耳環③「忘機、水灯籠を買ったから、これを川に流すんだ」
「どうしてですか、兄上」
「母上が寂しくないように、お前が元気でいることを伝えるんだよ」
「母上……」
藍忘機は、水灯篭に明かりを灯すと、それを丁寧に川に流した。水灯篭は、兄弟が暫く見ているうちにどんどん遠くに流れていき、小さくなっていった。
「今年は初盆だ。私たちだけでも、お寺に行こう」
「……はい」
それから暫くが過ぎた。
魏無羨の風邪が治るまで、結局それから三日ほどを要した。彼は熱が下がって意識がはっきりしてくるにつれて、藍忘機がどうしてよそよそしいのか気になり、最終的にぼんやりと思い出したのは、自分の出まかせのせいでこうなったということだ。ただ、藍忘機は「付き合った相手の数だけピアスを開けている」という魏無羨にも隣人としての親切を忘れず、食事の世話や洗濯までしてくれたし、気まずい仲になった今でも講義の資料をコピーさせてくれる。
ただ、昔のように一つのベッドを二人で分け合う生活からは卒業してしまったので、魏無羨はなぜか今までに感じたことのない残念な気分でいた。
「…………魏さんは、らん……いや、ご友人との誤解を解きたくて、その方法に悩んでいて、アルバイトが終わってもうちでお茶を飲んでいるんですね。ああ、ええと、……どうぞ気の済むまで……」
「言うな温寧。俺は何も悪くない!」
「悪いに決まってるじゃない」
辛辣な一言を投げかけたのは温情だ。彼女は店じまいをして、今日の分の帳簿を付けようとしている。
「ああ? 俺のどこが悪いんだ?」
「『俺は何も悪くない!』なんて、本当に心当たりがなくて何も悪くなかったら言う必要ない言葉よ。多少の罪悪感があるからそんなこと言うんでしょ」
「ぐっ…………」
この一撃は魏無羨の急所を貫いた。彼は、最近自分が部屋にいる時間に図書館で勉強するようになってしまった藍忘機との誤解をきちんと解きたいだけなのだが、最近の氷のような表情の藍忘機に、何をどう話せばいいのか分からなかった。まず、話すきっかけすら見当たらない。おはようの時間には魏無羨はまだ寝ていて、それから先は暫く会えず、夕方に魏無羨がアルバイトに行く時に少しだけ部屋で会えることもあるが、魏無羨が帰ってくる頃には藍忘機は寝ている。
「――俺はどうすればいいんだ…………」
魏無羨が薬局の接客用に置いているテーブルに顔をくっつけてぐずぐずしていると、温寧が何かを思い出したらしい。
「あ、そういえば、魏さん! 来週は秋祭りですよ」
この地域の人々は商魂たくましく、秋の終わりの数日間に出店を出したり灯篭を売ったりする祭りを開く。もともと川を中心に風光明媚な街並みが残っているので、観光客も多くなかなか賑わうのだ。
「あ? 秋祭りだからどうしたんだ……」
「らん…………そ、その人を誘ってお祭りに出掛けてみてはいかがですか?」
この時まで魏無羨の鳩羽色の瞳はすっかり意気消沈して光が消えていたが、この温寧の一言で光を取り戻した。
「それだ……! そうと決まれば俺はやるぞ!! ありがとうな! 温寧」
魏無羨は凄まじい速さで支度を済ませると、大慌てで店から退勤していった。
「いえ……、あ、お気をつけて」
「温寧、あのバカを追い払ってくれて良かったわ。私たちも晩ご飯にしましょう」
「はい、姉さん」
魏無羨がバタバタとやかましい物音を立てて帰ってきたとき、藍忘機はまだ起きていた。彼は寝る前に今一度明日の講義の予習箇所が合っているか確認し、忘れている提出物が無いかオンライン上の教材管理システムを確認し、寝ようかというところだったのだが、手を止めて騒音の主がドアを開ける瞬間を見つめていた。
「藍湛! 藍湛、藍湛、藍湛!!」
「……なんだ」
魏無羨はなし崩し的に自分のものになっているベッドの上にどさっと自分の荷物を置くと、耳に付いていたピアスをいくつか外して藍忘機に差し出した。
「なあ藍湛、お願いがあるんだ。…………あ、秋祭りに、俺と行ってほしいんだけど…………」
藍忘機は突然の誘いに暫く固まってしまった。魏無羨は、お堅い藍忘機のことだからそんな地域行事に興味なんてないのも仕方ないと思った。
「…………、ああ……、やっぱり嫌だよな?」
「分かった。行こう」
「…………え?」
「行くと言っている」
魏無羨は感激と感動で満面の笑みを浮かべると、藍忘機の手にピアスを握らせた。三つのピアスは、この間藍忘機が魏無羨に返したものだ。
「これは、ピアス三つ分の『お願い』なのか?」
「そ、そうだよ。こないだは熱で寝ぼけててお前を怒らせちゃったみたいだし。折角ルームメイトなんだ。……その、仲直りしてほしくて」
その言葉を聞いた藍忘機は魏無羨がピアスを握らせようとした手を掴むと、そのまま離さずに言った。
「君と私は、仲違いをしたつもりはない」
「でも、お前は俺のせいで廊下の壁に穴を開けただろ? 元々より綺麗に直ってたけど、弁償するのにいくら払ったんだ?」
藍忘機が目を逸らした。魏無羨が見れば、なんと彼は少し耳を赤くしている。
「…………私がやってしまったことだ。君は関係ない」
魏無羨は初めて見る藍忘機の表情に、かえって自分の方が熱くなりそうになって、冷静でいようと努めた。
「と、とにかく、これは預かっておいてよ」
「君のピアスだが……、君は、その人たちのことを、特別に思っていたのではないか?」
そう言われた魏無羨は、もう一度藍忘機の手を握り直し、しっかりとピアスを掴ませた。
「ああ、あれは冗談だったんだ。俺は今まで誰とも付き合ったことはないよ。…………信じてくれるかは分からないけど。……だから、これはお前が持ってて」
藍忘機は魏無羨が手を離したので、自身の手の中に移った三つのピアスを渋々机の引き出しにしまった。魏無羨は「冗談だ」と言っていたが、窓に映った彼の表情はどこか寂しそうに見えた。けれども、窓に映った魏無羨と目が合った瞬間、彼はさっきのようにまた笑顔になる。
「藍湛、楽しみにしてるぞ。秋祭り!」
「……うん」
秋祭り当日、魏無羨と藍忘機は観光客も多く訪れる川沿いの街をぶらぶら歩いた。秋祭りに誘いはしたが、魏無羨は実を言うとこれといって目的がない。たまに浮かれた大学の顔見知りと会っては手を振ったり、簡単に挨拶をしたりしていたが、流石に屋台を見かけると自分たちがあまりにも祭りに溶け込めていないと感じた。
「藍湛、屋台で何か買ってくるよ」
「金はあるのか?」
「馬鹿にするなよ。それくらいはあるさ」
そう言いながら財布を出して魏無羨はようやく気づいた。最近はスマートフォンのコード決済アプリを頼ってばかりで現金をあまり持っていなかったのだ。その時、藍忘機がスッと財布を出し、彼にいくらか渡した。
「君の好きなものを」
「ええっ、良いのか? ハハハハハハッ、持つべきものは金持ち兄ちゃんだな?」
魏無羨は周りに藍忘機が金持ちだとばれないようにこそりと言うと、焼き餅を二つ買って一つを藍忘機に分けた。
「ほら、お前も食べてみろ」
「分かった」
藍忘機が黙々と食べているのを見ながら食べても、魏無羨の方が早く食べ終わった。この焼き餅はなかなか魏無羨好みの味で、肉と野菜の餡の味がしっかり付いている。彼はさっきのお釣りで黙ってもう一つ買いに行って戻ったが、それでもまだ藍忘機は一つ目を半分ほど食べたところだった。魏無羨は暫く見ていたが、どうも藍忘機の口に合わないというわけではなく、藍忘機の一口が小さい上、非常によく噛んで飲み込んでいるからであるらしい。魏無羨は屋台の並びに不釣り合いなほど上品な藍忘機を見ているだけで十分祭りを楽しめる気がしたので、食べ終わるまでお釣りで飲み物を買って待つことにした。
ようやく藍忘機が焼き餅を食べ終わる頃には、屋台の軒の周りにライトが点き、星も出始めていた。二人はぶらぶらと祭りの街並みを楽しんでいたが、ふと藍忘機が足を止めた。
「どうした?」
「いや……」
「ああ、灯篭か。中秋節は何も出来なかったし、買ってみる?」
「うん」
藍忘機は魏無羨とともに水灯篭を売る川べりの屋台の店先に歩いていき、自分の木蓮の柄の灯篭と、魏無羨に蓮の柄の灯篭を買った。彼らは川辺に降りられる小道を降りて、川に水灯篭を流した。もう中秋節は過ぎてしまっているが、それでも多くの人が水灯篭を流して先祖の安寧を祈っていた。
「よし、ここら辺なら良さそうだ」
「川に入らないよう気をつけて」
「大丈夫だよ」
二人はそれぞれ灯篭を流し、手を合わせた。目を開けた藍忘機が横を見ると、魏無羨はまだ目を閉じて手を合わせていた。藍忘機には、彼が小声で何を呟いていたかは分からなかった。
「さてと、門限もあるし行こうか。俺はともかくお前が破るわけにはいかないだろ?」
「君も門限破りをしてはいけない」
「ハハハ、そうだったな…………」
二人は大通りに戻り、帰路につく多くの歩行者と同じ方向を歩いた。
「藍湛、少し先だけど年末年始はどうするんだ?」
この国では年末年始よりも旧正月の方が盛大な行事だが、大学は年末年始も休みになるので近いところに住む学生の中には帰省してのんびり過ごす者もいる。
「私は……家に帰ろうと思う」
「ふうん、そりゃいいな。お前の家はそんなに遠くないもんな」
魏無羨はその時ほんの一瞬だけ故郷を思った。そして、視界の端、道路の反対側を大荷物で歩く少年に目が止まった。歳は魏無羨より一、二歳くらい若いだろう。彼はずんずんと人混みを歩き、大学とは反対方向の街の中心部へと歩いていく人々の雑踏へ消えていった。
「…………! どうして…………」
「魏嬰、どうした?」
「い、いや…………。は、早く帰ろう…………」
藍忘機は黙って急に速足になった魏無羨について歩き、二人は普通の人が歩くよりも早く寮に戻ることができた。
先ほどから様子がおかしい魏無羨は、寮の部屋に帰ってくるなりバックパックに服や荷物を詰めだした。
「藍湛、悪いけどしばらくお前の家に匿ってくれないか?」
魏無羨は自分の耳に付いた藍忘機に開けてもらった以外のピアスを全部外して藍忘機に預けた。
「君は突然何を言い出すんだ」
「頼むよ。全部やるからさ。と、とにかく、俺をさっさとお前の家に連れて行ってくれ!」
藍忘機は暫しの間沈黙した。魏無羨も、突然こんなことを言えば当然藍忘機は訝しむし、今から家に連絡してくれたところで、あの藍忘機の家の人が魏無羨を屋敷に入れてくれるわけがないだろうと半分諦めていた。
しかし、藍忘機はそのまま大きなボストンバッグを取り出すと、机の袖の一番下にある大きな引き出しを開けて何かを詰め始めた。
「ら、藍湛…………?」
「わかった」
「…………」
魏無羨は藍忘機が真剣な表情で頷いてくれたので、とても深刻な事態がこれから巻き起ころうとしているにもかかわらず舞い上がりたいような気分になった。
藍忘機と魏無羨はこっそり門限の過ぎた寮を出ると、大通りでタクシーに乗り込んだ。藍忘機が運転手に告げた場所は、意外なことに魏無羨が知っている藍家の屋敷のある高級住宅街ではなかった。
「なあ、俺たちこのままどこに行くんだ?」
「そう遠くないが、適した場所がある」
十五分もしないうちに二人はタクシーを降り、目立ちはしないがそれなりに良い雰囲気のマンションに入った。エレベーターで五階に上がり、藍忘機はある一室の鍵を開けた。
「お、お邪魔します…………?」
藍忘機は慣れた様子で部屋の電気を点けた。温寧が好例であるが、二人が通う大学は自宅から通うことも認められている。魏無羨が暫くこの家から通うことよりも、藍忘機がわざわざ寮に住んでいることの方が今の魏無羨が思うに不自然な気さえした。藍忘機は中学卒業までは養育している叔父の仕事の都合で江家の近くに住んでいたが、てっきり藍家の本家に戻されたのだと思っていた。ただ、魏無羨が部屋の中を見回すと、どうも藍忘機の趣味とは少し違う雰囲気がある。
「藍湛、この家は高校の時のお前が住んでたのか?」
「母が暮らしていた家だ。今は私が相続していて、私の他には限られた人しか存在を知らない」
「…………」
藍忘機が人の子であることは分かっているが、魏無羨が彼から兄や叔父以外の人物の名前を聞いた記憶はなかったように思った。
「今は私が相続している。ここからなら、君は大学もアルバイトも休まずに済む」
「藍湛! お前、…………あ、ありが」
「その言葉は必要ない」
藍忘機は魏無羨を遮ると、そのまま家の設備を一通り説明して鍵を預けた。
「お前は帰るのか?」
「二人とも無断外泊するわけにはいかない。外泊届を書いて明日顔を出す」
「ああ、そうだな。…………あ、これ渡しておくよ。寮監のお気に入りのタバコだ。これを渡すと門限破りも黙っててもらえる」
「分かった。私はこれを」
藍忘機は魏無羨にパンパンに物が詰め込まれて少々不格好になったボストンバッグを渡した。
「これ……結構重いな?」
「君の当分の間のカップラーメンと酒だ。自炊は好きにしていいから、飲み過ぎや食べ過ぎに気をつけて」
「ハハハ、今日明日でなくなる量じゃないのに随分心配性だな?」
藍忘機はその後寮に戻り、寮監に求められもしないうちにタバコを渡した。
「ら、藍家の御曹司からこのような物を受け取っては、申し開きのしようがありません。今日は何も見ていませんでしたので……」
「いえ、お持ちください。魏無羨を明日から暫く外泊扱いにしてほしいので」
「ハハハハ、も、勿論です」
寮監は藍忘機に丁寧に外泊届の書き方を教えてくれた。藍忘機は一人部屋に戻り、随分長くなってしまった一日にため息をついたが、スマートフォンのアプリで魏無羨に上手くいった旨を伝えると、その後はすぐにいつもの藍忘機に戻り、眠りについた。
翌朝。藍忘機は例によって早朝に目を覚まして規則正しく朝食を摂り、講義の時間まで部屋で自習をしていた。
すると、寮のドアが叩かれる音がした。
「どちらさまでしょうか」
「藍さん、魏無羨に来客ですが彼はいますか?」
藍忘機は昨夜の寮監の恭しい声に対して冷静に「いません」と答えた。しかし、なぜかドアの外が騒がしい。藍忘機が様子を見ようか迷っていたところ、乱暴にドアが開けられた。
「お前! 藍忘機か。どうしてここに? ――まあいい。魏無羨の居場所を言え!」
魏無羨の来客とは、目の前にいる少年・江澄のことだった。どういう訳だか彼は怒っている。そして魏無羨が昨日見かけて匿うよう藍忘機に頼みこんできたのは、ここにいないはずの江澄を目撃したからだろうと察した。
「彼はここにはいない。何か用があるのか?」
藍忘機が尋ねると、江澄は興奮気味のまま言った。
「お前が知る必要はない。いや、……ここで言っておく。――あいつは、育ててくれた恩のある江家を裏切って行方をくらましたんだ!」
(耳環④につづく)