電話「ほなね〜!」
元気な簓の声を最後に『白膠木簓』という文字が画面から消える。
メッセージだと返事を忘れがちな俺に痺れを切らした簓が定期的にかけてくるようになったたった数分の業務連絡のようなもの。
その電話を切るのはいつも簓の方だった。
通話はこれでおしまい。普通だったらそうだろう。
だが俺は再び耳にスマホをあて話し始める。
今日あった事、今日食べたもの、一緒に行きたいと思った場所。
話し始めたら終わりがない。
だって簓に話したい事は山ほどあるのだから。
普通に話せばいいだろう。電話でも、実際に会ってでも。
でも話し始めたら歯止めが効かなくなりそうな自分が怖かった。
「じゃあな簓、また」
そう言って誰にも繋がっていないスマホを耳から離す。
誰にも聞かれないのに、誰にも伝わらないのに「好き」という言葉は今日も口に出せなかった。
そういえばいつも電話を切るのは俺の方だった。
そう気づいたのは赤い受話器のボタンを押そうと耳からスマホを放した時。
だからなんだと思いそのまま切ろうと指を動かした瞬間、もし俺がここで電話を切らなかったらどうなるんだろうというちょっとした悪戯心が芽生えてしまった。
切ろうと動かしていた指をそのままミュートボタンへ動かし、ついでにスピーカーに切り替え机の上に置く。
零が切れたらと勘違いすれば私生活も垣間見えるかもしれない。そんな思惑も少し含んでいた。
「まぁ零の方からすぐに切るやろうけど…」
ミュートにしていても電話が繋がっていると思うと何となく小さな声で話してしまうのは何故だろう。
小さな声で呟いた自分に面白くなりながらも零はどんな反応をするだろうとワクワクしながら待つ。
しかし数秒待っても零の方から切りもしないし喋り始めもしない。
「んっ…ふふっ…なんやこれ」
無言の時間が面白くなって思わず笑いが漏れ出る。
そのまま数十秒待っても何も話さない零に我慢できなくなり、机の上に置いていたスマホを手に取りミュートを解除しようと指を動かす。
もう少しで指先が触れる、その時無音だったスマホからカランッと氷が回る音が聞こえてきた。
そういえば今日は電話をかける前から酒を飲んでいると言っていた。
普段一緒に飲んでいる時よりも呂律の回っていない声がなんとなく可愛く思えた事を覚えている。
トプトプとグラスに液体を注ぎ、最後の一滴が落ちる音が聞こえる。そして「無くなっちまった…」と零がボソリと呟いた。
誰に話しかけるでもないその声色に零はまだ電話が切れていないことに本当に気づいていないのではないかという疑惑が簓に生まれる。
盗み聞きするのは悪趣味だと分かりながらどうしても好奇心が抑えられない。
またカランッと氷が回る音が聞こえてくる。
「簓」
突如呼ばれた自身の名前に体が跳ねる。
「びっくりしたぁ…なんややっぱ気づいとるやん」
意地悪なこの男はこちらの思惑なんかお見通しできっとどんな反応をするか楽しんでいるのだろう。
今日の化かし合いはこちらの負けだ、そう思い今度こそ話しかけようとスマホを持ち上げる。
そしてまた指先が触れる寸前、
「ハハッ…もう聞こえてねぇのに馬鹿みてぇ」
「…ぇ?」
自嘲気味に笑いながら『聞こえていない』と言う零の言葉にまだ切れていないことに気づいていないのだと確信する。
聞こえていない、と思いながらなぜ呼びかけたのか。
「まぁ一人で酒飲んでたら寂しなるときもあるし…零もそう思うときやってあるよな」
簓は零の独り言にそう理由をつけた。しかしそうでない事は再び聞こえてきた零の言葉によって否定される。
「聞こえてねぇなら…もう言っても許される、よな?」
普段の零からは想像できないほど弱々しく、もうすぐ泣き出してしまうのではないかとさえ思ってしまうような、そんな声だった。
「簓…簓あのな、」
続けられる独り言を聞いてはいけない、早く切らなければと簓は慌てて手を伸ばす。
きっと繋がっていないと思って言っている事なら聞かれたくない事のはずであるし、何か大切な話ならこんな形で聞いてしまうのは駄目だ。
そう思っていたのに。
「好きだ」
画面から『天谷奴零』の文字が消え何も聞こえなくなった。