夷陵老祖座学中① 藍忘機が静室に戻ってきたとき、魏無羨は蔵書閣から適当に見繕ってきた本を、並べた円座の上に寝そべりながら読み耽っていた。
「あ、藍湛! お帰り!」
道侶の帰りを見るや否や、魏無羨はその本を放ってどたどたと駆け寄り、彼に思いきり抱きついた。藍忘機はどんなに勢いづいた魏無羨が飛びついてもびくともせずに、彼の髪を撫でた。
「ただいま、魏嬰」
「ふふ、藍湛、今日はちょっと早いな!」
嬉しそうに笑う魏無羨が愛おしくてたまらない藍忘機は、その背をぎゅっと抱きしめた。しかし次の瞬間、藍忘機は、まだ雪の残る雲深不知処に訪れた春のようなひと時を台無しにする一言を告げた。
「魏嬰、叔父上から君を連れてくるようにと言われた」
叔父上、という言葉を聞いた瞬間、魏無羨は糊でもついているかのようにくっついていた藍忘機から飛び去り、ずるずると壁の方に逃げた。
「ハア?! おいおいおいおいちょっと待てよ藍湛。さっき俺を抱きしめて微笑んでいただろ?」
「うん。――それはそれ、これはこれ」
「俺、大人しくしていたぞ?」
「君が悪さをしたわけではない」
「じゃあ何でだ?!」
「もうすぐ、座学が始まる」
魏無羨は藍忘機の一言に遥か昔の日々を思い出した。それは藍忘機と出会った尊い少年時代の思い出であり、金子軒を殴り連れ戻された苦い記憶でもある。
「座学だから、他家の子弟が出入りしている間は静かにしてろって?」
魏無羨が尋ねると、藍忘機は彼にだけ分かるくらい微かではあったが、魏無羨の反応を面白がっているような表情で言った。
「それだけではない。行こう」
藍忘機は部屋の隅に怯えた猫のように蹲っていた魏無羨をいとも簡単に抱えると、そのまま藍啓仁のもとに向かった。
「藍湛、大丈夫! 自分で歩くよ」
「これでいい」
藍啓仁のいる部屋の前で、藍忘機は魏無羨の服の襟元と寝転がって乱れた髪をきちんと整えてやり、それから「叔父上」と声を掛けた。
「忘機に魏無羨か。遅かったな」
「失礼します」
「失礼します……」
藍忘機に合わせて魏無羨も拱手すると、藍啓仁は髭をいじりながら彼らを一瞥した。
「楽にしてよい。――魏無羨よ、忘機から聞いたか?」
「はい。なんでも、これから座学が始まるとか……」
藍啓仁は「そうだ」と短く相槌を打ち、藍忘機を見た。どうやら藍啓仁はもう少し藍忘機に言い含めていたことがあるようだった。
「藍湛、まだ何か知ってるのか?」
魏無羨が小声で藍忘機に尋ねると、彼は目を逸らして黙った。一部始終を見せつけられた藍啓仁が咳ばらいをした。
「魏無羨、忘機の道侶であれば、座学に復学して修了しなさい」
「ら、藍先生……それって、俺が子供たちに混じって座学に参加しろってことですか?」
思いきり顔を歪めた魏無羨に、藍啓仁は日頃の鬱憤を晴らせたのか少し機嫌を良くしたようだった。
「お前よりしっかりした子供もいるから問題ない」
「ハハ、それもそうかもしれませんね……」
(冗談じゃないぞ。藍湛はこれを知ってて俺を連れてきたんだな……?)
魏無羨は藍忘機に抗議すべく、表情筋を総動員して彼を思いきり睨んだ。しかし、藍忘機が「耐えて」とばかりに魏無羨の腰に縋るように手を回してきたので、魏無羨は結局こめかみを掻くくらいしかできなかった。
(まあ確かに、俺が座学を修了できなかったのをとやかく言われるのはいいが、それで藍湛がどうこう言われるのは腹が立つよな……。藍じじいも、きっとそうなんだんだろう)
魏無羨には、甥っ子思いの藍啓仁の考えも手に取るように分かった。道侶として藍忘機の隣に立つのであれば、今のうちに後ろめたいことは潰しておくのが得策だろう。魏無羨は座学への復学に全く乗り気ではなかったが、日頃雲深不知処にいながら好き勝手やっているので、一度くらいは藍啓仁の言うことを聞いてやり、徳を積むことにした。
「……分かりました。俺も末席で参加させていただきます」
「よろしい」
魏無羨の一言と藍啓仁の明るい表情に、一番安心したのは藍忘機のようであった。魏無羨は藍忘機の脛を小さく蹴ってやりたい気分だったが、藍啓仁が再び喋り出した。
「本題はここからだ」
「えっ、まだ何かあるんですか?」
魏無羨が思わず声に出して尋ねると、藍啓仁は嫌そうな顔をしたが、無視して話を続けた。
「――忘機とお前には、子弟の夜狩を頼みたい」
魏無羨は耳を疑い、「もう一度言ってくれますか?」と聞き返そうと思ったが、藍忘機が隣で頷いているので黙ろうとした。しかしやはり疑問に思ったので、口が言うことをきかなかったことにして疑問を述べた。
「藍先生、姑蘇藍氏の座学は理論を重視するものであったはずです」
この問いかけには、藍啓仁も嫌な顔をせずに頷いた。
「そうだ。それは古来よりずっと変わらぬ藍家の教えである。ただ――これには昨今の各世家の事情もある」
藍啓仁は、一度嘆息して話を続けた。
「――お前たちが子供の頃とは異なり、今は実践も学問の場の役割となりつつあるということだ」
「つまり、夜狩の経験がないまま座学に来る子弟も珍しくない、と?」
魏無羨が尋ねると、藍啓仁は黙って頷いた。藍啓仁個人としては、各世家がそれぞれのやり方を教え、上下関係のもとしっかり面倒を見るべきだと考えているようだ。しかし、かつての教え子である各世家の宗主たちからそのようなことを乞われてしまえば、断るわけにもいかないのだろう。
「夜狩の基本は各世家が教えていることを前提にして子弟を受け入れるが、ほとんど実践経験はないと思ってほしい」
「分かりました」
ここでずっと黙っていた藍忘機がようやく返事をした。
「忘機も魏無羨も、座学の頃には既にかなりの腕であったことは認める。だが、お前たちが教える相手は、平和な時代に大切にされてきた名門の家の子供だ。藍思追と藍景儀にも手伝わせて良いが、くれぐれも教える内容は安全なものにすること」
「「はい」」
「魏無羨、邪術を教えてはならぬ」
「もちろんです」
「――よろしい。……魏無羨、座学の間はお前も校服を着なければならないが、夜狩の時だけはお前も講師だ。校服を着る必要はない」
「ハハ、ありがとうございます」
魏無羨は藍忘機を見た。藍忘機の嬉しそうな表情に、魏無羨は大方の話のあらすじを読み取った。
(ははん、含光君がどこかの家の子弟の夜狩の世話を藍じじい経由で乞われて、俺が参加するなら教えてもいいとか言ったんだな。でも俺が座学を修了していないとなるとややこしいから、交換条件にされたってわけか。含光君は夷陵老祖様の名前を出せば断れると思ったんだろうが、藍じじいが一枚上手だったってところだろうな……)
「卯の刻には起床し、辰の刻には蘭室にくるのだぞ。――忘機、仲睦まじいのは構わないが、コホン、……気遣いも忘れぬよう」
魏無羨は藍啓仁の小言に藍忘機が目を逸らすのを見てしまい、思わず「……っ、くく、っ」と笑い声を漏らしてしまった。
魏無羨は藍忘機と静室に戻ってくるなり、ひと際大きなため息をついた。
「はあぁ。お前、藍じじいに座学に来た子供を夜狩に連れて行くよう頼まれたんだな?」
「私は人にものを教えるのが得意ではない。君の方が向いている」
「でも、藍じじいは俺が子供を連れ回すなんて許せなかったんだろう。俺が座学に出るのを交換条件か何かにされたんだな?」
「――私はその時点で全て断わろうと思った」
「しかし、何か思いもよらない事態になった」
魏無羨はまるで自身が名探偵であるかのように陳情を振り回しながら藍忘機に聞いた。藍忘機は否定しなかった。
「うん。――ちょうど思追と景儀が麓の村の邪崇退治から帰ってきた」
「で、景儀あたりが何か言ったんだな?」
「うん」
藍啓仁から夜狩の講師に任命されそうになっていた藍忘機は、話を有耶無耶にしようと思い、藍思追と藍景儀を部屋に通した。二人は帰ってきて報告を済ませ、黙ってその場から立ち去ればいいものを、「含光君、俺たちこの間魏先輩が教えてくれた方法でやったんですよ。家屋や住んでいる方に損害を出さずに済みました」と笑顔で教えてくれたのである。藍啓仁はすかさずどのような方法か事細かに尋ねたのであるが、極めて基本に忠実かつ安全な方法であったため、結果的に藍忘機に譲歩せざるを得なくなり、「魏無羨を座学に」という条件を苦し紛れに提示したらしい。
「藍湛、お前なあ。……うん、まあ仕方ないか」
「魏嬰、君に断る場をつくれなかったのは私の落ち度だ」
「良いよ良いよ。お前と夜狩に出られるわけだし、合法的にお前らのところの子供を連れ出せるのは悪くない。ただ、朝起きれないから夜は本当に手加減しろよ?」
「……」
「目を逸らすな。含光君、どこでそんな仕草を覚えてきたんだよ。かわいいから俺の前以外では禁止だな」
「うん」
明らかに残念そうな表情をした藍忘機に、魏無羨はちょっとした仕返しができてすっきりした気分になった。
それから数日後、続々と各地の世家から子弟が雲深不知処にやってきた。その中には、魏無羨が良く知っている顔もあった。
「なっ! ……なんでお前が校服を着ているんだ!?」
「魏先輩! もしかして座学に参加してくださるんですか?」
「おうおう、金凌に欧陽子真。久しぶりだな……。ええと、これには色々深い事情があってだな……」
魏無羨は自分がかつて座学を追い出され、復学したことを素直に話した。勿論、言いふらさないようにとも言い含めたが、そのうちどこからともなくこの事実は漏れるだろう。ともあれ、これからきちんと修了すればいいので、魏無羨は少年たちがどんな噂を流そうとどうでもよかった。
(ハハハハハ、夷陵老祖様と同期修了できるなんて幸運だと思うんだな!)
魏無羨が内心で悪い笑みを浮かべていると、金凌が呆れたようにつぶやいた。
「復学なんて……。そもそも、一体何をしたら追い出されるんだ。藍啓仁先生は、どんな子弟にも匙を投げない、とても辛抱強い方であると伺っているぞ」
魏無羨は思わず口をぽかんと開けて金凌を見た。
(ちょっと待て! それをお前に言ったら、俺はまたお前に刺されなきゃいけなくなるだろう!)
そのあと、どうにか返事をしようと目を泳がせた魏無羨は、救いを乞うように欧陽子真を見た。
「あ、ああ! 金宗主、折角だから思追と景儀にも会いに行こう」
「お、おう。じゃあな。今度は藍先生に迷惑をかけるなよ。子真、……ここでは金凌でいい」
仲良く藍思追と藍景儀を探しに行った二人に目を細め、魏無羨はうんと伸びをするのだった。