リトルスター「おはよう」
聞き覚えのある声が、暁の意識を広大な銀河から駅のホームへと引っ張り戻す。途端、五感に現実が纏わりついた。雑踏、金属の鈍い香り、地下に滞留した人肌と湿気。自分の左手側に立った、明智吾郎。ここ数日間、探し求めていた人物の登場に、暁の脳はじわりと痺れ出した。
「珍しいね。君がホームでも読書なんて」
挨拶を返す前に問い掛けられる。暁は「お」の形で開いた口をさっとつぐみ、ページの間に栞紐を挟んでから本を閉じた。地下通路の鈍いライトを浴び、カバーが光を反射する。描かれた銀河の星々がそのまま輝き出したかのような、そんな表紙を一瞥した明智がタイトルを読み上げる。
「三日前に発売されたばかりの新刊だね。君、SFも読むんだ?」
「……先生、のファンで。ずっと楽しみにしてたやつなんだ」
「そうなんだ。でも、だからって歩き読みするのは止めた方が良いよ」
「えっ……見、てた?」
「あれ、図星だった?」
見られていたのならともかく、言葉でハメられるとは。あとで鞄の中のモルガナからお小言を貰いそうだ。
バツの悪さに思わず、自身の前髪を摘みいじった。指の動きに合わせ、余計にねじれるくせっ毛の感触で気持ちを誤魔化す。
「どれだけ楽しみにしてたんだい? 君にそういう一面があるなんて、なんだか意外だな」
自分の腕の向こうで、肩を揺らして笑う相手の顔がぼやけて見える。小馬鹿にされてる風ではないのだが、その笑みを直視するのもなんだか気恥ずかしい。
あと一分もしない内に、電車がホームに滑り込んでくるだろう。このまま黙りこくって明智をやり過ごしたくもあるが、そういうわけにはいかなかった。
今ここで彼を逃したら、次いつ会えるかわからない。学業だ仕事だと互いに多忙な身だ。連絡先だって知らない。登校前や放課後に訪れる偶然だけが二人を繋ぐ。その僅かな時間の中でしか、伝えたいことも伝えられない。
暁は髪から手を離して、一つのタイトルを呟いた。それを拾った明智は瞬きし、顎に手を当てながら小首を傾げる。一拍おいて、探偵は暁の望む答えを引き当てた。
「その著者の、初期の長編シリーズだね」
「そう。三部作なんだけど、俺その頃から好きで。明智は読んだ事あるか? ない、ないのかっ。ヨシ、いや、なら、一度読んでみてくれ。おすすめだから。新書だから荷物にならないし。本当に、最高で、臨場感やばくて読むの止まらなくなるし、一日で一巻読み終わる本当に。三日で読み終わる。傑作だから。三日だけ、お前の時間をくれ。ぜったい、絶対に損はさせない」
時間が限られているということ、彼が未読勢だということに煽られ、つい捲し立てるようになってしまった。しまったと思った時にはもう遅い。明智は暁の勢いに気圧されたのか、目を丸くして呆けている。
俺のバカと大声で叫んで、その場で崩れ落ちたくなった。前回の反省が活かされていなさすぎる。背中側から、モルガナの溜め息が聞こえた気がした。気のせいじゃないだろう。
前回――SF小説自体は読んだことがあるという真にすすめた際には、ヒートアップしすぎて大いにドン引きさせてしまった。あの真を、だ。それだけひどいのだと自覚したからこそ、気を付けようと思っていたのに。
メディア露出する明智に対してのアピールポイントだってあった。著者はコラムニストでよく雑誌に寄稿しているとか。コメンテーターとしてテレビ出演もしているだとか。共演する可能性がなきにしもあらずなわけだから、話の種にどうとか。明智のことだから、既に知っていそうな情報だけれども。
「本当に好きなんだね」
驚きの表情を浮かべたままの明智に、暁はぎこちなく頷く。バツの悪さが余計に増してしまった。それでも――相手の感情面はともかく――身体があからさまに引き気味でないことが暁にとって救いだった。
『……番線、電車がまいります。ご注意ください』
軽快な音楽と共に、アナウンスが流れ出す。約一分だけの逢瀬も、これで終わりだ。
せめて、最後にこれだけは。
明智に向き直る。ふわりふわりと、色素の薄い髪が風を含んで揺らめいている。ホームを巡る電子音と空気を震わせ伝わってくる走行音に負けぬよう、暁は声を張り上げた。
「俺の、大好きなものだから」
金属の摩擦音が耳をつんざく。その中でも、明智は暁を真っ直ぐに見つめていた。髪が風に嬲られ乱れても、雑音に紛れて埋もれそうな言葉一つを決して聞き逃さぬかのように、一対の瞳で暁を見据えている。
「明智にも知ってほしい」
電車が停止したのと同時に、声が喉奥から溢れ出す。
一瞬の静寂の中、何ものにも邪魔されることなく、それは明智の耳に届いた筈だ。彼は瞳を柔く閉じ、唇に三日月を描いた。あ、と暁の心中は一つの解を悟る。
「君がそこまで言うのなら。機会があれば読んでみることにするよ」
ほら、乗り遅れるけど良いの? そう促された瞬間に無慈悲な発車ベルが鳴り響く。
結局、暁はろくな挨拶を交わせぬまま明智から背を向けることとなった。
電車に揺られ、蒼山一丁目駅で吐き出され、日常ルーティーンの惰性のままに学校へと向かう中、暁は溜め息を吐く。開いた本の文字を一語一語追いながらも、頭の片隅では先程の失敗について反芻してしまう。
「あれ、読まないパターンだよな……」
独り言ではなく、明確な相手に向けて。鞄の布地越しから、モルガナの高い声が聞こえてくる。
「あの調子だとな。しっかしアケチにもって。お前どれだけ見境ないんだよ」
黒猫の顔が見えない時、暁は異世界での姿を頭に浮かべる。やれやれと、腕を組んでやや耳を伏せ、胡乱げに見上げてくる大きな瞳に、暁は即答した。
「いや、人は選んでるつもりだけど」
「お前、この間リュージにもすすめてただろ〜。あいつがこんな字ばっかの本読むと思うのか?」
「竜司ならハマると思うんだよ。ほら、話しただろ。敵側の輝きの騎士が……」
「はいはい」
「モルガナも授業中暇だろ? 電子版買ってあるし、机の中にスマホ入れとくから読んでても良いんだぞ? なあ、モルガナ? モルガナ、聞いてるのか? おーい」
◆
「おーい。お前の言ってた本、テレビでやるぞ」
階下から聞こえてきた男の声に、暁のまどろんでいた脳は一気に覚醒する。
昨日のメメントス探索の疲れを布団の上に置き去り、心地良く温もった部屋着を腕や足首から抜いて放った。無香料のボディシートで顔をさっと拭いて、体裁を最低限整える。
バタバタと階段から駆け下りれば、日曜の昼下がりに穏やかなコーヒータイムを過ごす、ルブランの常連客が二人。目を丸くして、暁の方を振り返っている。
声掛けの張本人でもある惣治郎のいつだって気怠げな目蓋が三度、忙しなく瞬いた。
もう九時だぞから始まり、三十分ごとに暁のみぞおちを肉球でえぐってきたモルガナだけが、カウンター席で身体を横たえて呆れ顔を浮かべている。
「もうちっと静かに降りてこられないかねぇ」
「すみません……」
惣治郎に謝りつつ、テレビの方に目を向ける。携帯会社のキャリア乗り換えキャンペーンのCMが流れていた。どうやら間に合ったらしい。
客のいる手前、カウンター裏の洗い場でこっそり口内を濯ぎ、コップに水を汲んでモルガナの隣に座る。
それとほぼ同じタイミングでCMが明け、女性の明るいナレーションと共に今週のブックナビというパステル色の文字が表示された。
次に映し出されたのは、銀河を散りばめた表紙のハードカバー。暁が登下校中の合間を縫って、読み進めた本だ。学生と怪盗の二重生活のおかげで、なんだかんだ読み終えたのは数日前のことだ。
ナレーションが、著者とデビュー作――暁が大好きなシリーズの紹介、新刊の序盤から中盤までの流れを語る。予想よりも深く、ストーリーに触れてくる。歩き読みしてでも、読み進めて良かった。ここで先の展開を知ってしまったら、新鮮な気持ちで物語を堪能することが出来なかっただろうから。
逆に、詳細なあらすじを知った惣治郎や常連客たちは興味を持ち始めたようだ。
へえ、と顎を擦った惣治郎の姿に、もう一度すすめてみようと決意する。きっと、前回よりも良い反応をもらえる筈だ。なんなら一冊買い足して、ルブランのカウンターの本棚に並べても良いかもしれない。話題作だからと、誰かしらが読んでくれるだろう。
暁がささやかな野望を膨らます中、画面は生中継の番組スタジオへと切り替わる。生成りのソファ席が並ぶリラックスした雰囲気の中、見覚えのある人物が紛れていて、暁は一瞬混乱した。
明智って、こんな番組にも出るのか。いや、ライトでギラつくバラエティ番組にも出るのだから、別におかしいことでもないかもしれない。
『明智くんは、先生の作品って読んだことあります? 探偵王子ということもあって、ミステリー小説とか読んでるイメージが強いですけど』
『確かに、ミステリーを読むことが多いですね。なので、SFはあまり読んだことはなかったんですけど……。先日、知り合いから強くすすめられたこともあって、先生のデビュー作を読みました』
『先程のVTRでも紹介されてましたね〜! 三部作ですけど、三巻ともすべて?』
『はい。知り合いには、一日で一巻読み終わるからなんて言われて。実は半信半疑だったんですけど、本当に一日で読み終わってしまって。まあちょうどオフと重なったこともあるんですけども。あとは、学校や仕事の移動中に少しずつ読み進めて……』
は、と短く吐いた息が暁自身の手のひらを温めた。無意識の内に、手で口元を覆っていたらしい。
数日前に読み終わったばかりだと、テレビの中で明智が微笑む――「結局、読み終わるのに二週間掛かっちゃいました」……。
鼓膜のすぐ裏に心臓があるのかと思う程、鼓動が体内でバクバク鳴り響いている。
脳から溢れ出した熱が胸へと伝わり、胸の奥から手足の末端まですみずみ運ばれ、全身をじわりじわりと心地良い痺れに包み込んでいく。
ああ、ああ、ほんとうに、
「明智、読んでくれたんだ……」
合わせた両の手の中に、小さく小さく、内緒話をするように囁く。
たった一分の、一日の中の極小の点のような時間だけで、彼の二週間を奪うことが出来た。十分すぎる成果だ。
次会った時には何を話そう。いつ会えるのだろう。刹那の時間で何を伏せて、何を明かそう。
レンズの中から見上げた視線と、テレビの中の視線が真っ直ぐに絡み合った。そんな気がした。
『ちなみに噂では、その続編を執筆予定とのことです!』
『わあ、それは楽しみですね!』
2022.11.07