目にするより早く鼻腔をくすぐった甘い香りは、慣れ親しんだ好物に紐づくものだ。ナッツ混じりのガナッシュクリームに飾られた星型のマシュマロ、その上にまたチョコソース。間違いなく善意で差し出された皿に対して、一体どのように言葉を返すべきか。
普段目にしているサイズとは比較にならないほど小ぶりなのは、ティータイムやデザートとしてあつらえてあるからだろう。だからたとえフェイスひとりであっても消費することは難しくない。
「この前パトロール中に市民の人たちに聞いてさ、せっかくだし一緒に食べようかと思って」
「……そうなんだ。うん、ありがとう」
店の名前と、スイーツピザとでも呼べばいいのか……そういった噂だけは耳に届いていた。もちろん一般的なメニューも美味しいと友人が話題にしていたので、きっと味は悪くないはずだ。というより、美味しく仕上がっているに違いない。こと好物に関して彼の味覚がバグっている可能性もあるが、過去にオススメされたものはどれも味は良かった。
普段過ごしているなかであれが美味しかった、これは癖があるけど、など共有される言葉におおよそ己の感覚と齟齬はない。正反対の選択肢において互いの取捨選択が被ることはあまり多くないけれど、まったく交わらない領域がある方がおかしいのだ。
笑い出しそうなほど些細だけれど譲れないこだわりを、自分も彼も有している。それを感じ取れる程度には近しく、すべてを予見するには難しい距離だった。
「ディノは甘いピザも好きだって聞いたけど、でも二択ならどう?」
「んん〜……”食事”と考えるとこっちかな」
自分の認識において馴染みのある、トマトソースにチーズやバジル、オリーブオイルなんかが掛けられたもの。どんな具材であっても好ましく手を伸ばしているけれど、彼にとっての原体験はこちらの形をしているんだと思う。だからそうだ、自分にとっても同じことだと。
「アハ、俺も食事と考えるならこっちかなぁ……」
煮え切らない思考はどこに落としどころを設けるか、それに尽きる。俺がここで厚意を受け取った顔でやり過ごせば波風は立たないけれど、でも……彼相手にはもう取りたくない手段かな。今までみたく二度目があるかも分からないような人付き合いとは異なる先を、望んでいるのだ。
三日後にも、ひと月先でも、同じことをずっと言い張れるほどの胆力は自分の中にない。嘘をつくのが得意なのは、いつバラしてもいいと思っているからで。もとより墓まで持っていくような強情さは持ち合わせていないのだ。
「……あのさ。このピザが美味しいのは本当なんだけど」
「うん」
「好きなものは好きなものとして食べたい……っていうか」
彼という個人を否定する言葉ではない、そう正しく伝われと念じながらも口は今にも閉じてしまいそうだ。面映ゆいと感じるのはひとえに、これが自己をさらけだす行為だからだろう。あなたを遠ざけるつもりはなく、ひいては俺を尊重してくれないかという願い。
「ショコラは……嗜好品だから。食事じゃなくてもいいかなって」
「……そうか。フェイスも、ピザならこっちの方が好き?」
「うん」
「わかった、覚えておくよ」
頷いた彼の顔色と声音に薄暗いものが滲んでくることはなかったので、安心してその甘いピザへと手を伸ばした。少しばかり驚いた様子で、どこか気遣わしげに送られてくる視線は何処吹く風。ひとくち齧れば、想像通りの甘さと香りが口の中に広がって嬉しくなる。
「これが嫌とは言ってないし」
もしも俺の機嫌を取りたい日が来たならば、シンプルなトリュフを贈ってくれたらいい。だからね、ピザを食べに行こうという誘いを俺が受けたとして、俺におもねる必要はないんだって。あんたが雄弁になる機会を奪いたくないんだと、そんなことはまだ言えそうにないけれど。