながら。
遙はまた夢の中へと旅立つのだった。
了
まこちゃんが居ればおやすみ三秒なハルちゃん。