Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    seki_shinya2ji

    @seki_shinya2ji

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 49

    seki_shinya2ji

    ☆quiet follow

    完全オリジナルキャラ作品。10万字チャレンジの1/4。
    辻褄絶妙に合わないラフ状態なので、本にするなら加筆修正する。ただ本にするかは不明。どっちかと言うと、10万字達成されたら支部で全文公開する感じ。

    共犯 起反射的にスマホを落としそうになった。
    恩師が毒殺未遂事件に巻き込まれた、と分かったら普通の人ならどう思うのだろう。心配で頭が真っ白になって病院に走り出すか。それとも「もう何年も前に卒業してしまったから先生は覚えていないだろうな……」と杞憂するだけに留まるか。この質問に答えも何もない。なぜなら滅多にない出来事だからだ。ないようにするのが、この男の仕事であるというのは言わない約束である。

    男はその話を職場で聞いた。ほのかに薄汚れた職場の廊下の壁は若干灰色だ。そこに背中を預けて男2人は外を見ながら近況を報告して情報を交換していた。窓の外はオレンジ色ではある。もうすぐ、1時間もしない内に暗くなっていくだろう。少し薄くなったスーツに風が通る。僅かに肌に触れた冷気は風だったのか、冷房だったのか、それとも悪寒だったのか。男は正しく判断を下せなかった。それくらいには脳みそが混乱してたのだ。しかし男は「ああ、俺今混乱してんな」と、どこか他人事のように思っていた。妙に冷静である事が余計に混乱している事を際立たせている。
    グウと堪えた指のせいで缶コーヒーが小刻みに震える。その姿を見て、同期は珍しそうに目を丸くした。
    「あれ、知り合いか」
    「一応大学のゼミの先生だな」
    「わりぃ」
    「いい。遅かれ早かれそういう話があるのかもしれない、って理解はしてた」
    その男は今年で3年目の警察官だ。名前は佐久間という。階級は巡査、所属課は2課である。二課とは詐欺などの知能犯に関わる課である。同期、と言った男は一般的な地上波のドラマに見る「1課」という課は殺人や強盗事件に関わる課で、強行犯係とも言われる課である。相手する人間によって相対する警察官が違うという話なのだ。名前は田島、という。
    2人は警察学校で同室だった仲だ。警察学校は同性の学生同士で相部屋となる。2人は大人しい方ではあったが、統率するのが得意な田島におんぶにだっこだ、というのが佐久間の感想だ。
    「カフェインの過剰摂取による集団救急搬送だ。命に関わる人間はいねぇよ」
    「カフェイン」
    「単純に動悸が早くなったり眩暈がしたり。気持ち悪くなったり手が異常に震えたりとか。そんなとこだ」
    「現場鑑識終わったのか」
    「さっきな」
    「お疲れ」
    もちろん、というべきか。田島は一番体を張る機動捜査隊に所属となっており、現場に一番初めに到着する舞台として、現場の保存から一般人の誘導、規制線を張って犯人を追う時だってある。また機動捜査隊といえばパトカーに乗って行う任務、警邏という仕事がある。その延長に現場に一番乗りすることが求められる。それ故にあっちへこっちへ、とマルチタスクができる人間でないと務まらない仕事だ。
    佐久間は無理に煽った気がしたコーヒーを上手く飲み込んで、少しだけ自らの鼓動を落ち着かせる。疲労が鼻から抜けて、口から酸素と一緒に戻ってくるような感覚があった。カフェインが目を醒まさせたのは幻覚か、それとも本当なのか。どちらにせよ視界がクリアになった。しかし口から出たのはため息だ。
    「お前も忙しいな」
    「なんでこんな下っ端が……」
    「下っ端だからだろ」
    「確かに」
    佐久間は自分の心に無駄に杞憂が増えたことにため息をついた。佐久間は全く別の件で忙しい。
    「先生は今どこに?」
    「一番近い警察病院だ、が。面会の時間は過ぎてるぞ」
    当たり障りもなく、正しい言葉だ。正論であり、真っ当なその言葉に佐久間はやんわりと釘を刺された、と思った。マルチタスクと器用貧乏は全くもって別物だ。表裏一体とも言えない。佐久間はどちらかと言うと器用貧乏に近い。妙に気が小さいのに口は良く回る。世間の評価はいわゆる「イエスマン」だ。田島はそんな「イエスマン」という言葉が嫌いらしい。それでも田島が佐久間とつるむ理由は、佐久間のことを真面目で優しい存在だと思っているからだ。過保護ではないが、ちょっと心配であるのも、長男故の気質なのかもしれない。器用貧乏なのにイエスマンなその男は、ちょっと直球な線引きをしてやらないと、となぜか責任を負ってしまうマルチタスカーは、やんわりと心を痛めた。
    「分かってるよ」と少し俯いた佐久間の顔には苦笑いが浮かんでいるが、その目は存外しっかりとしている。どこかを見据えているようで脳内で何を考えているのか分からない時の表情をしていた。
    「次の休みはいつなんだ」
    「一応明後日」
    「退院は一応経過次第で最短明々後日だ」
    「いや二週間後ぐらいに行く。事件のショックもあるだろうし、捜査もちょっと落ち着く頃だろうし」
    あの存外しっかりとした目で、きっとこの事を考えていたのだろう、と田島は確信した。一応、と言いながら田島が付け足した情報も、佐久間の気遣いの前では不要ということだ。
    「それにそもそも自分の仕事で聞きたいことがあってアポ入れてたし」
    佐久間が缶コーヒーを掲げるようにして腕の筋を伸ばした。口から伸びる唸り声には疲労が混じっている。一応公務員ということで三勤制ではなく朝八時半から夕方五時半までの勤務時間となっている捜査一課や二課の人間。しかしそれはあくまで繕うだけだ。一度事件が起こってしまえば休みなどどこかに行ってしまう。一か月の中で8日の休みが確保できたら良い、という労働環境である。それが違法とか憲法に触れるとか、そういう話はしない。そうしないと治安が維持できない、ということを棚に上げる事ができるなら、その話をするべきだ。
    「やっぱあの先生って有名なんだ」
    「とは思うけど、恨まれるような先生ではないな」
    ため息が一段と濃くなる。心労はある程度振り切るために見切りをつけないとならない。そういったアンガーマネジメントの練習も行うほどだ。6秒で感情に蹴りをつける。それでも動揺は思った以上に長引くのだ、という佐久間のため息だ。人間とは難しい生き物だ、と有名な文豪が言っていたような気さえしてくる。
    「星は?」
    「一応1人」
    「確?」
    「証拠不十分」
    空き缶を捨てるために長いコンパスを広げた田島は、空き缶を持っていた右手に手帳を納めた。警察官にとって警察手帳は無くしてはならないものだ。無くしたら反省文では済まない。それとは別に手帳を持っている。メモをするための手帳だ。田島は「音声データは忘れる。書かないと忘れる」と言っていた通りに、メモは必ず手書きで残す。妙に古風な男だがそれは間違いなく強みである。
    「先生様のゼミに所属する生徒だったな。この生徒だけそのコーヒーを飲んでない」
    「飲めなかったとか?」
    「ああ。本人は諸事情とか言って隠していたけど、どうせ餓鬼舌なんだろ」
    「大学生なのに可愛いな」
    おちゃらけた口調の佐久間もコーヒーをリサイクルボックスに食わせてそのメモ朗読に意識を向けている。そして自分が大学生だった頃に、コーヒーが飲めなかった事を完全に棚に上げている。そして自らが「可愛い」ということを肯定した。
    「カフェインは、カフェイン錠剤を粉末状にしたもの。それを砂糖のポットに混ぜたらしい」
    「あの先生、確か砂糖に煩いんだよ」
    「お前詳しく知らないのか」
    「……何年も前の話だからね」
    危うくコーヒーを飲んだことがない、と口を滑らせそうになった佐久間はそれらしい言い訳をして逃れた気がした。しかし同時に田島は「にげぇ……」と愚痴を零していた若かりし同期の顔がリフレインした。
    「確か、砂糖でコーヒーのランクが決まる~だの、砂糖がコーヒーを台無しにするなら、砂糖がコーヒーを引き上げる、だの。必ず一杯入れる事が推奨される謎のゼミだったな」
    「甘党なのは知られていることなのか」
    「ゼミ生なら知ってるだろうな」
    「確かに先生様が一番カフェインの摂取量が多かった。あとコーヒーが苦手だと言っていた女子生徒も」
    「完全に無差別殺人未遂なわけね」
    「そういうこった」
    しかも動機は不明で唯一コーヒーを飲んでいない生徒が証拠不十分ときた。完全に手詰まりだ。監視カメラの類はついているが、廊下にある程度。教授の部屋には一台もついていない。管理が各教授にあるからだ。しかし教授の部屋を訪れる生徒など、学科内でもいるくらいだ。こういう捜査を場当たり捜査というのだが、絞り込めたとしてもきっとその程度だ。5人完璧だろう。
    「まあこれからだ」
    「そうだな、頼んだわ」
    「お前はお前の仕事しろよ」
    「そうだよ。この事件にでしゃばる要素ないからな」
    「フラグか?」
    「本当の事だろう」
    佐久間は知っている。フラグを立てる奴ほど「フラグか?」と聞いてくる。つまり田島の有難いお言葉によって佐久間はフラグを立てられたのだ。こういう勘はよく当たるもので、恐ろしいことに、佐久間は諦めすら感じている。しかし目線は怒っているという意思表示をすることにした。しかしそれも田島の前では何も効かない。日頃の事件に駆り出された時の犯人や遺族の方が恐ろしいことは多々ある。日も暮れた夜の六時過ぎ。定時はとっくに過ぎている。凝った肩を鳴らしながら2人は薄暗い廊下を歩く。明日は朝から事件の捜査会議への出席とパソコンと向かい合って情報を漁る日々だ。軽い情報交換とは裏腹に足取りは疲労に囚われて引き摺るようだ。影がジワジワと伸びてやがて廊下の角で途切れた。


    人間の中には、自分が良くなるためだったら他人を騙す人間がいる。
    詐欺とは、犯罪行為の一種である。
    人を騙す、欺く、という人の心理に漬け込んだ立派な犯罪だ。傷害事件や殺人事件など身体の表面や内臓に傷ができるものとは違って、心という最も抽象的な存在を巧みに操る。抽象的なモノを人質にとられてしまえば、捜査をする場合もある程度の配慮が必須になってくる。例えば、詐欺師という生き物は、時折被害者を洗脳して自らのコントロール下に置いてしまって、犯罪行為を正当化しようとする。被害者は洗脳されてしまえば心が詐欺であることを拒否して「私は騙されていない」と言う。十分金を絞られても愛情に裏切られて他の犯罪に手を染めたとしても大抵の被害者はそう言う。もうこれ以上自分が傷つきたくないからだ。しかし警察官は毅然としてそれが犯罪だと言わないとならない。立件をしないと犯罪者を野放しすることになる。しかしそれは被害者を更に傷つけてしまうことになる。二課とは、そういう点で気を使う、身体やスタミナより精神が削れる課なのだ。これが仕事なのだ。警察官は人を完全に守ることが仕事なのではないのだ。それを知ったのは、2年目の秋だ。
    しかし最近分かってしまったことだが、犯罪行為に大して対策方法があるのが詐欺というものだ。人とは考える葦であるため、1つ対策を練れば犯罪者も1つ対策を練る。警察が追い付くか詐欺師が逃げ切るか、永遠のいたちごっこが始まる。それでも対策を世間に知ってもらわないと、警察官がいくらいても間に合わない。そのため求められる力は先見の明なのだ。「こういう対策を公表すると相手はこういった対策を練ってくるだろう。だから我々はそれに対する対策を練るのだ」といった具合だ。
    一方で殺人事件や強盗事件のような犯罪は「事後」に捜査が始まることが多い。先手を打って打たれての二課と、事後にしか動けない一課。どちらも一長一短で、民間人が警察に不信感を募らせる要因だろう。


    「お体はいかがですか」
    「いや~もうコーヒー飲めなくてイライラしてるよ」
    カラリという効果音が似合う50代後半の男は、顔から少しのいらだちを滲ませていた。言葉の通りイライラはしているらしい。しかし恐怖心が植えられたのは確かだろうから、当分は飲むことはできないだろう。糖尿病なのかは知らないが、佐久間が学生の頃から腹には何かが詰まっているようだった。何日入院したのかは知らないが、多少は萎んでいるように見える。良く見えるようになった頭皮は今回の事件の影響か。毛髪の変わりに机の周りの書類は山のように高く積まれている。
    佐久間の恩師、今回の事件の被害者である教授。名前は馬場という。犯罪に関する法律は様々ある中、刑法に関する名誉教授である。法学部には様々な教授が存在するが、その中でも一般人風で変人であるようには見えない。今回の事件で一躍時の人のようになったが本人は傍迷惑を隠すことなくマスコミ対応をこなして二週間を過ごした。
    因みに未だ犯人は見つかっていない。もちろん殺人未遂事件であるため追求をしているのだが、何分手がかりがない、とのこと。しかしその日は不審者の侵入は確認できず、廊下の監視カメラからも生徒と同僚の教授が数人出入りした程度で不審な動きをされた所を見ていないという。教授自体が留守にしていた際に学生がいたそうだが、それも複数人であったため確証を得られることは無く、事件は徐々にほとぼり自体が冷めつつある。
    「手がかりも少ないそうで、捜査が遅れていると聞いてます」
    「まあ事が事だから立件された訳だけど、今無事なら何でもいいよ」
    キャスター付きの椅子がキイキイと音をたてて巨体を受け止める。鳴いているのか、泣いているのか。今無事だから何でもよくない、と椅子が言っているようだった。しかし当の本人はどこか第三者目線で、どうやらこの騒動に疲弊しきってしまい、意識がどこかに行っているかのようだ。肩でも揉んでやった方がいいのかもしれないが、生憎首なのか肩なのか分からない体の構造をしているので、佐久間はこの提案を飲み込んだ。
    「今度の講演会は出来そうなのか?」
    「はい、その点はもちろん大丈夫です。今日は講演会でも別の件についてお伺いしたいな、と」
    「はい」
    今日佐久間は見舞いのために恩師の元を訪れた訳ではなかった。佐久間が所属している二課が、大学生が巻き込まれやすい特殊詐欺についての講演会を開くためのお願いにきていた。講演会自体は開かれる事が決まっていたが、全ては事件の発生によって後ろにずれ込んでしまった。その最終調整を事件の2日後に行う予定だったが、それすらも潰れてしまった。今日は学生から集まったアンケートについて恩師の意見を聞きたいと思ったのが、ことの始まりである。
    教授は荒れ果ててしまった自らの机の傍から茶封筒を探し当てた。荒れ果ててしまった、というと語弊がある気がした佐久間は「元からああいう机だった」と思い直すことにした。教授は若干の厚みがあるその封筒から冊子を取り出した。表紙には【大学生が詐欺被害に合わないための講座】と書かれている。中身は講演会の簡単な資料と進行表である。佐久間は母校の大学で詐欺に関する講演会の仕切りを行うことになったのだ。それにはそれ相応の訳がある。
    佐久間はとある詐欺組織を追って先輩刑事の後ろをついて回っている。それが、最近世間に蔓延っている、とある詐欺グループの動きが活発になっていることだ。団体の名称は分かっている。「カレッジ・ボランティア」と「オーダー・オーダー・プロジェクト」、「ヘルプフォーヘルプ」「ライフハック・サポート」。他にもあるらしい。「PPKK」だの「四葉の輪」だの。把握しているだけで10を超えている。この名前の数は麻薬や覚せい剤のような数字だ。それにこれだけ名前が把握されていても団体が消えないということは、まだ他の名前が存在するということだ。これでは捜査が困難である。全てを把握することが不可能なのでは、と絶望するほど。昨今はネットワークが発達している速度が毎分毎秒である。その速度と同じく、そして情報は氾濫しそうなほどに、様々な種類のものを巻き込んで渦を巻いている。情報社会で最前線を走るのは、その手に詳しい知識人と、生まれた時から情報社会に馴染んでいる大学生のような人種だ。そこに中々弾む報酬が加われば、金銭に困っているような好奇心旺盛で暇を感じている大学生は飛びつく。最初集団は大学生にボランティア活動と称して、高齢者宅へ訪問を行う。その伝手を作るために交渉役の人間と訪問先に行くタイプの人間を作る。初めの2,3回は室内の掃除や電球交換、洗濯の手伝いから買い物代行まで、なんでもやる。そうすることで高齢者は若者達に気を許してしまうのだ。無理矢理入り込んで金品を盗んだりしている、という被害はない。そうなると強盗だ。詐欺と言われるのはつまり高齢者を「騙している」から詐欺なのだ。
    「そいつら、勿論だろうけど偽名とか使ってんだろ」
    「詳しくは言えません」
    高齢者をターゲットにしているのはそういった背景がある。インターネットが普及すれば当然のように回線というものが生成される。回線を把握出来れば、誰がいつどういった内容のために回線を使用したのか、分かるようになる。年配の人間が多い警察という組織にも、インターネットに強い人材は必ず現れる。未だに現場には足を向ける人間もいれば、遠隔で犯人を割り出すことに尽力する人間もいる。どちらがいいという話ではなく、個々の得意な分野とできる事をかけ合わせた結果である。
    しかしそうなると今回のような事件は警察が劣勢である。詐欺は、ある程度未然に防ぐことができるとは言ったが、基本的にそれは事前情報があることが前提である。手口が決まっているのはもちろんのことだが、言われた言葉に共通点が多い、捜査していくと電話番号が同じ、使用している回線が同じ、など。この情報を世間に浸透させることができれば、事件として立件される数が増えて、詐欺行為自体が減少する。しかし今回は高齢者の気を許してしまった時点で終わりだ。
    犯人グループが使用している詐欺の手口は、募金詐欺と振り込み詐欺が主にある。募金詐欺というものは、架空の募金活動を行い金銭を騙し取るというもの。振り込め詐欺はその名の通りだ。募金詐欺ではありもしない「子ども食堂への寄付金」「子供たちが勉強会を行える場所募金」など、高齢者から見て孫に当たるような人間に対する募金と偽って金を出させる。これは大学生に対しても効果的なのだ。ボランティア活動に関する募金活動だからだ。そのため、大学生ですら気付かないような仕組みになっている。更に追い打ちをかけるのが、高齢者の子供や孫が離れた場所で暮らしているパターンが多いのだ。その結果発見が遅れてしまい、ある程度被害が広まってからの情報提供から事件が発覚するのだ。
    「まあ勝手にうちの大学の名前が使ってる傍迷惑なヤツでも人権はあるか」
    「……どこからそれ」
    「ネット」
    どこへ行ってもネット、ネット、ネットである。インターネットは悪いものではない。使う奴が悪い人間だから悪いものになるのだ。スマートフォンのブルーライトが佐久間の目の前でユラユラと揺れている。そこには黒基調の画面に白文字の掲示板のようなものらしい。最近佐久間もその画面をよく見ている。インターネットも馬鹿にできない、という事を佐久間自身が一番実感している。所謂特定することを趣味や生き甲斐、果てには職業にしている輩もいる。探偵や興信所もその類だ、と佐久間は思っている。
    「とは言っても、結構有名な話だろ。SNSにもチラチラ呟かれてるっぽいし。時間の問題かと、俺は思ってたけど?」
    佐久間は押し黙ってしまった。肯定とも取れる沈黙を作ってしまい、刑事としてはまだまだだ、と悔しさを滲ませていた。
    「もちろんお心当たりは」
    「無い」
    バッサリとした物言いに項垂れる思いの佐久間は必死にため息を飲み込んだ。
    「とは言っても……」
    うちのゼミ、曰くつきっぽいし?と子供のように笑う馬場はきっとイライラしているのだろう。ため息がドッと詰まって息がしづらくなった佐久間は顔を上げた。やっぱり、という心情が漏れ出したニヤついた顔が目の前に広がっている。
    「この前のアドレナリン事件があった時、うちのゼミ生が標的だったわけじゃん?もしかしたらうちのゼミ生に詐欺グループのやつがいて、任務に失敗したから消されそうになってたりな〜!」
    夢物語を朗読するかのようなテンションで楽しげに言葉を紡ぐ馬場の様子に佐久間は呆れた。どうやた佐久間の反応を楽しんでいただけのようだ。つまり発言のどこにも根拠はないし、飄々として佐久間に八つ当たりをして楽しんでいるらしい。
    「……ゼミや大学で妙な団体が動いている、みたいなことはありますか?」
    「例えば?」
    「今まで聞いたことのないサークルが活動しているとか、知らない団体の張り紙がなされているとか」
    「うーん。俺も大概ここに篭り切りだからな〜」
    多少は佐久間も気にして校内を歩いた。とは言っても人が集まりそうな談話室や食堂はまだ行っていない。教員棟続く道には教員が主催で開催される特別講習や、関連のイベント程度。犯罪心理を専攻する生徒に向けた張り紙はどれもこれも怪しく見えてしまうのはどうしようもない。しかし佐久間が怪しまないといけないのは、そういった「怪しい張り紙」ではなく「怪しくない真っ当な張り紙」だ。
    犯罪に関する法学を学ぶ生徒は珍しがられて妙な視線を送られてしまうのは、世の常だ。その視線の先端にいるのがこの教授様である。言葉を選ばずに言うと「準犯罪者」というような目線を向けられる。しかしそうではないことは佐久間自身が証明している。犯罪の心理を学ぶことで抑えられる犯罪はいくらでもある。逆に何も知らないで犯罪を看過してしまったり加担してしまったりする。そう言った点で、犯罪について学びが多いと、有事の際に落ち着いて有利に物事を進められるのだ。
    そういう点で、この馬場という男は飄々としていることで、部外者から「準犯罪者」と言われて「犯罪に関する学びへのハードルを下げている」のだろう。しかしこの態度だ。もはやピエロのようである。そうなると気味が悪い、と言われても仕方がない。そうなのかもしれない。
    大学とは高校などとは違ってある程度開かれた場所である。そのため、佐久間はこの後に校内を散策してみよう、と決めた。
    ドアがノックされた。
    「はーい」という馬場の声が伸びる。その声に佐久間は肩を振るわせた。唐突な学生の来訪だろう。妙な緊張をするのは当然だろう。当然だが、こんな変人の教授の元を訪ねる生徒にとって佐久間はOBである。その生徒に先輩面をしたくて背伸びをするがなんだかくすぐったい。誇らしいOBでありたいしそう見られたいという仄かな承認欲求がうざったく感じる。そのせいか少しだけ背が伸びた。
    「失礼します」
    黒い髪がモサリとした背が高い男が入ってきた。妙に伸びた服と当たり障りのない鞄と本を提げて入ってきた青年。顔は目が大きく見えたし割と綺麗な肌質である。学生特有の栄養失調のような雰囲気がなく、目の下の隈がうっすら見える程度の整った顔立ちであった。その青年は先客に驚いた様子だった。もとより大きかった瞳がさらに大きくビー玉のような大きさにあった。しかしバツの悪そうな顔をして扉の向こうへ帰ろうとした。
    「すみません、出直します」
    そう言って慌てた様子で教授室から出ようとした。しかしそれを止めたのはこの部屋の主だった。
    「おーいいよ、ちょうどお前の話してたとこだ」
    その言葉に2人は内心首を傾げた。半分閉じられた扉からそのモサッとした頭がのぞいていた。瞳は怪訝そうで、陰影の影響か、目の下にうっすらとした隈が少し青く色づいた 。佐久間はというと、馬場の言葉に反応して彼の顔を見た。子供のような表情とメタボ腹のコントラストが毒だ。こうなると子供のような表情ではなくどこかの悪党のようにしか見えない。佐久間は今まで数件の詐欺事件に関して、先輩の後をついて回ったが、ここまでの悪人面をした人間には会ったことがない。
    馬場の言葉に青年は恐る恐る扉を開け戻して室内に入ってきた。背が高い、と思ったのは気のせいだと気がついたのは、座っている佐久間に近づいてからのことだった。いわゆる平均的な身長のような気がした。佐久間が座っているため、正しく判断できているのか、佐久間自身が分かっていない。
    「この生徒、この前の毒殺未遂で真っ先に槍玉に上げられてた子」
    そう言われてしまうと嫌味っぽくないですか?と言いそうになったが、生徒の顔が何より不機嫌丸出しだったため、佐久間はその顔をぽかんと見つめるだけにとどめることにした。
    「こちら、現役警察官でうちのゼミのOB、佐久間くん」
    「初めまして、捜査二課所属の佐久間です」
    「二課なのになんの用ですか。話すことはないです」
    第一声がこれだ。一課と二課の違いが分かる優秀な人間らしい。しかしあまりにもサッパリ、いや叩き斬るような言葉の選び方に、佐久間は少し同情してしまった。
    「いや、私は今度開かれる詐欺の特別講座の最終打ち合わせのために来ました」
    佐久間は基本的に誰に会っても敬語だ。社会人として当然だと、そう思っているからだ。両親も肉親以外には敬語を使うような人間だったため、育ちの関係もあるのかもしれない。
    「捜査じゃないんですね。なら良かった」
    最後は独り言のような薄い声だったが、明らかに安堵が滲んでいて子供らしさを感じられる。明らかに態度や表情が柔らかくなった。同時に気まずそうな顔をしているくらいには常識人らしいが、危機感と不信のため謝罪の言葉はないらしい。
    「先生、8年前の資料を踏まえてレポート書き直してみたのでご一読いただけますか?」
    「おーマジか。よくやったな」
    「気になったので」
    端的な言葉の端に丁寧でちょっとしたナードな匂いがした。佐久間はもう一度男のことを見た。顔は美形であることは間違いない。逆にその印象だけで服装をよく見ると、皺があったり、少し色が褪せていたり。無難な格好ではあるが、大学生特有のいわゆる「オシャレに気を使っています」と言う印象はないように佐久間は感じていた。大きな瞳も、だんだんぎょろりと飛び出た目のように感じ始めた頃、教授に向けられた目が佐久間に向けられた。
    「来客中に失礼しました」
    その視線も一瞬で馬場の方に向けられた。隙間を刺すような視線も、一瞬だったためか冷ややかに見えた。しかし馬場の脂肪にしっかりと跳ね飛ばされてしまったようだった。
    「いいや。お前、気になってんだろ」
    ニコニコした面構えは気味が悪い。言葉をどう捉えるかはその人間がどのような過去を歩んできたかによる部分が大きい。その結果人の数だけ人の感性が生まれる。そのため馬場のこの言葉を気味悪いと捉えるか、茶化されていると捉えるか。そんな茶化しているようで下を見るような視線の馬場は付け足した。
    「一応お前2課だろ。あのカフェイン錠剤は 詐欺集団が盗んだモノじゃないのか?」
    脳内が凍りつくような感覚があった。こんなことを情報漏洩や虚偽情報の拡散で捜査の妨げになってしまう。誰から流れているかは直前に見せてもらえた黒い掲示板が思い浮かんだ。
    「その情報は色々脚色されていますし、そうだとしても捜査の妨害になるようなものを鵜呑みにしているのは如何かと思います」
    「手厳しィ」
    何を言われてもヘラヘラとしているのが馬場という男だ。こういうのを底抜けに明るいというのだろうが、教授室に所狭しと並べられた「犯罪心理学」やら「日本における犯罪傾向」、「死刑囚からの手記」などが並べられて積まれた部屋を見ればただの気持ち悪いオヤジである。それにこの部屋は窓が1つしかないし、その部屋もブラインダーとカーテンの二重構造になっていて日光がほとんど差し込まない。埃っぽいその部屋でへらへらした巨漢。何となく趣味が悪いのが伝わると幸いだ。
    「マアお前に聞いても結局窃盗なら一課だしな。意味は無いな。あ、でもあれじゃないか。お前、ストーカーにもあってるだろ。相談してみたらどうだ?」
    「それは生活課の人のお仕事では」
    「それでも一人前の警察官だぞ。聞いてみたらどうだ?」
    「ストーカー、ですか。良ければお話聞きますし、同期で生活課に配属された人間はいますので取り次ぎますよ」
    警察官とはいつになっても嫌悪感を抱かれてしまうものだ。目の前の青年が分かり易く顔を顰めたせいで、せっかく浮かべた笑顔が苦笑になってしまった。しかし、青年はその苦笑にまたバツの悪そうな顔をした。やはり根は良い青年なのだろう。
    馬場はキャスター付きの椅子に積んだ資料を別の場所に積みなおして、青年に座るように促した。青年は一応そのキャスター付きの椅子に座った。座る前に埃を叩いたのが印象的だった。
    「とはいっても、ストーカーはあの事件から半年前からのものだったんです。僕、スーパーで夜勤のバイトしてるんですけど、その帰りに着けられているような気がして。でも着けられてる気がしただけで別に実害があったわけでもなければ郵便受けに、とか、声かけられた、とか、そういうのは無いんです。だから、そんな、警察に行くような感じではないんです」
    自覚が薄いのだろうか、というのが佐久間の印象だ。というのも、こういうのは実害が出てからでは遅いのだ。出来ればその時の様子を撮影していたらよいのだが、自覚がほとんどないから証拠を揃えられていないのだ。
    「危機感があまりない、と」
    佐久間のこの言葉に青年は首を縦に振った。
    「それで、あの事件が起こったんです。ストーカーを感じ出してから、飲み物はなるべくマイボトルで準備してて、共有の飲み物を飲まないようにはしていたんです。その結果、僕は飲まずに済みましたし、事件の被疑者扱いされた訳ですが。」
    「……もしかしたらそのストーカーがカフェインを入れた、と?……あ~、ゼミ生を逆恨み、的な?」
    「マァ、そんな所です。皆が巻き込まれたのなら、俺のせい、ではありますし。犯罪者が100パーセント悪いのは分かるんですが、俺がもう少し早く警察に行ってたら、というのは考えるようになってます」
    「そういうこった。」
    馬場は珍しく腕を組んで話を黙って聞いていた。
    「心理的には、そのストーカーが「コイツと仲良くしている他のゼミ生や俺が邪魔」、と考えるのは一理ある。しかしそれにしては殺意が薄いので、どちらかというと【周りが邪魔だから消したい】というよりかは【コイツを孤立させてそこに漬け込みたい】が細かい心理描写かもしれない。どちらにせよ、あの現場にはゼミ生しか出入りしていない。ゼミ生の中にストーカーや今回の事件の犯人がいるかもしれない。それにコイツはストーカー以上に犯人を疑われた時点で他のゼミ生からの反感も買っている。だからこそ、コイツの周りの警戒を着けてほしいのはこちらの頼みではある」
    大きな巨体がここまで頼もしく見えたのはいつぶりだろうか。相対的に小さく見えていた青年の体もいつの間にか更に小さくなっており、より頼もしく見えた。青年の顔は暗い。そういう顔をされると佐久間も対応をしないといけないのか、と思い始めた。しかしそのためには実害の一歩手前の話、「そんな気がする」を【確証】に変える必要があった。
    「分かりました。では来週の講演会の時に生活課の人間を1人連れてこれるように手配してみます。もしできなくても、今から言うことを試してみてください」
    「あ、待ってください。メモを」
    「ああ大丈夫です。簡単なことですので」
    青年は傍にあったトートバック漁りをやめて、膝の上に手を置いて佐久間に真っすぐな視線を向けた。
    「まず、夜勤帰りに着けられている、ということでしたので帰る時に着けられていると思ったらスマホのカメラで背後を録画してください。こんな感じで」
    そう言って佐久間は手元にあった警察手帳をスマホに見立てて実演した。
    「カメラが肩から若干覗く感じでもいいですし、もしそのトートバックで行かれるのならカメラを起動してレンズを外に向けて外ポケットに入れてください。それで持ち方を後ろに向けて歩いてください。歩く速度は体が危機を感じた時以外はいつも通り歩いてください。」
    「こう、ですか」
    「そうそう」
    佐久間は安心させるために笑顔を作る。これは高齢者の相手をしていると自然と身につく。警察官一年目は必ず交番勤務になる。その時もそうだし、二課に配属されても高齢者の応対をすることがダントツで多い。特に特殊詐欺の被害に遭った高齢者は不安な人間が多い。その時に笑顔で、そして自信を持って言葉を口にすることが大切なのだ。しかし口にする側は相当の心の準備と自己への自信が無いと、口にするたびに涙が零れそうになる。奥歯を噛み締めて擦り減らす代償の笑顔である。
    「もし今日から3日間尾行が無ければ4日目からは毎日行ってください。あ、夜勤が無い日は下校中にこれをしてください。で、来週の講演後にその映像データを提出してください。形式はUSBでもDVDでもなんでも。データ自体はこちらで解析しますので加工や編集は不要です」
    「はい、分かりました」
    素直である。あんなにツンケンしていたというのに。この態度には佐久間も拍子抜けだ。しかしそこまでストーカー行為に悩んでいたのだろう。
    佐久間は続けて指示を出す。
    「あとは、教授ですね。」
    「あ、俺?」
    真剣に聞いていたような馬場は急な名指しに驚いた様子だった。腹の脂肪が震えていた。佐久間はその脂肪に語りかけないように言葉を続ける。
    「持ってる、あれ、あの。あー……。盗聴器の発見器。もしかしたら教授室や生徒の共有ルームに何かが付いてるかもしれないので。」
    「じゃあこの会話も筒抜け?」
    「……」
    「詰めが甘いんだよなー。もう探してる。何も無かったよ」
    「そうですか。なら大丈夫です。」
    馬場が盗聴器の発見器を持っているのは有名な話だ。なにせ授業で初回で盗聴器を体験するのだ。学ぶのはストーカーの心理、そして被害者の心理である。身をもって体験することと過去に盗聴器を使用したことのある人間の動機・当時の心理を照らし合わせることで、被害者に対して本当に必要なケアを考えるのだ。盗聴器を探す時間ももちろんある。そのための発見器だ。
    「他にすることってありますか」
    青年の体は未だに堅苦しく固まっている。それだけ必死に真剣になって話を聞いているのだろう。佐久間は知識を絞りだすために少し考え込んだ。
    「……そうですね。最近は文房具屋とかでも売ってるので防犯ブザーを購入してください。後は部屋に帰ったらドアチェーンをかけて、来客があったらドアスコープを確認してドアチェーン越しに相手を確認してください。」
    「分かりました。一層します」
    「とりあえずはそれくらいです。あとは、私の連絡先をお渡ししますね。私用ですので、繋がらない時はありますので出来ればショートメールに文字で残してください」
    「はい」
    一応ショートメールという言葉が伝わらない可能性と衝撃には備えていたがそういう場面は来ないらしい。それならそれでいい。彼はポチポチと番号を打っていくと【捜査二課 佐久間さん】と名前登録していた。
    「ワンコール鳴らしますね」
    「どうぞ」
    そうしてバイブレーションが一度鳴る。佐久間はその動作を確認して名前を登録することにした。そこで気付いた。
    「お名前、聞いていいですか」
    名前を聞くのを忘れていたのだ。青年の名前が庁舎内で聞かれることはない。
    「すみません、学生証出しますね」
    青年は今度こそトートバックを漁り、中から長財布を取り出した。その財布からは少し年季を感じた。きっと青年が入学した時に貰ったものだろう、と佐久間は勝手に推測した。
    そして青年は学生証を差し出した。
    【工藤 誠】
    そう書かれていたため、佐久間は【工藤誠くん】と登録した。名前の読みが「なる」であることは驚いたが、それも一理ある読み方だ。佐久間は読み仮名登録も同時に行った。
    佐久間は青年改め、工藤の学生所を見て気が付いた事があった。
    「あれ、俺と1つしか年齢違わないんですね」
    確かに佐久間はここの出身だが、もう3年過ぎている。ゼミ選択をできるのは2年の後期、ゼミが始まるのは3年。それでも後輩との交流が多いゼミではなかったが、工藤、という人間は知らなかった。つまり、工藤は留年した可能性があるということだ。留年生が悪いことはない。そもそも上下での交流が少ないことと、人間が多いことが何よりだろう。このゼミの特性上、どうにも同じような研究をする人間と屯することが多い。そのためか卒業論文発表会で初めて見る顔もあるほどだ。
    佐久間の言葉に工藤は答えた。
    「はい。俺、3年の途中から2年くらい休学していたんで。でもすみません、佐久間さんの事知らなくて」
    「あ、気にしないでください。俺も生年月日を見て初めて年齢が近い事を知ったのに、お名前を存じ上げなかったので」
    なんだか距離を詰められた気がした。佐久間はそんな感じがしたが、工藤は相変わらずもさ、とした頭のせいで表情が読み取りにくい。しかしここから親しみをもってもらえたら、と願望を覚えた。
    「じゃ、話し合いは終わったか?」
    声をかけたのは馬場だ。はい、と答えた佐久間の声に合わせてその大きなクリームパンのような手を打ち鳴らした。
    「じゃー、今日は解散。ここは合コン会場じゃないしな。工藤のレポートは読んでおくから、明日以降呼び出すわ」
    「ありがとうございます」
    「佐久間は、来週よろしくな」
    「はい、当日はよろしくお願いいたします」
    この日は解散となった。シッシッとされるように教授室を追い出されてしまった。2人同時に追い出されることになった佐久間と工藤は呆然とした。しかし先に口を開いたのは工藤だった。
    「じゃあこれで、失礼します。」
    「ああ、うん。今日はバイト?」
    「今日は休みで、明日はシフトです。」
    「そっか、気をつけて」
    「ありがとうございました」
    短い言葉のラリーだったが、丁寧な口調だった。今日初めてあった時から、佐久間の中の工藤の印象がすっかり変わっていた。廊下に出て気がついたが、ずいぶん日が傾いていたようだった。学生がキャンパスから出て行く姿がポツポツと見て取れる。何時に最終講義が終わるのか、忘れてしまっていた佐久間は自らのスマホで時刻を確認した。もう17:00を過ぎていた。暗くなるのも早い晩秋だ。寒さが染みる前に庁舎に戻ろうと踵を返した。


    吐く息が白く見えた車中。
    警察官は基本的に1人では行動しない。つまり佐久間は今日もう1人の人間が隣で動いていたはずなのだ。しかし教授に会っていた佐久間は終始1人だった。
    「おー終わったか」
    加藤とは真逆の風貌の男が、リクライニングシートを倒して寝ていた。顔に白いハンカチを被せているのがさらに不気味だが、本人は「これが1番安い」と言っている男だ。名前は貴島という。
    「終わりました。庁舎に戻ります」
    「なら俺は直帰でー」
    「はい、分かりました」
    そう言った佐久間だが、初めはきちんと断っていた。「そういうことは……」という在り来たりな返事だ。しかし他の先輩方が貴島の扱いを「さっぱり、適当に、声がかかれば行けばいい」と言っていたのだ。元々一課に居たという。しかし年齢が上がった、という理由で二課に異動願を出したのが4年前という。3日の張り込みが普通だったから、と言いながら車の中で休憩という名の仮眠を取る。聞き込みや体を張ることになるとイヤイヤそうに出てくるが、内勤になると比較的元気に見える。そんな、よく分からない飄々とした男だ。
    「ここが【ポインセチアの庭】がいる大学か」
    この話題は佐久間や貴島の領分だ。ポインセチアの庭、というとのは、今流行りのマルチ詐欺集団の別の名前だ。ここまで枝分かれするとどれだけ大きな幹があるのかと思う。それほど枝が分かれ過ぎている。
    「【カレッジ・ボランティア】、【オーダー・オーダー・プロジェクト】、【ヘルプフォーヘルプ】【ライフハック・サポート】、【PPKK】、【四葉の輪】、【ポインセチアの庭】、【ブルーバードケア】、【学生ボランティアを繋ぐ会】、あと何だっけ?」
    「【医療学生バトン協会】、【レッドリボン募金振興会】、【ハニービート・クローバー】、【ポプラ会】とかですかね」
    「多いな〜なんでここまで広がっちまったのか。無能だねェ二課は」
    「その理屈だと貴島さんも無能になりますよ」
    「承知してますよ、と」
    呑気に伸びと欠伸をした貴島の歯はヤニで汚れている。佐久間は通常時は貴島とバディではない。ただこの講演会で元一課であった貴島の意見が欲しいと提案して、この件だけの特別バディだ。ただその貴島が乗り気ではないのだ。「餓鬼相手にめんどくせーやる気ねーめんどくせー」の様子で一方通行だ。しかし当日プレゼンをする際のスライドは完璧なのだ。しっかり一課の知識を盛り込んで、二課として伝えられる事を簡潔丁寧にまとめられている。佐久間が「すごいですね」と溢したら「なら給料上げてくれ」と言われたことがある。
    「はい、お疲れ様でした」
    「おー。ダッシュボードに入れてる」
    「はい」
    本来、自らの警察手帳と拳銃は自らの鍵付きロッカーに保管する決まりがある。日本という国で法律上拳銃を持っていいと認められているのは警察官のみである。そうだとしてもあまりにも無責任な男だと佐久間は思っていたが、なんとなく日常になっているのも事実だ。自らの鞄に貴島の拳銃と警察手帳を入れて庁舎に入るといろんな人が入り口にいる。一応一階窓口が18:00までは係の人間がいて通常業務を行なっている。戻った時間はほとんど民間人はおらず免許の更新に関する取次を待つ人が数人だけだった。カウンターの向こうにいる人に「戻りました〜」と声をかけてそそくさと4階の二課まで足早に駆けあがっていく。こういう時に警察学校で真面目に持久走に耐えてきて良かったと思える。今はスーツと鞄のみだ。当時は機動捜査隊の装備一式に防弾盾を構えて炎天下三時間ランニングした。4階まで駆け上がることなんて、足に羽根が生えているかのように軽いことだ。
    警察官である以上、帰舎後初めにすることは決まっている。
    「近藤警部補、佐久間巡査ただいま戻りました」
    背筋を伸ばす。足はつま先を外に向けて踵をつける。右手を額に当てて、左腕を太ももに添えて、両の手の指先まで力を込める。視線は逸らせない。
    自信が無い、それは無責任で正しくない。警察官とは、責任であり正しくある存在だ。
    これが口癖の上司へ報告を行うのだ。
    「休め」
    その言葉にようやっと手を降ろす。足を肩幅に広げて両手を後ろに組んだ。
    目の前の男は、佐久間の上司であり二課の現場指揮責任者である近藤勝次という男だ。キャリア階級で初期配属から現在まで二課から動かない重鎮である。民間人にも部下にも上司にも、自分の前にいる人間にはどんな人間にも第三者目線であることを徹底し己の発言には全て責任を持つ、男である。そのため知識量は段違いで踏んできた場数も頭一つ飛び抜けている。特別向上心があった訳ではない。民間人を守るということは自らに自信がないと前に立つことや、この仕事で食べて行くことができない、と考えるようになったそうだ。その【自信】が欲しくて場数を踏みに行った、と佐久間は聞いたことがあった。近藤は自らの幼稚さと浅はかさを露呈した、と自虐話として持ち出したそうだが、佐久間には自虐とは思えなかった。
    「報告ですが、本日午前中は例の広域詐欺グループの根幹とされている社会法人【海陽会】に関する情報収集として、元法人関係者と名乗る男性との接触を試みましたが、失敗しました。」
    「失敗とは」
    「私自身、雑誌記者として応対する予定でしたが、約束の時間に指定された場所に該当の人間は現れませんでした。そのため、待ち時間を2時間過ぎた辺りで席を外しました」
    「2時間の理由は」
    「まず人の待ち時間に対する心理として、30分以上待ち続けるとイライラする傾向にあります。そのためあまりに30分未満の短い滞在時間だと、対象者が早計な行動に走る確率が低いと判断しました。また接触のみが目的だと思われず『どうしても話が聞きたいのだ』というこちらの意志を表わすために一時間は待つつもりでいました。また1時間45分のタイミングで外で待機していた貴島警部補から『1時間半前から待ち合わせの喫茶店を見ていた男が立ち去った』と連絡があったため、貴島警部補が尾行を開始。戻ってくる可能性がないと判断した時点で喫茶店を立ち去りました。結果二時間の滞在時間となりました」
    「理解した」
    まずは第一関門突破である。佐久間は一度息を薄く吐いた。既にこの疲労感である。警察学校で初めて射撃演習をした後のような気疲れである。しかしまだ報告することがある佐久間は間髪入れずに続けた。
    「午後は海陽会の幹部が繋がっている可能性のある大学の1つである東部大学へ向かいました。当学校は経済学部学部長の羽島、その後妻である旧姓南藤ミナが詐欺グループ【ポプラ会】に出資援助をしていることが分かっています。この事実確認を行った結果、間違いない、との返事がありました。また、該当大学内に詳細不明の新しいボランティアサークルが結成された事実も確認致しました。この情報は本日初めて判明したことですので、夫人が関わっているのかも含めて今後捜査を行います。」
    「名前は」
    「正式名称【東部大学ボランティアサークル】、学生の間では【ウエストBC】と呼ばれているそうです。」
    「非公式なのか」
    「その通りです」
    「……増えたな」
    「はい」
    近藤は完璧であろうとするが、別に完璧な存在ではない。完璧であったらそこで人間は死ぬ。それは人間誰しも分かっていることだ。
    近藤は明らかに苦言を呈した。芯が通った理論であれば納得する。しかし無尽蔵に広がるこの怪しげなボランティア集団1つ一つに納得いくまで探りを入れるのなら骨が折れるものだ。近藤自身が納得いくまで捜査することでここまでの地位を確立した。その姿に感銘を受けた人間が近藤の元で職務を遂行してきた。しかしそれでも人の力では限界がある。だからといってAIのようなものに頼れるものでもない。サイバー班に任せても良いのかもしれない、と思っていた佐久間は話を続けることにした。
    「東部大学の後に行った明城大学で、加藤教授と来週の講演打ち合わせを行った際に教授よりインターネットの匿名掲示板にてボランティア詐欺に関する掲示板があることが判明しました。そのため、これからはサイバー班に捜査の協力依頼をかけてみてはいかがでしょうか」
    佐久間の言葉に、近藤は眉を動かした。提案をすること自体を疎まれるような職場ではない。自主性が無いと仕事ができないのが警察官である。空振りにすら意味のある仕事であるため、アイディアはいくらあっても良い。近藤は二課の中でも若年層の佐久間の意見に首を縦に振った。
    「なら、前向きに検討する価値がある。詳細は」
    「まず、掲示板では首都圏にある大学にある新興ボランティアサークルや部活動の発生を報告したり、詐欺に関わったとされる人間のプロフィールが公開されていました。この情報自体はネットリテラシーの観点からも正しいのか間違っているのか、その確率自体は3対7といったところが関の山かと思います」
    「それでも3割は間違っていない可能性がある、と。なら少し掛け合ってみるか」
    佐久間は近藤の言葉にまた肩の力を抜いた。元々はなで肩である佐久間は、自らの方が碇肩のようになっていたことに気がついた。
    「最後ですが、名城大学での加藤教授とのお打ち合わせですが、提案として生活課の方を連れてくるのはいかがでしょうか」
    「ん?根拠は」
    近藤は必ず、根拠を求める。なぜその行動をしたのかの説明を求める。説明ができない行動をするのは無責任な人間だ、と決める。関門は3つ。説明が何かしらあるのは第一関門、説明に第三者が納得できるかが第二関門、そしてきちんと言い切れているかが第三関門。酒を飲むと少し柔和になる近藤は「結局は言い切るかなんだわ。俺が見ていて『ちゃんと言い切れてんな』って思えないと信用できないのは、基準としてありえないな」と笑っていた。しかし佐久間はその意見に納得はしている。交番勤務の時もそうだったが、結局は言葉を話す人間の態度や言葉尻で判断する。酔っているなら呂律は回らないし、覚醒剤を服用していると支離滅裂になる。不法滞在ならいつまでなんの目的で滞在しているのかを正しく言えないし、ひったくりは「これは自分のもの!」しか言わない。よく言う「あなた、今自分が意味のわからない事を言っていると分かりますか?」というやつだ。最終的にはそういう点で相手を見極めざるを得ないのだ。これを諦めと言うと聞こえは悪いが、近藤のこの考え自体に説得力があるし第三者である佐久間が納得できる。なら近藤の言葉に責任はあって自信があり、正しいということだ。
    「まずボランティア詐欺にひっかかっている生徒は、本当にボランティアだと思って参加してしまったケースがほとんどです。しかし実際は「この程度で警察に行っていいのか」と通報と相談が混同してハードルを上げてしまった結果足踏みしてしまう現状があります。ただ学生も、インターネットなどを利用して知識を得ているようにも感じました。実際今日学生と話をする機会があったのですが、私が二課であると伝えると自らの現状を話すことはなく、生活課に取り次ぐと言うと悩みを話し始めました。学生が相談するべきだと考えているのは二課の人間ではなく生活課の人間である、と理解している、とも言っていました。実態の早期発見のためにも学生には積極的に警察に相談して欲しいと考えているので、実際に生活課の人間に来て頂き、通報や相談のハードルを下げたいと考えて、提案します」
    「なら人の伝手はあるのか」
    「伝手はないので、課部長に直接提案を掛け合いに行きます」
    その佐久間の言葉に近藤は頷いた。
    「なら行ってよし」
    佐久間はようやっと肩の力を抜くことができた。
    「それで?貴島はどうした」
    「……貴島巡査部長は本日は直帰しました」
    その言葉に近藤は根拠を求めなかった。近藤と貴島は同期ではないが年齢が近い。上司と部下という立場上、貴島を叱る立場の近藤だが、諦める立場でもある。仕事に責任があればいい、という話だったため矛盾しているのだが、 貴島は一応仕事はしているのだ。しているのだ。そもそも今も定時を過ぎていて、帰宅するのは個人の仕事の進み具合によっては帰ることは可能だ。後輩に報告をさせているようだが、そもそも貴島や他の先輩を見て来た佐久間はここまで報告をしているため「立派になったものだ」と思っている。放任主義で反面教師だが、個人が成長しているなら黙認するか、ということだ。
    「拳銃の所在確認ができたらお前も上がっていいぞ」
    「はい。ありがとうございました」
    一礼して、自分のデスクに戻る。上がっていい、と言われても報告書は待っているし、生活課の人間への依頼書を書かないと明日に動き出すことは不可能だ。佐久間は椅子について息を細く吐いた。
    二課に佐久間と同年代の同僚はいない。しかしそれは佐久間が若輩層であるということだ。佐久間が優秀だから二課にいるのではないが、まだ後輩がいない状態だ。都市部とはいうが、都心ではないこの警察署では佐久間のような若輩は持て囃される。「お疲れー」とよく声を掛けられる。
    「お疲れ様です」
    「ああ、お疲れ」
    佐久間のデスクの隣にいる沢田という男が声をかけてきた。隣ということもあって異動してきた時はよく世話をしていた。しかし毎日構っているわけにもいかないし、佐久間の教育係は黒峰という別の人だった。ちなみに黒峰は女性で、佐久間が2年目の時に寿退社してしまったため、現状いない。黒峰は女性の上司より男の上司の方が良いのでは、と思い沢田にも気をかけてやるように頼んでいた。その結果今では沢田が佐久間の世話係のようになっている。佐久間も二課の中でバディを組むことになったり捜査で一緒になる時に沢田がいることは多い。
    とは言っても佐久間も喋りの多い人間ではない。仕事中に無駄な私語はしないし、自らの立場が分かっている以上下手には出ないし無責任な人間だと思われたくはない。
    警察には階級とは別にキャリアという概念がある。キャリア階級とノンキャリア階級という。キャリア階級は、簡単にいうと『警察官を育成する事ができる』、つまり将来警視正や警視長などの警察官の上に立つ警察官のことだ。一方ノンキャリア階級は『現場・実務』だ。ハンコを押すや、デスクワークが中心のキャリア階級とは違い現場に出向き警備を行い街の治安を守る。どちらがいい・悪いなどの善悪二元論の話ではなく、互いに持ちつ持たれつなのは予め理解してほしい。
    因みに、この佐久間がいる警察署のキャリア階級は警察署のトップとその人を支える人数名だ。近藤も貴島も、沢田も黒峰も田島も佐久間も。全員がノンキャリア階級だ。それでも目に見えて分かる階級が存在する。それが所謂巡査や警部などの階級だ。
    佐久間は後者の階級がある中で、でしゃばるつもりはないのだ。馴れなれしくするつもりもないし、甘えたい訳ではない。自分が辛い場面に遭った時に叱咤してくれることに意味があると考えているのだ。好きの反対は嫌いではなく興味がない、ということだ。
    だからこそ、真剣に仕事に取り組んで、相手からのアクションによって態度を柔和にしているのだ。
    「貴島さん、今日も直帰?」
    「はい……。ですが報告書をたくさん書く機会を与えてもらった、ということで」
    「あちゃァ。まあポジティブに考えないとやってけないわな」
    「経験は積極的に積んでいきたいのには間違いないので」
    「いつも通り、お疲れさん。何も手伝えなくて悪いけど、頑張れや」
    「はい、ありがとうございます。」
    佐久間はきちんと挨拶として感謝もする。人として最低限のことである「極力悪口は言わない」を適切に守って自らの仕事を始めた。
    佐久間は報告書、と書かれたA4の紙に、近藤への報告とほとんど変わりのない文字列を記入して今日の公的仕事を終了させた。その際に軽くストレッチをした。腕をグゥと伸ばして肩を鳴らす。パキ、ポキンという心地の良い破裂音がする。すると目の奥に眠気が忍び寄ってきた感覚と、僅かな集中力が戻ってきた気がした。この瞬間は佐久間にとって「今日も仕事した気がする」という幸福と達成感を感じられる時だ。
    この感覚が消えてしまう前に、佐久間は引き出しからA4ノートを取り出した。佐久間は毎日A4ノートに埋めつくす程の報告書を書いている。これ自体は紙で正式に書くものが別にあって、それは書き次第近藤に手渡す。これは近藤が指示したことである。これは必要最低限の報告は済ませているので、「今度どのように動いていきたいか」を改めて書く程度に留めている。申し送り事項をまとめたようなものだ。佐久間に後輩ができるまで続くそうだ。
    一方でA4ノートはほとんど箇条書きになっている日記のようなもので、「何を見たか」「どのような対処をしたか」「この時どう思ったか」「他にどのような対処ができたと考えられたか」をまとめている。反省や何ができたかを振り返っていくのだ。
    誰かに言われた訳ではない。単純に佐久間自身の自己評価を「忘れやすい」と思っているためだ。毎日疲労に押しつぶされそうになり、責任と人命を預かるような職業だ。気楽な仕事ではない。しかし自らを慮らないと他人なんて守れない、と佐久間は常に思っている。その結果、逃げてしまうとは違うが疲労からの脱却の代償として、記憶力が疎かになってしまいがちなのだ。言い換えてしまえば、勤務が後半になるにつれて集中力が落ちていくのだ。そのため必ず一日を振り返る事ができるタイミングを作り出して振り返り、明日の自分に繋げるのだ。
    佐久間の腹の虫が騒ぎ始めていた。猛烈に甘いものが食べたくなってきてしまった。集中力が切れているし、脳内がじんわりと動きが鈍ってきている。佐久間は脳に「もう少し頑張れ」と旗を振ってみたが、そろそろ限界であるようだった。徐々に眠気も来ているようだった。今日一日のスケジュールをまとめているが、そこで工藤誠の文字を書いた。
    筆が止まった。明確に止まった。先程まで甘味が欲しくて駄々を捏ねていた脳みそが急ブレーキをかけた。しかしなぜ止まったのか分からない。どこかで、見た名前だと思った。あの時は何も気が付かなかったが、何故か今。足元の小石を不意に蹴飛ばしたかのような感覚があった。驚いたのは、急停止した自分の脳みそのせい。しかし脳の回転が急停止した傍から「なぜ止まったのか」にシフトしてフル回転を始めた。
    佐久間はどこかでこの「工藤誠」という名前を、見た気がした。捜査資料か?それだとしたらもっと前、それこそ初めて彼の顔を見た時に分かったはずだった。しかし今自分のノートに記入して、何かにひっかかった。何に引っ掛かったのか、色んな言葉を連想した。脳内にマインドマップが広がる。
    そもそも初見時に「誠」と書いて「なる」と読む名前に引っ掛かりを感じなかった。ということは名前を読んだことがなかったりフリガナがなかった所でこの名前を見たことになるのだろうか。そうなると読んだことのある小説や新聞で同姓同名の人物を見たことがあるのだろうか。だとしたらもっと早く気が付くはずだ。ニュース?確かにこの事件は一部マスコミの餌食になった。さらに過激な週刊誌は被害生徒や工藤の事を嗅ぎまわっていたのは知っている。しかしそれを知っていても、佐久間としては知らないことだ。そもそもあの事件は一課の仕事だ。二課は課内総出で広域詐欺事件に取り組んでいてそれどころではない。
    まさか、詐欺事件に彼が絡んでいるのか。いやしかしそうなると自分が反応できないのはおかしい。
    1つ可能性が浮かぶと、可能性に否定的な現実が浮かんでくる。浮かんでは沈んでを繰り返していた。いつの間にか19:00も終わりそうになっている。
    佐久間はノートに「工藤誠 調べる」と手短に書いてノートを引き出しにしまった。
    脳内では「一番可能性があるのは、週刊誌やニュースで彼の名前を見た気がしたのだろう」と納得させることにした。これで甘いものと空腹を満たしてしまえば、きっと明日にはリセットして背筋を伸ばして仕事ができるはずだ。佐久間は鞄を手に取り「お先失礼いたします。お疲れ様でした」と当直に声をかけて署を後にした。
    結局帰り路にあった牛丼チェーン店のネオンに負けてしまい、疲労が絡みついた足を店内に向けたのだ。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    Let's send reactions!
    Replies from the creator