探索に同行すること二回。たった二回だ。だけどそれだけでわかることがいくつかあった。
まず、見た目通りといってもいいが、監察官はかなり鈍臭い。明らかに怪しいものに触れようとするし、買いもしないのに自販機を調べようとしたり、なんというか、無駄な行動が多かった。
他に同行しているクレヨンやメリーティカは、塔の内部に色々な興味を示している。
だがナナシはよくわからないオブジェクトを眺める趣味は持ち合わせていなかった。よくよく見れば0と1が透けているコップや机、壁等々、どことなく薄気味悪い。血塗れの壁や、饐えた臭いが染み付いた部屋を掃除するよりは、幾分かマシではある。だが比較対象がそんなものになる時点でロクな場所ではないことは確かだった。尤も、人間に模したエネミーを倒してストレス解消をさせるだなんて悪趣味極まりない設計の時点で、そんなことはわかりきっていたのだが。
水浸しの床を歩いて、塔の内部を回る。ここは今日初めて探索をする場所だった。水圧で開かないドアを通りすぎて、エンカウントしたエネミーを倒す。メリーティカは燭台を握り締め、クレヨンはちょろちょろと辺りを回っていた。先陣を切る監察官は慎重に歩いている。足首まで浸る水で歩きにくいのだろう。
ふと、一番後ろを歩くナナシの目がきゅうと細められる。視界の先に何か違和感があった。監察官が水を蹴る度に水面が揺れるから、どうにも見辛い。あと10歩も進めばあの辺りの床を踏む。
眉間の皺を深め、ナナシは思案した。
一回ぐらい痛い目を見た方が、迂闊な行動を取らなくなるかもしれない。わざわざ声をかけて注意を促すような、面倒な真似はしたくなかった。
だが、もし何かあった時に尻拭いをするのは誰か? 監察官がいなくなった本部がどうなるか、HANOIたちは皆知っている。
ざぶざぶと、時々足を縺れさせながら歩くコーラルの頼りなげな背中に、ナナシは大きなため息をついた。
あと2歩、というところで、ナナシは軽く息を吸い込み、いつもよりは少し大きめの声を吐き出す。
「ちょっと、監察官」
「……ナナシ? どうしたの? なにかあった?」
あと1歩、というところで監察官は足を止めた。ナナシからの珍しい呼びかけに、監察官はどことなく嬉しそうで、それがまたナナシの勘に触った。
振り返ったのは監察官だけではなく、メリーティカとクレヨンもだった。彼女たちの間を通りすぎたナナシは、呑気な顔をした監察官の前に立つ。彼の後ろにある床に視線を移すと、床からごぽりと気泡が出て、その周辺の水はうっすらと濁った色をしていた。
小さく舌打ちをしたナナシは、監察官に背を向ける。
「……俺の後ろをついてきてください」
「え、あ、うん……?」
さっさと歩きだしたナナシに、監察官は戸惑いながらもついていく。クレヨンとメリーティカには「少し監察官と話してくる」とだけ告げ、二人が視界から消えない、だけど声は届かない場所まで離れた。
振り返ると、監察官は呼び出されたことに対して全く検討もついていないようだった。僅かに不安の色を滲ませて、なにかしてしまったのかな、と申し訳なさそうな顔をしている。
その偽善者の顔、腹が立つんで止めてもらえねェかな。
「あのタグ、今も持ってるでしょう」
「タグ……って、もしかして、特別監視タグのこと?」
「……今日は俺がそのタグを持ちます」
「ど、どうして。特別に監視するようなことなんて、なにもないよ?」
特別監視タグの意味は名前の通りだ。タグをつけられたHANOIは率先して探索を行い、危険があれば監察官に報告する。また、戦闘補正がつくようだったが、監察官は未だにタグをつける決心が湧かないようだった。
彼の軍事用には、本人の意向もあって渡したことがあると耳に挟んだ。自分からではなく、HANOIの進言があったから。
そういう流されやすく、優柔不断なところも、ナナシは心底気に食わない。HANOIは命令を下せば絶対に逆らえないのに。否、逆らえないからこそ、安易に命令を下さないのかもしれない。
腹にずんと重たく、不快なものが溜まる。戸惑う監察官に、ナナシは片方の口角を歪に持ち上げた。
「あのさ……誰が好き好んで監視されたがる馬鹿がいると思います? ハァ……人間様はお気づきじゃないかもしれませんがねェ、足元がお留守になってるんですよ」
「えっ? 足元……?」
「……床」
「……、……あ。そういえば、変な色の床があった……ような……」
ナナシの言葉で記憶を辿った監察官は、ぽつんと言葉を落とした。何気ない、危機感を抱いていない声に、ナナシは鼻で笑う。
「あぁよかった。HANOIにしか認識できない床かと思いました。……他の床と違うこと、わかってたんですね。多分踏んだらロクなことになりませんよ」
「そ、そっか……。ナナシに言われなかったら気づかずに歩いてたよ、ありがとう」
嫌味や嘲りをたっぷりと含んだ言葉に、監察官は頭を下げた。あまつさえお礼まで。
なァ、HANOI風情に頭下げてんじゃねーよ。
ナナシは舌を打ち、監察官へ手を差し出す。
「……また同じことが起きても困るんですよ。だから、特別監視タグは俺が持ちます。鈍臭い奴がリーダーだと下が苦労しますから」
差し出された手に、監察官はきゅっと唇を結ぶ。神妙な顔をして、まさか機嫌でも損ねたかとナナシは眉を潜めた。
「……あァ、すみません。HANOI風情がとんだ口を」
「……いいや、君の言うとおりだ。ごめんね。これじゃあ君たちに迷惑をかけることになる。……うん。じゃあ特別監視タグは……ナナシに持っていてもらおうかな」
監察官は回復アイテムを入れているバッグを開き、ええと、と呟いて、内ポケットから特別監視タグを取り出した。まだ真新しく見えるそれは、水面からの光を受けて鈍く瞬いた。
眉を下げて、監察官がナナシにタグを手渡す。罪悪感を抱いているような、やるせなさそうな表情の意味を、今のナナシは上手く汲み取れない。汲み取るつもりもなかった。
受け取ったナナシはタグをつけて、肌に触れる金属の感触に首枷みたいだなと思った。特別監視と名付けられている以上、あながち間違いではないかもしれない。
「……俺に探索されるのが嫌になったらすぐにお返ししますよ。他の奴らに探索してもらうなり、なんなり……。……といっても、今の面子だと捨て駒にするなら俺が適任だと思いますけどね」
「もう……捨て駒になんてしないよ。僕には君たちを守る責任があるんだから」
困ったように苦笑いをした監察官は、それじゃあ戻ろうかと声をかける。ナナシが無言で先導すると、後ろからざぶざぶと重たい足音を立てながら着いてきた。試しに右側に寄ってみると、監察官もナナシの動きを真似て後ろを着いてくる。アヒルかよ、と思ったが、これなら変な床は踏まずにすむ。クレヨンとメリーティカにも、怪しい床の見た目を教えておかなくてはならない。特にクレヨンは動きが大きいから、うっかり踏んでしまってもおかしくはなかった。
チャリ、と鳴る金属音が耳障りで、ナナシは眉間の皺を深める。身体の調子が確かによくなったことが寧ろ煩わしくなって、首枷のタグを強く握った。