目は口ほどに、穏やかな夜の時間。ジョルジュの部屋で二人、ソファーに腰掛ける。ローランドはこの時間が好きだった。
取り留めもない会話も、ジョルジュにかかればあっという間に花が咲く。ふとした沈黙すら心地好く、少し気恥ずかしくもあった。
なにせ彼は言葉だけではなく、伏し目がちの真っ黒な硝子玉から、雄弁に愛を伝えてくる。優しく、慈愛に満ちた目だ。戦場に身を投じていたローランドにとって、その木漏れ日のような温もりは些か身に余る。だから胸の奥がくすぐったくなって、目を逸らしてしまうのだ。これは戦略的撤退なので、決して敵前逃亡ではない。そもそもジョルジュは敵ではなく、大事な仲間だ。
逸らした視線の先、膝の上でゆるりと組まれた手が視界に入る。彼の手は普段から手入れをしているのか、爪の先まで綺麗に整えられていた。もちろん荒れた箇所などひとつも見当たらない。だからこそ、節くれだった指が余計に目立っていた。
「……意外と、というとおかしいが」
ローランドの言葉に、ジョルジュは静かに耳を傾ける。ふわりと笑む彼の笑顔が眩しくて、顔が緩んでしまいそうだった。それはあまりに情けないと、ローランドは顔を引き締める。力が入りすぎて眉間に皺が寄った。
「いや、なに。お前の手もちゃんと男だったな、と」
「それは、ローランド……Comment ça……どのような意味か……聞いても?」
「あぁ、すまない。俺としたことが、随分と回りくどい言い方をしたな」
言いながら、そっとジョルジュの手に触れる。手の甲を指の腹でなぞると、ローランドよりも滑らかな、人工肌の感触がした。
軍事用の手よりはやや小さいだけで、ジョルジュの手は十分に大きい。何せローランドの頬を簡単に包むことができるのだ。そうされると目が逸らせなくなって、近づいてくる顔に目を閉じて、それで。
思い出し、慌てて振り払う。だけど何となく口寂しくなってジョルジュを見ると、ローランドの言葉をじぃと待っていた。たおやかな、笑顔で。
そして、甘く細められた目が、弧を描く唇が、あんまりにもいとおしげなかたちをして、ローランドへの愛を語っていた。あたたかな、春の日差しのように。
自然と、顔の力が抜ける。ふ、と口元が緩んで、眩しさに目を細めた。
「……ジョルジュは、本当に綺麗な顔をしている」
だから、思わずそんな言葉がこぼれ落ちた。ほとんど無意識だった。
ジョルジュの目がほんの少し見開かれて、ローランドは自分の発言に気づく。何度か視線をさ迷わせた後、結局ジョルジュに焦点を合わせ、触れているだけだった手を軽く握った。
「とにかく、だな!……綺麗、だから。手も女子供みたいな、細い印象があったんだ。まぁ、……。……そんなことはなかったわけだが」
先ほど思い出してしまった記憶もあり、言葉に妙な間が空いてしまった。
ジョルジュはぱちり、ぱちりと瞬きをして、ローランドの言葉を反芻する。ゆっくり、ゆっくりと。意味をひとつひとつ解体していくように。
照れ臭そうに唇を結ぶローランドは、やや落ち着かない様子だった。何事も直球に伝えるローランドだったが、いかんせんこういった感情を抱くことに慣れていない。つまりは仲間の枠組みとは別の、一線を越えた感情を伝えることに関しては、全くもってジョルジュには及ばなかった。故に、彼に愛を伝えることに対しては恥じらいに似たものがあった。
ジョルジュが伝えてくれる愛に報いるだけの言葉を、果たして俺は返せているのだろうか? と。
こくん、とジョルジュがローランドの言葉を飲み込むまでの時間は実に一分にも満たなかった。だがローランドが焦れるには十分な時間だった。
第一、最初はただ「女子供みたいな手に思ってしまうが、男らしく節くれだった手だな!」とか、そういうことを言うつもりだったのだ。こんなつもりではなかった。
くすくすと、控えめな笑い声が溢れる。ジョルジュは握られた手を返してローランドの手をほどく。ローランドは眉を下げてジョルジュを見つめた。
宙ぶらりんになった手が宛てもなくさ迷いそうになったのを、ジョルジュの手が下から掬い、握り直す。一本ずつ指を絡め、確かめるようにぎゅ、ぎゅと繋いだ。
目を丸くしたローランドは、繋がれた手とジョルジュの顔を交互に見る。段々と嬉しさが胸を満たして、ジョルジュに笑いかけた。
しかしその可愛らしいやり取りは、昼間であれば長く続いたのだろうが、今は夜の時間だった。
ジョルジュの長い指は、絡めた指をするすると擽るように往復を繰り返す。初めこそローランドも気にしていなかったが、親指で手の平を優しく引っかかれてからは、なにかおかしいと気づいた。
なんだか、ジョルジュの雰囲気が。
「……あー、その、……ジョルジュ?」
「Qu'est-il arrivé……どうした、ローランド……?」
控えめに声をかけると、ジョルジュはいつも通りの声音で返事をした。だけども指の動きは変わらないものだから、ローランドは戸惑ってしまう。
それに手から、指から、むず痒いものが広がって、でも手をほどくことはしたくなかった。どうしようもなかった。
摩擦熱が生まれるほど、強く擦られているわけではない。時々動きは止まる。その緩急がよくなかったのか、手の平にほんの少し爪先が立てられて、ローランドの身体がひくんと跳ねた。
「ン、」
小さな声が出て、ローランドは羞恥心が込み上がった。じい、と物言いたげな顔で、どことなく楽しげなジョルジュを見つめる。
「……ジョルジュ」
「あぁ、すまない……。Adorable……お前が愛らしくて……触れたくなった」
「それ、は。……男に言う言葉ではないだろう」
温和な声に、思考回路がじんわりと熱をもつ。ローランドの言葉は無愛想ではあったものの、声音はふわふわと浮わついていた。
「……でも、お前にそう言われるのは悪くない。俺もジョルジュみたいな言葉を……もっと言えたらいいんだが」
最後にぽつんと呟かれた言葉には、一匙分の切なさを含んでいた。
そしてジョルジュはそういった機微に鋭い。
繋がれた手が持ち上げられる。互いの目の前にきた手に、ローランドはどうしたんだと眉を上げた。僅かに引かれた手にジョルジュの口元が寄せられる。金の艶やかな髪が重力に従い、ぱらぱらと落ちた。綺麗だな、と当然の感想を抱いてる間にリップ音が鳴る。指先にキスがひとつ落とされたことを一拍遅れて理解したローランドの目元に、うっすらと朱が差した。
唇を離したジョルジュは、ローランドの目を真っ直ぐに見つめる。
──愛が目に見えるものだとしたら、それはきっとジョルジュの姿をしている。
そんなことを思ってしまうぐらいに、一等うつくしい微笑みだった。
「ローランド。言葉で伝えられずとも……お前の目はいつだって……amour……愛に溢れている……」
形のいい唇が紡いだ言葉は、予想していないもので、ローランドは言葉を失った。
──ジョルジュが伝えてくれる愛に報いるだけの言葉を、果たして俺は返せているのだろうか。
そう、思っていた。だけど。なんてことはない。愛を語る言葉を多く持ち合わせていない彼は、十分すぎるほどの愛を、言葉よりも雄弁に伝える術を持っていたのだ。そして、その術を与えたのは間違いなくジョルジュだった。
あぁ、こんなに嬉しいことはない。
ローランドはジョルジュの手を引き、両手でその手を包み込む。込み上がる愛しさに叫びたい気分だった。処理の追い付かない感情が今は心地いい。
青緑の硝子玉が、光を反射して真っ黒な硝子玉を見つめる。
熱をもった色が訴えることの意味が、どうか、伝わっていますように。