#5【まこはる】いつもいつでもマイヒーロー.
日本代表チームのトレーナーの一員として同行した世界大会。
フリー100の決勝。
そこには、俺が今まで見たことの無い輝きがあった。
水中から上がり、ただの人になったその人が、プールに向かって深々と頭を下げたその姿に、その背中に、ひくりと喉が震える。
「………ハル、」
呼び掛けた声は、言葉なんて呼べるものではなくて、ほとんど吐息だけだったのに。
俺の声に反応するかのように、ゆっくり、ゆっくりと振り向いたその人が、俺の方…いや、俺を見て、ふんわりと…まるで花が綻ぶように、本当に、本当に、綺麗に微笑ったんだ。
「はる、」
その表情を目にした瞬間、俺の視界は一気にぼやけて…そうして、決壊した。
ぼろぼろと、次から次へと溢れる涙は、止めようとしても止められなくて。
目の前の美しい人を、ずっと瞳に映していたいと思うのに、視界がぼやけてしまってどうしたらいいかもわからなくて。
ただ只管に涙する俺を真っ直ぐに見据えたまま、一歩を踏み出すその人の、髪から落ちた雫が頬を伝って、それがまるで泣いているみたいだなんて、
「はるッ、」
ひたり、ひたりと一歩ずつ歩く姿が、なんだか初めて脚を得た人魚姫のようにたどたどしくて、でも、
王様の帰還のような華々しくも荘厳さに溢れていて。
「まこと、」
声が、届く。
ひどく甘さを含んだ、濡れた声だった。
俺の目の前までやってきたその人は、
ゆっくりと俺の首に腕を回して、
「ッ、はる…、」
一部の隙もないくらい、ぎゅっと身体を押し付けてきて。
まこと、もう一度甘やかな声で呼ぶ。
そうして…、
「…ありがとう、」
ぽつりと溢れるようにして贈られた呟きに、もう何度目かわからない嗚咽が込み上げてくる。
ひっ、ひっ、と喉が引き攣る。
きっと今、彼の素晴らしい功績を讃えんとする割れんばかりの歓声が場内には響いているのだろう。
それでも、今俺の耳が拾うのは、目の前の人の声だけだ。
でもそれだけで十分だった。
「俺の人生に、お前が…真琴が居てくれて、良かった」
……嗚呼、なんてことだ。
そんな最大の賛辞をもらってしまったら、俺はもうダメだ。
「うっ、ううううう~~…、」
ほら、だから言ったでしょう。
もう嗚咽なんかじゃ収まらない。涙腺がバカになってしまった。だめだ号泣だ。
俺を今抱き締めてくれている、世界で一番愛おしいこの人を、抱き締め返してあげなきゃならないのに。
抱き締めて、お疲れ、頑張ったねと労ってあげなきゃならないのに。
それなのに、どうしても溢れる涙を堪えられなくて。
きっと今の俺は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃな酷い顔をしている。
それが恥ずかしくて手で顔を覆ってしまえば、お前泣きすぎだと呆れたような…でも、濡れたテノールが俺の耳を掠めて。
(ああ、きっと、ハルも…、)
ずびりと鼻を啜って顔を持ち上げると、俺の頭を抱き込んでいた身体が少し離れて。
「はる、」
「ッ、」
困ったように眉を下げて微笑うその瞳から、ぽろぽろ、ぽろぽろと大粒の涙が溢れていて。
その涙が、淡く撓んだ震える唇が、透き通る蒼が、彼を形作る全てがびっくりする程綺麗で、愛おしくて、ぎゅうと胸が締め付けられる。
「ハルもぼろぼろじゃんよぉ…」
愛おしさで死んでしまいそう、だなんて、大袈裟だと言われるかもしれないけれど。
でも今、俺の心に溢れるこの衝動を、他になんて表現すれば良いのだろうか。
愛おしさで心が苦しくて、愛おしさで心が嬉しくて。
襲いくる衝動のままに、今度は俺からその身体を思い切り掻き抱く。
おめでとう、おかえり、すごいね、かっこよかった。
伝えたい言葉はたくさんあるけれど、それでもやっぱり一番は、
「やっぱり水の中じゃ最強だね、ハルちゃん!」
いつだって俺のヒーローは、誰よりも強くて、誰よりも輝いている。
迷って足掻いてぶつかって、それでも、自分らしく、真っ直ぐに進んでいく。
だから俺は、そんなヒーローが、ハルが、帰ってくる場所で在れるように。
そうして帰ってきたその時には、おかえりと言って抱き締めてあげられるように。
そう在りたいと思わずにはいられないんだ。
「……だから、ちゃんづけはやめろってば」
咎めるようにそう呟いたハルだけど、その実声音は凄く楽しそうに弾んでいて。
今度はちゃんと、おめでとうとおかえりを告げて、更に強くハルを抱き込む。
苦しいと文句を言う声音もやっぱり酷く嬉しそうで、それにつられるように俺も声をあげて笑う。
そうやって俺たちは、まるで勝者を讃えるかのような煌々とした照明の下で、凛に止められるまでいつまでも抱き合っていたのだった。
了
後日ニュースでこのシーンがめっちゃ流れて真琴くんも一躍時の人となる。