瑞雲遠飛③(途中) 二人が姑蘇へ戻り、数日が経った。
静室で謹慎をしていた藍忘機のもとを訪ねたのは藍曦臣だった。彼は、謹慎中の藍忘機の食事や書物を届けてくれていた。
「忘機、魏公子は目を覚ましたかい?」
「いいえ。しかし、回復はしつつあります。じき目を覚ますでしょう」
藍忘機が答えると、藍曦臣は安心した様子で牀榻の方を見た。藍曦臣からは布団にくるまった魏無羨の姿は見えなかったが、牀榻の周りにたくさんの魔除けの飾りや札が貼ってあるところを見ると、甲斐甲斐しく世話をしていることは一目瞭然であった。
「お前もそろそろ傷が癒えたところだと思う。――その、」
言いよどんだ藍曦臣を、藍忘機が継いだ。
「私は叔父上や兄上、そして弟子の皆を裏切りました。情けは不要です。罰を受けます」
「忘機」
「兄上。叔父上の言うとおり、魏嬰は九尾の魔狐であり、九嬰封印の贄となるべき存在です。けれども私は、彼を贄にしない方法もあると信じています」
「お前は……」
「書物で伝わっていることは存じています。たとえ彼が邪術に長けた夷陵老祖で、前世に陰虎符を作った危険な存在で、過去三十二回に渡り妖魔奇怪の封印の贄とされてきた者であっても、…………私はこの者と、共に在りたいのです」
藍忘機がはっきりと述べると、藍曦臣はため息をついた。
「お前の想いは私もよく分かる。けれど、私や叔父上が願っていることも分かるね?」
「はい。私は罰を受けます」
意思を変えない藍忘機に、何としてでも罰を軽くしたいと考え説得しに来た藍曦臣は心が張り裂けそうだった。しかし、彼はもう祠堂の前で罰を受ける覚悟をしていて、もはやこれ以上の説得はできないことを悟った。清河の山でひと際藍忘機を厳しく糾弾した藍啓仁とて、彼が心を改めて平穏に雲深不知処で修行をしてくれればと願っていた。自ら愛し、手塩にかけて育ててきた甥に、誰が喜んで厳罰を下すことができるだろうか。
「忘機、――準備をする。……また、呼びに来る」
そう言った藍曦臣の唇は震えていた。
藍忘機は祠堂の前に坐した。周りには、あの時藍忘機の咆哮に吹き飛ばされた弟子たちがおり、藍曦臣と藍啓仁が藍忘機の目の前に立った。
「忘機、お前は姑蘇藍氏直系、光と正道を司る龍神の血を受け継ぐものでありながら、自ら邪道に与した」
「間違いありません」
「その上弟子三十一人と、兄、叔父に咆哮し、傷つけた」
「間違いありません」
「――以上より、刎角、及び三日後より九嬰討伐までの流を罰とする」
その瞬間、弟子たちがどよめいた。あの時藍忘機は確かに咆哮して彼らを吹き飛ばしたが、怯ませて暫く足腰が立たなくなる程度のもので、明確に傷つける意図がなかったことは誰もが分かっていた。
刎角とは文字通り角を折る罰である。姑蘇藍氏の歴史上、今までにその罰を受けた者は一人もいなかった。
龍の角は、龍神の先祖返りである姑蘇藍氏の直系を示す霊力の源であると同時に、彼らの誇りそのものである。どれほどの事態であるのか、その場にいた誰もが理解すると同時に震え、中には慟哭したり、気を失ったりする者まで出た。しかし、藍忘機はずっと同じ姿勢のまま、目を閉じていた。
「刎角は右の角三分の二とする。これより行う」
藍啓仁が言うと、藍曦臣が自らの剣である朔日を構え、合図と共に勢いよく藍忘機の角に振り下ろした。
その瞬間はあっけなく、しかし不可逆なものであった。
一瞬の沈黙の後、その場にいた誰もが悲嘆した。藍啓仁は手を震わせ、手を下した藍曦臣は涙を流した。藍忘機は、言葉を思い浮かべただけで誰もが顔を歪ませる耐え難い痛みに襲われているにも関わらず、表情を一切変えずに折られた自らの角を手に取ると、兄と叔父、そして弟子たちに一礼してその場を後にした。
魏無羨が目を覚ますと、藍忘機が琴の弦を張り替えているのが目に入った。
「藍湛、ここは……静室?」
「――魏嬰、体調は?」
「ああ、すっかり良くなったよ。お前が清河から俺を連れ帰って来てくれたのか?」
「うん」
「ありがとう。俺、全然記憶が無くて……。その、陰虎符は?」
「今は叔父上が預かっている。姑蘇の最奥で暫くは封じることができるだろう」
「そうか。――っ! ……藍湛、それ」
魏無羨は、牀榻の前に来た藍忘機の異変に気がついた。
「どうした?」
「お前の角……どうして折れちゃってるんだ? あのさ、もしかして俺が……」
魏無羨はすぐに、自分が気を失っている間に藍忘機に危害を加えた可能性を考えた。気を失う直前、誰かの声がしたのだ。そしてその声の主は、「お前には手こずった」と言っていた。そいつが夷陵老祖であれば、魏無羨の身体を乗っ取り、藍忘機を陰虎符を使って傷つけようとすることは考えられる。
「君のせいではない。私が決めたことだ」
藍忘機はやさしい声で魏無羨の疑いをはっきりと否定した。
「でも……沢蕪君と藍先生に、藍湛に迷惑をかけたことを謝らなきゃ」
「私がきちんと説明しておいた。ただ、静室で大人しくしていてほしい」
藍忘機は魏無羨の心配にそう付け足したが、ついに角が折れた理由については話さなかった。魏無羨はあの場に自分と藍忘機しかいなかったことを思い出し、それ以上尋ねることができなかった。
二人の間に少し沈黙が流れた後、先に口を開いたのは藍忘機だった。
「――魏嬰、二日後に少し旅に出る。復活した妖魔が分かった」
「本当か! どこに行くんだ?」
「北だ。体調が本調子でなければもう少し養生できるよう頼むが……」
「大丈夫だよ。俺はもう元気だ」
魏無羨は起き上がると、牀榻を降りて藍忘機の周りを一周回った。
「ほら見てみろ。お前がいっぱい世話を焼いてくれているから、すぐに良くなったよ。なんなら、お前の方が具合が悪そうだ」
「君が無事なら問題ない」
藍忘機はそう言うと、途中になっていた琴の弦の張り替えを進めた。
「俺が倒れている間じゅう弾いてくれたのか?」
「聴こえたのか?」
「ううん。でもずっと藍湛が近くにいるような気がしたよ」
藍忘機は返事を返さなかったが、魏無羨は藍忘機の耳朶が少し赤くなっていることに気付いた。
「お前が照れるなんて珍しいな。――ああ、今日は家にいるのにいつもの飾りをしてないんだな」
「旅支度をしていた。引っかかると危ない」
藍忘機は自分が罰を受け、支度が出来次第、九嬰討伐が完了するまで放逐されることを魏無羨には言わなかった。
「んー、そうだな。龍の一族ですって感じの藍湛もかっこいいけど、夜狩に行ってるときの素の藍湛も綺麗だよ」
藍忘機はそう言われて、思わず魏無羨の方を見た。藍忘機はずっと黙って耐えていたが、片方の角の大半を失ったことは心に深い傷を残していた。しかし、魏無羨の一言を聞いて、たかだか自分の角の数寸で彼を守ることができたのだという思いが芽生えた。彼を贄にせずに九嬰を討伐できれば、また平穏が戻ってくるのだと思うと、前を向くことができる気がした。
「魏嬰、討伐する妖魔を知りたいか?」
「おお、そうだった。それを聞かなきゃな」
藍忘機は書物を数冊出して、九嬰の説明をした。堯の時代の英雄・羿が倒した妖獣として有名だが、何らかの理由でこの時代に生まれ変わったか、あるいは似たものが生まれたと考えられる。
「――羿は九嬰を弓で射殺したって書いてあるけど、藍湛は弓が引けるのか?」
「一通りは出来るが、羿のような神業は使えない。弦殺術を使った方がいいと思う」
「弦殺術って、何か物騒な名前だな」
「姑蘇藍氏の裏技だ。あまり良い由来の技ではない」
藍忘機は弦殺術についても少し解説した。魏無羨は、姑蘇藍氏らしからぬ極めて実践向きの技の存在に驚くとともに、確かに発案者は厄介者扱いされそうだとも思った。
「九嬰の首をいっぺんに刎ねるとして、あいつの動きを止める必要があるよな。俺がそれを引き受けるよ」
「魏嬰、無茶はしないで」
「分かってるよ。お前が九嬰と俺を封印する前に死なないようにするから、大丈夫だって」
「……君を連れ帰る」
藍忘機は誰にも聞こえない声で微かに呟いた。
「えっ、今何か言ったか?」
藍忘機は魏無羨をちらと見て首を横に振った。九嬰を封印し、魏無羨を連れて帰ることを魏無羨本人が望んでいるかどうか、確かめることが怖くなっていた。
「――まあ、なんでもないならいいよ。凶水まではどのくらい?」
「御剣すれば三日で着くだろう」
「分かった。俺はお前に掴まって乗るしかないから、よろしく頼むよ」
「うん」
雲深不知処を出る前夜。魏無羨は自分が占領していた牀榻に藍忘機を呼んだ。
「藍湛、明日からちょっと大変な旅になるんだからさ、こっちで寝たほうがいいと思うよ」
「魏嬰、君の寝る場所はどうするんだ?」
「俺は……ほら、お前の牀榻は広いから、俺が端に寄れば大丈夫だろう?」
魏無羨は牀榻の壁に面した側に寄り、藍忘機を手招きした。
「――眠れないのか?」
「ハハ、ばれちゃったか。……明日から藍湛と二人で旅に出ると思うとわくわくするよ。だけど、ちょっとここを離れるのが寂しくなっちゃったんだ」
今まで魏無羨はどこに行っても厄介者扱いされていたが、藍忘機と雲深不知処は魏無羨を客人として迎えてくれた。彼は目が覚めてからずっと静室にいたため、清河の一件を藍忘機の家族に詫びることができておらず、気にかけていた。
「お前に迷惑をかけないって言ったのに、嘘になっちゃった。今から沢蕪君と藍先生に謝っても間に合うかな? それとも……もしかして二人は俺に会うのが嫌で、藍湛はずっと静室にいるように俺に言いつけてた?」
「――これには事情がある。ただ、私の家のことだ。君には関係ない」
「…………俺は、やっぱりどこでも厄介者だったのかな」
「違う」
「藍湛、どうしてお前はいつも俺にやさしいんだ? 今まで俺の辞書には『やさしい』なんて言葉はなかったよ」
「魏嬰、目を瞑って。もう寝なさい」
藍忘機に頭を撫でられ、魏無羨はあくびをしながら返事をした。目を瞑った魏無羨は、身体が温かくて大きなものに包まれる感覚がして、すぐに眠りに落ちた。
凶水は姑蘇のはるか北にあり、御剣して移動していた二人は一日目の夜から安全な場所を探して寝泊まりしなければならなかった。宿を探そうにも、角の折れた龍と黒い狐の先祖返りが悪目立ちするだけなのは二人とも自覚していて、まだ流れのある川の近くや、焚火の跡を探して休める場所を見つけて三日の道のりを進んだ。途中、吹雪が酷い場所もあったが、魏無羨は帽子のついた外套にくるまれ、藍忘機は雪が当たらないよう結界を張って進んだ。
「ふう、やっとここまで来たな」
魏無羨は凶水の源流にあたる雪山に向かって笛を構え、黒い闇の気配を探った。付近の集落からは一切の生気がせず、邪気だけが漂ってくる。きっと、九嬰が焼き払ったか水を流したかして、たくさんの人々の命を奪ったのだろう。
「魏嬰、気をつけて」
「これくらい大丈夫だよ。――あっちの方から、大きな闇の動く気配がする」
藍忘機が見れば、遠くに洞窟のような場所があった。
「あの中だ。明日向かおう」
「うん。今日は近くの洞穴か何かを探すか」
運よく二人は九嬰の洞窟の近くに閉ざされた猟師小屋を見つけた。秋口までは使われていたらしく、十分に寒さを凌げるものだった。
「良かったな。ちょうどいい小屋があって」
「うん」
二人は藍忘機が乾坤袖に入れていた饅頭を温めて食べた。
「藍湛、お前といるときだけは、俺は全く食いっぱぐれなかったよ」
「足りるか」
「十分だよ。たくさん食べたら動けなるだろ?」
すっかり外は暗くなっていたが、魏無羨は外を見たくなり、一度脱いでいた分厚い外套を纏って外に出た。
「藍湛、こっちに来いよ! 星がきれいだ」
魏無羨が藍忘機を手招きした。着いたときにはまだ雲の多い空であったが、いつの間にか晴れてきていたらしい。藍忘機も外套を羽織って外に出た。
「魏嬰」
「見て、藍湛! お前の鱗みたい。すっごくきれいだ!」
魏無羨は瞳に満点の星空を映した横顔のまま、藍忘機に言った。
「――うん」
「俺、藍湛に会うまでずっと痛かったり、辛かったりしてたけれど、お前と色んな所に行って、一緒に夜狩をできて、本当に楽しかった。お前はいつも無表情だけど、本当はすごくやさしいしな」
「魏嬰、私も……」
藍忘機が何か言いかけたところで、魏無羨はふと気がついた。
藍忘機と過ごした数か月の間だけは、それまでとは違って、どうしたら叩かれないか、どうしたら追いかけまわされないか、どうしたら噛まれないか、どうしたら悲しくならないか、どうしたら辛くならないか考えずにいられた。その代わり、どうしたら藍忘機が笑ってくれるか、どうしたら藍忘機が楽しそうにしてくれるか、どうしたら藍忘機が頭や尻尾を撫でてくれるか、そんなことばかり考えるようになっていた。
今も、藍忘機とどうしたらずっと一緒にいられるか考えてしまいそうになってしまう。
藍忘機が続きを言おうとしたのを、魏無羨は遮った。
「藍湛、誰かとずっと一緒にいたい気持ちのことを、何て言うの?」
「それは…………」
藍忘機はその答えを思い浮かべたが、何も知らない魏無羨にその感情を押し付けてしまうような気がして、答えることができなかった。
「そっか。物知りな含光君にも知らないことだってあるよな。じゃあさ、質問を変えるよ。――藍湛も、そういう気持ちになったことある?」
「……うん」
「そっか。――俺は今初めてそう思ったけれど、今だけは生まれ変われてよかったと思えたよ」
魏無羨が白い息を吐きながら柔らかく微笑んだ。いつも笑うことが多い魏無羨だが、この時は僅かな悲しさをその表情に混ぜているように思えて、藍忘機は魏無羨に近付くと、彼を抱きしめた。魏無羨は少しびっくりした様子だったが、腕を回すと、藍忘機に身を委ねた。
「この間静室で寝た時もこうしてくれたな」
「――気付いてたのか?」
「今分かったんだよ。ハハ、俺は死ぬ間際になってようやく一番心地の良い場所を見つけた気分だ。……嬉しいのに、どうして泣いているんだろう」
「魏嬰、中に入ろう」
「うん」
二人は満点の星々に背を向けて、再び猟師小屋の中に戻った。魏無羨は九尾を出し、藍忘機と寄り添いながら眠りについた。