二度目の春。 ぼたっ、と騒がしい蝉の大合唱の中で何故かやけに耳についた音につられて右を振り向けば、試験勉強のためしばらく部屋に閉じこもっていた白い頬を大粒の汗が伝い、少し痩けたように見える顎先から滴り落ちた。
ぼたたっ、と今度は続けて地面に染みが作られる。
「亜双義、鉢巻すごい色だぞ」
「……そうか」
限りなく黒に近づいた額の赤を指差せば、滅多にない虚ろな返事。空のラムネ瓶を握った右手はそのままに左手のみで結び目を解こうと悪戦苦闘していた亜双義だが、早々に諦めて額と鉢巻の間に指を入れて取っ払った。
犬か猫みたいに頭を振って雫を飛ばして、どっしりと汗を吸った真っ赤な輪っかを眺めてため息を吐いた。
「……楽になった」
「どんだけ締めつけてたんだよ……」
涼やかさを取り戻した亜双義は瓶を岩の上に置くと、今度は両手を使って結び目を解きはじめた。やはりあの謎の風は亜双義本人から吹いているらしく、両手の鉢巻はだらりと垂れ下がり、あっという間に一本の布切れと化した。茹だるような暑さは簡単な思考力をも奪っていたらしい。
辛うじて木陰に身を寄せてはいるものの碌に風も吹いていない真夏の日中に涼がとれるはずもなく。ラムネも飲み終わったのだから木陰から腰を上げるべきなのだろうけど、ぼくらはただ無意味にシャツを濡らしている。
赤鉢巻のない亜双義なんて何度も見ているはずなのに、その度に新鮮な違和感を覚える。色彩の乏しいその姿は夏の中からひとり切り抜かれたように鮮明だった。
「さっきからなんだ。ずっと見つめて」
「……もう一年経ったんだなって」
去年の夏。弁論大会の決勝で快挙を成し遂げたぼくと低所得者層の老若男女に膝をついた亜双義が出会った季節。あれからしばらくは亜双義は鉢巻を着けていなかった。あの頃から強烈で苛烈な印象を振り撒いていたのに、いまではすっかり、棚引く赤が無いと何か足りない気がしてしまう。
あの日の屈辱を思い出したのか、亜双義は口をムッと曲げた。
「なんなんだ急に」
「いやあ、特に何かあるわけじゃないけど……。去年はさ、お前とこうやってラムネ飲んだりなんてしてなかっただろ」
だからなんだと言われると思ったが、予想に反して亜双義はふむと顎に指をかけて考え始めた。
「そう考えると、貴様と過ごす夏はこれが初めてと言ってもいいのかもしれんな」
そう、なのだろうか。休暇の間、亜双義は部屋でずっと机に齧りついていたものだから、連日追い駆けられていたあの頃の方がずっと顔を合わせていた気さえする。
「じゃあ秋からは二週目ってことになるな」
親友にしばらく会えていなかった事実から目を背けたい気持ちが、そんな馬鹿みたいに当たり前のことをこぼす。ぼくは一体何を言っているのだろうなんて困惑は、隣の親友が喉を鳴らすだけで消え去っていく。
「秋か。去年は校舎裏で芋を焼いて食ったな。今年もやるか?」
「いいな。今度は栗も焼いてみるか」
「問題はどこから調達するかだ。栗拾いに行くのか?」
焼き芋に焼き栗だなんて真夏にそぐわない話題も、盛り上がれば暑さなんて忘れてしまう。にっと頬を持ち上げた親友にぼくもいつもにように口が回り始める。
「そうだ。お前、正月に御挨拶に伺った教授からやたらお土産貰ってなかったか。あの人に……」
「言えるか馬鹿者」
休暇明け、医学部だったか法医学部だったかの教授からそれはもう山盛りのお土産を頂いて帰還した亜双義の元には一瞬で学徒が押し寄せ、東から西まで様々な名店名産の品はたった一日で無くなった。
「主に消費したのは貴様だったと記憶しているが」
冷ややかな眼差しと厳しいお小言が蒸し暑い空気ごとぼくを貫く。京都の老舗だなんだと一平民の身では拝見することも叶わないような高級品が目の前に現れたのだ、出来る限り胃に確保するのは当然だろう。
「御琴羽教授は顔の広い方だからその分貰い物も多い。家人だけでは食べ切れないからとお譲りしてくださったというのに、それを貴様は……」
「いや流石に冗談だって! 本気にするなよ!」
いつものように腰に刀を佩いていたら鯉口を切っていたであろう気迫に慌てて両手を挙げる。でも、敬うようなことを言ってはいるが大量の菓子折りを抱えた亜双義の顔は、親戚と近所から大量の野菜を頂きすぎて困り果てたぼくの父と同じものだった。多分その教授だって「腐らせてしまうよりは」くらいの気持ちで亜双義、というかぼくら学生たちにあげたに違いない。
冷や汗ダラダラ両手はブルブル。本心から弁解するぼくの気持ちが伝わったのか亜双義の緊迫した空気は緩み、吊り上がった目元が和らいだ。
「よほど、菓子折りの味が忘れられなかったようだな」
「そりゃあ、あんなに美味しいお菓子初めて食べたもの。忘れたくても忘れられないよ」
滑らかな舌触りのあんこだとか、口の中でほろほろと崩れる砂糖菓子だとか。思いつくまま羅列される記憶の中の甘味は、亜双義の朗らかな笑い声で遮られた。
「貴様、正月に食べたものをよくもまあそこまで覚えていられるな」
「……褒められている気がしない……」
「褒めてはいないな。感心はしているが」
食べたものなら一生忘れないんじゃないか、なんて揶揄いには流石に口が尖ってしまう。
「いくらなんでもそれは、ない」
「謙遜するな。貴様の食い意地には目を見張るものがあるぞ」
「言われるほど張っているつもりはないのだけれど……」
「今年の花見」
「お前の分の団子食べたの根に持ってるな……」
「一人三本から何故一本奪える」
「亜双義の皿だって気づいてなかったんだよぉ……」
「一人三本と決まっていたのに四本目に手を伸ばす時点でおかしいと思え!」
「うう……ごめんよぉ……」
春とまったく同じやり取りは同じくぼくの平謝りで幕を閉じる。ただ、あの時はこれで許してもらえず次の日に蕎麦を奢ってようやく溜飲を下げてもらったから、今回も亜双義の怒りを鎮めるには何かしらの貢物が必要そうだった。
「じゃあさ、来年の花見ではぼくのお団子あげるから、」
ふと吹いた重たいそよ風のせいで、だから許してくれよと続くはずの言葉は途切れた。
ぬるい風が首筋を撫でる。
「もう来年の話か」
真夏の木陰に亜双義の笑い声が響く。目を細めた亜双義は、ぼくの方を向いていたけれど、ぼくを見てはいなかった。揺れる夏の木漏れ日が、亜双義に影と光をまだらに落とし、そよ風に吹かれるがまま亜双義の頬を撫でる。
「留学試験に受かれば、オレは来年の春には倫敦だ」
微笑む亜双義に、なんて返せばいいのか分からなかった。亜双義が英国留学を強く望んでいることは知っていて、ぼくだってこいつの留学を応援していたのに、亜双義がいなくなるなんてちっとも考えていなかった。
「……そんなすぐに行くんだ。てっきり、一年は先かと……」
「この時代、そんな悠長に構えている暇はないぞ。早ければ年内に発つ」
からからと笑って「受かればだがな」と付け加えはしたが、亜双義自身試験に落ちるなんて考えもしていない声色だった。
無事に試験に合格して、留学の資格を得て。亜双義の言う通り、来年の春には倫敦にいるのだろう。そこにぼくはいない。
「……留学って何年くらいかかるの」
「……さあな。オレの一存で決められることではない」
「そっか……」
亜双義の左手に巻かれた鉢巻の端が揺れている。雲ひとつない快晴では時の流れが曖昧で、ぼくたちがどれだけここにいたのか分からない。でも多分、沈黙はそんなに長くなかったはずだ。
「戻るぞ」
そういって亜双義は木陰からひとり歩き出ていく。ラムネ瓶が陽射しを反射してチラチラと目に刺さる。年内に出国するのなら春だけじゃなくその先の、真夏の下を歩く亜双義も、大粒の汗で鉢巻を濡らす亜双義も、この夏で会えなくなるのだろうか。
「花見にいこう」
振り向く亜双義に翻る鉢巻はない。訝しげに目を細めて何か言いたげに口を開いたが、結局何も言わずに亜双義は俯いた。きゅっと閉された唇は、ぼくに言おうとした言葉を二度とこぼさないだろう。
「十年後でも、何年後でも、いつだっていいからまた花見にいこう」
だからぼくから言わなきゃいけない。亜双義は何にも言わないつもりだから。
「−−本当に」
ぽつりとした呟きはすぐに広い青空に溶け込んで、亜双義の言葉を逃すまいと気を張っていなければ意識の縁にも引っかからなかったかもしれない。
「本当に、いつ帰って来れるか分からないんだ」
英国に行くのだとはっきりしているはずなのに、どこか知らない場所へ行ってしまうような顔をしてそう呟く。そんな顔に見えるのは、ぼくがまだ木陰にいるからなのか。
「じゃあ、花見は倫敦でもいいよ。一本くらい桜があるかもしれないし」
「……倫敦に行く予定は?」
「ないけどさ。これでもぼく、英語学部だし倫敦で観光くらいは出来るよ」
多分。と付け加えると亜双義は小さく吹き出した。肩を揺らして口に手を当てているものだから、どんな顔をしているのかはよく見えなかった。
「英国まで何日かかると思ってるんだ」
「うん、しらない」
「旅費だって、安くないんだぞ」
「頑張って貯めるよ」
「……倫敦に、桜があるわけないだろう」
「探してみるのもいいだろ」
は、と短く息を吐いた亜双義はとうとう黙ってしまった。代わりのように風が吹き始めて、伸び放題の草木を揺らす。揺れた葉先が靴の側面をやけに強く叩いている気がした。亜双義の髪を、シャツを、左手の鉢巻を、ひとつの風が撫でていく。
この距離でも毛先が光を帯びるのが見えるくらいに長い睫毛をぎゅっと瞑って、再び開くと鋼色の瞳がぼくに向く。
「みたらし団子だぞ。貴様が取ったのは」
亜双義は笑っていた。
「忘れるなよ」
木陰から出ると亜双義はいつもと変わらない、胸を張って目を細めて自信にあふれた眩しいくらいの笑みを浮かべていた。さっきの陰った顔なんてまるでなかったように。でも、ぼくは覚えていなくちゃいけない。
「うん」
話は終わりだと言うように亜双義は踵を返して寮への帰路に足を進める。背筋をぴんと伸ばして少し大股で、ゆったりと歩いているように見えるのに気がつくとあっという間に置き去りにされてしまうものだから、ぼくは慌てて追いかけた。
夏の盛りはもう過ぎる頃で、あとは衰えるだけだというのにそんな気配はいまだに感じられない。それでも進み行く先にある春を、ぼくはいつまでも待ち続ける。