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    seki_shinya2ji

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    今日の朝の治北
    テーマ:清明

    【治北】土、菜の花、君の笑顔、俺の喜び 畦道を真っ赤なトラクターが入場するのは朝の一〇時を予定している。稲刈りをしてから昨日まで生えていた春の雑草も、トラクターに混ぜられて畑の命と還る。北はその畑を見つけていた。
     最近は朝夕の温度差がかなりある。実際今日もあり、朝は肌寒くて目が覚めた。肌で寝ていたのもあるが、少し足がはみ出していた。そこからなかなか寝付けず隣で寝息を立てている腕の中で暖を取っていた。その横顔は端正で重なったのは精米された白米であった。白米はこの男のシンボルでもある。高校生の頃からの付き合いだが、こうして共通のシンボルを持てていることがこの上なく光栄で幸せだ。ほのかに香る夜の情事の余韻にひたりながら一〇分。朝のアラームが鳴った。
     そこから二人は朝ごはんを食べて結仁依をデイサービスに送り出して、散歩に出た。
    「気持ちええっすね」
     隣に立っている治。つるりとした肌が朝の陽ざしに反射している。目の前の畑がキラキラしているのは、朝夕の温度差で生じた朝露だ。冬の間は霜であったが、春になったために朝露となった。これが春になったという証拠でもあり、田んぼを耕す時期になったということだ。
     北の田んぼに沿うように掘られた水路には三日ほど前に水を引くための会議に出席して流れる日が決まった。北の田んぼには二週間後を予定しているが、北は五月に入ってから水を田んぼに引き入れる。山からの養分を含んだ水が土によく滲むように、田んぼを耕すことに北は重点を据えている。
    「そうやな」
     治から見た北は柔らかくてホクリとした温もりを感じていた。笑顔がいつもより柔らかくてそれでいて清んでいた。朝露に濡れているように見える睫毛がチラチラと輝いている。凛と伸びた背筋からは高校生の頃から何度も奮い立たされて気を引き締めてきた。瞬きをするたびに濡れる瞳には朝日が反射している。
     こういう関係になってからでも、学ぶことの多い人間だ。一足先に自営業となった北に税も、商売も、人との付き合い方も、治と北の関係のことも、何でも北から学んだ。だからだろう、一つしか変わらない年齢なのにいつまでも敬語が抜ける気がしない。外してほしそうな北もいたが、今では敬語が抜けない治を受け入れているように思える。
    「ン~……」
     春のにおい、というものを二人は感じている。北はこの匂いを土の匂いだと思っている。雨に濡れて感じる土の臭いではなく朝露に濡れてしっとりとした春の土の匂いである。治は菜の花の匂いだと思っている。甘い蜜の匂いを感じる治はさながらミツバチのようだ。しかしその匂いは治にとっては春そのものなのだ。その話は治が社会人二年目になった年に北が話したことがあった。
     ―――春の時期、俺はこの匂いを感じたら心が切り替わるんや。冬はちょっとゆっくりしとったけど、この匂いは俺の一年が始まる匂いなんや。俺の背筋を伸ばす匂い。治もそういう感覚、身につけてみぃ。真面目なお前や、ずっと一年引きずっとるから息継ぎができてへんから苦しいんや。区切り、できればその時期にしか感じられん区切りになるもんを見つけたらええ。大丈夫や。お前なら、まだやれんで。
     そういって背中を叩いてくれて、詰まった鼻でも感じ取れた匂いが菜の花の匂いだった。
     大きく伸びをした治は肺いっぱいに辺り広がる春の空気を吸った。甘くて脳に黄色い花が広がる匂いがする。すると、何かの匂いを感じた。伸びに伸びた腕を止めて、固まった。その姿に北は「治?」と声をかけた。
    「土の匂いがする……」
     そういうと、目を閉じてまた空気を吸った。ああこれか。これが春の匂いなんか。
     治はそう思うと嬉しくてたまらなくなって笑ってしまった。
     隣に北が立っている事実は朝露のようにいつの間にか消えてしまうものだ。こんな関係値なんて、誰かに否定されてしまえば立ち直れない可能性だってある。それでもまたこうして田んぼを目の前に二人並んで朝日を浴びることができている。そして北が言っていた土の匂いを感じられるほどに、この田んぼに通い詰めていたのだ。
     北の隣にいられることが当たり前なんて思ったことはないと思っていたが、数年越しにようやっと土の匂いを春の匂いと感じることができた喜び。
     それは、今年も北の隣に立てている喜びそのものであった。
    「今年もよろしゅうお願いします、北さん」
     治の大きな瞳は北が映っている。特に意識したことはなかったが、あまりに強い視線と芯のある言葉に吸われるようにしてその目を見つめてしまった。北がこの瞳に何度魅了されて愛を覚えて、戸惑って躊躇したか。もう数えるのも億劫なほどに感じてきた。こんなに瞳や言葉に信頼されるほどの自分になれているのか、未だに不安に感じる日がある。そういう時に限って農作物が上手く育たない時だ。それでも治はいつでも「北さんなら大丈夫です」と言ってくれる。その力強さが北が北であれる要素になりつつあった。
     今それを強く実感した。
    「それは、米か。それとも、俺か」
     別にいたずらしたかったわけではなかった。恥ずかしさがちょっとだけ上回っただけだ。しかし口にしてから、ちょっと棘があったかもしれないと反省した。しかし目を見開いた治は水分をたっぷり含んで健康的な瞳を細めて笑った。
    「どっちも、は、アカンですか」
     好きな人の好いた表情は伝染する。北はその事実を知らない。当本人たちは自分の表情の変化をどうやっても確認することはできない無意識の中の変化だから。しかしその表情は幼い頃、それこそ結仁依の夫である祖父が見せていた子供っぽい表情そのもので、北は大いに驚いた。みずみずしく、それで遊び心のある表情。それは表情から純度一〇〇パーセントの喜びを感じ取れる。水のような透明度だった。
     ドッと押し寄せる感情の水流も水路から田んぼに流れ込む水のようで、落ち着くまでは波を打つ。北の感情はかき乱されるような思いだった。抱き着きたいが一応外だ。我慢しようとすると勝手に緩んだ水栓板から漏れる笑みを片手間に隠し抑えることしかできなかった。
    「耳真っ赤ですやん」
     そう笑われてしまえばもう水を止めることなんてできない。水栓板は勝手に外されたのだから。
     北はその腕をグーで殴ることしかできなかった。
     

     #【清明】
     二十四節気の一つ。春になって草花が咲き始めて小鳥が囀る、生気に満ちた清々しい様子のこと。万物が清らかで生き生きとした様子を表わす言葉【清浄明潔】を略した季語と言われている。
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