【生き甲斐は他人の形をしている】
触覚がきちんと機能していることは不幸であるか、慈悲とも言える幸いなのか。鉄くささと土煙、それから様々な何かが焦げるにおいが立ち込める路地裏で、ふとそんなことを思った。普段より視界が明瞭さを欠いているのは、足元に広がる血溜まりのせいだろう。
指先を地面へと滑らせれば、ぬるりとした感触とざりざりとした感触がそれぞれに伝わってきた。……ソファーの柔らかさも金属の硬さも、目を向けなくたって理解できる。指先でなぞればきちんと形だってわかる……あくまで、それだけの情報だが。人の肌であったとして、それだけなら死体と生者の区別もつきやしない。それゆえに断言できる、生きた触覚は幸いであると。
少なくとも俺は指先から伝う、己とは明確に異なる異物の感触を愛してきた。肉の柔らかさ、骨の硬さ、俺の頭はそれによって対象を生き物と証明していた。翻って、己の身においても同じことだ。指先に受け取る情報は、日々同じものに触れることで異常を感知させる。
(……手足の動きも鈍い。でも、こんなものだ)
なんでも、痛みというのは熱を持つらしい、そう聞いた。健康優良児にはほど遠い体だというのに、そのものを知らないまま続いていく命を軽んじるのは道理だ。熱が出ているよ、痛みがあるはずだ。周りから繰り返し聞かされた言葉は、しかし電子メッセージを読むような味気なさを残すだけだった。
そう教えられた瞬間の思い通りに動かない感覚を記憶したとて……無いものを『ある』と認識できる人間がどれほど存在するんだ?子供であれば尚更だ。どれだけ賢いやつだって何割を経験から得たんだろうな。たらればに意味はない、俺は俺の体で生きることしか出来ないんだから。
幼い頃に点々と残る出来事は、今でも退屈と落胆の象徴だった。いつも通りに動かせない手足がもどかしく、じたばたと動かそうとする俺を押さえつける手と半泣きの声が響く部屋の中は味気なかった。お願いだからじっとしていて、いい子にしていて。ああ、なんだ、何にもしていないのに悪い子になれるのか。ただ走り回るだけで、両親は不安そうな顔をして手を伸ばし……触れられた熱の記憶は、やはり無い。
(失血もじきに回復するだろうけど……)
生き永らえるためのアラートを胎に落としてきた子供の代わりに、命の綱を必死に手繰り寄せていた両親。そこに感謝が皆無かといえばそんなことはない……はずだ、多分。その証拠に俺はいつだってこの言葉を返していた。『ごめんなさい、もう──』
「"もうしません"、とでも言うんでしょ。……ハァ、やってらんないわ」
「ビアンキ、俺の心を読んでくれたのか?」
「読んでないわよ、気持ち悪いこと言わないで。ねえ、アタシがアンタに"そういう戦い方はやめなさい"って言ったの何回目かしら」
「16回目だ、もちろん覚えているよ」
「…………、……最低ね」
苦虫を噛み潰したような顔をして……いや、想像上の虫すら噛ませることはあってはならないのだが。そう吐き捨てられ、一体なにが不足だったのだろうかと首をひねる。謝罪は汲み取ってもらえた、質問への答えも澱みなく返せたはずだ。となれば内容が不十分だったということだろうか。言い回しは異なれども同じ文言の台詞を頭の中で指折り数えたが、3回ほど繰り返しても結果は同じだった。
「間違ってないはずだ。意識がないときは……カウント出来ていないかもしれないが」
「つまり15回、アンタはアタシのことを無視したの。踏み躙ったのよ」
「俺がビアンキを無視なんて出来るわけないだろう?謝っているし、きちんと受け入れている」
「子供の面倒を見る気はないんだけど。いい加減、聞き分けなさいよ」
「聞き分けているさ、他ならぬビアンキの言葉なんだから」
「……ああ、最悪。16回目も早々に起こりそうね」
丁寧に結われた髪を気にすることなく手のひらでガシガシと頭をかき回す仕草も美しい。疲弊した表情には嫌悪と呆れが余すことなく滲んでおり、その感情の矛先が誰であるかなど言うまでもない。
願われるままにずっと我慢をしてきた、その褒美がビアンキとの出会いだというのなら俺は全てを許せてしまう。死なないための行いだけをしてきた、これからは生きるために動いていいんだろう?ありがとう、俺を真綿の中で上手に殺さずにいてくれて。
「乱れた髪も綺麗だな、ビアンキ。けどもったいない……止めてやれないのが残念だ」
「は、自分の機嫌くらい自分でとるわよ。もう良いから黙ってちょうだい」
次の言葉を吐き出そうとするより早く、彼の手にある武器というには優美なそれがひらめく。辺りを埋め尽くした香りを意識するより早く、脳がぐるりと回るような感覚に意識を手放した。