待っている人 夕方六時のメロディチャイムが鳴り響いたので、番台に座る老婆はもう一度壁掛け時計を見上げた。それから外へ続く引き戸の方へと身を乗り出し、気遣わしげに頬をさすってから、
「今日はちょっと遅いわよねえ」
テレビ前のソファに座る青年へと問い掛けた。年季の入った座面に腰を深く深く沈めながら、青年は相槌を打った。椅子に食われぬよう床を踏みしめる足元には、ラムネの空瓶が二本置かれている。手に持った方も、もう飲み干す寸前だ。
朝や昼間から駄弁りに集まる老人たちもようやく引き、通勤帰りの客が訪れるまでの隙間時間。数人の客が浴場で足を伸ばしているものの、待ち合いスペースに老婆と青年以外の影はない。
浴場から響く床を叩く桶の音と微かな喧騒がBGMだったが、それが滑舌の甘いハツラツとした声に切り替わった。その後に続くのは、ヒーローの名前を繰り返し呼んでは鼓舞する歌だ。
「あら、始まっちゃったわ」
テレビと時計を見比べる老婆に、青年は両手の間でラムネ瓶を転がした。ブラウン管の黄みがかった画面から目を離し、引き戸を振り返る。CMが明けるまでの数分間に扉を潜ったのは、近所に住む古希を迎えたばかりの男だった。
「まだ坊主は来てないんか」
「そうなの」
老婆は「ろ」が書かれた下駄箱の木札を男から預かり、代わりに脱衣所の鍵を渡す。
「下が空いてたからよ」
男は続けた。老婆も「は」の札を思い浮かべながら、
「やっぱり遅いわよね」
「ま、来るんが遅い日か……ウチにいれる日なんだろ」
色褪せて藍色となったのれんの向こうに男が消えた後、また待合室は老婆と青年の二人だけとなる。
土曜の夕方、ソファに座る影が一つ。その光景は番頭と夕方の常連客に、歯車が噛み合わないような、パズルのピースが一つだけ欠けてしまったような心地を与える。
テレビの中の世界を、突如現れた巨大怪獣が蹂躙する。それに抗って超常の力を行使する若者の姿を、青年は前のめり気味に見つめる。待ち人は来ぬまま時は進み、物語は一件落着を迎えた。また来週も凶悪な怪獣が出現しては、ヒーローが立ち向かうのだろう。
青年は立ち上がり、番台横の回収ケースへと空き瓶を収めた。老婆が鍵と下駄箱の木札を引き換えるのと同時に、青年は百三十円を細かい傷の走る机上へと置いた。
「あいつの分だ」
「はいはい」
青年から預かった小銭を、老婆はレジではなく小さなプラケースの中に避けておいた。底には小さく折ったメモ帳が敷かれ、「ごろうくん ラムネ代」と鉛筆で記されてある。
青年は茶革の帽子を被りながら去り、老婆はもう一度時計を見上げ、そして机上に重ねてあるA4紙の束に視線を移した。その薬湯の予定表いわく、今日はりんご風呂だった。
22.12.28