自由研究「ここなら、道徳も倫理も問われない。」
「誰にも言えないことをしませんか?」
男の言葉に、すぐには返事ができなかった。ただ、数ヶ月前の出来事がゆっくりと脳裏に再生されていく。
アパートに戻って来て、部屋の前で鞄のポケットから鍵を取り出そうとしたときだった。
島崎が輝気の肩を掴み、荒々しいしぐさで無理やりに振り向かせた。意表を突かれた輝気が抵抗するより先に、胸倉を掴まれるような体勢で男の体と扉の隙間に閉じ込められた。
言葉を発しようと息を吸い込む間に男の親指が輝気の歯列に割り込んだ。ぐいと上を向かされ、そのまま乱暴に唇をこじ開けられる。そこから男の舌が入り込んできた。
口の中を舐め回されて、初めて知る感覚に輝気は目を見開いた。
「ん………っ、」
おずおずと自分の方からも舌を差し出すと、強く吸われて体にびりっとした電気が走った。
吐く息を奪うかのように続けて貪られて、押し付けられた後頭部が痛む。力で拒もうと思えばそうできたはずだが、男の切羽詰まったような求め方が輝気の判断をあいまいにさせた。
体を支えていられなくなった輝気がずるずるとしゃがみ込むまでそれは続いた。
男は立ったままの状態で自分の額を手で押さえている。表情は見えない。
「……島崎……?」
壁に背を着けて座った状態で、輝気は下から男の方を伺った。少しの間沈黙が流れた。輝気が言葉を続けようとした時、
「大丈夫ですか?」
そう言うなり島崎がさっと輝気の前に膝をついた。
「………え?」
輝気はその行動に面食らった。まるで、輝気がひとりでに調子を崩したと言わんばかりの、他人事のような問いかけだった。
「立てますか?」
島崎に手を取られ、背中を支えられながらやっと輝気は体を起こした。手のひらを返したような相手の態度を輝気は訝る。
「……………どういうつもり?」
じろっと睨んでやると、男は軽く首を傾げた。
「すみません、つい。」
しょげたように眉を寄せて男は言い、
「つい、…………じゃないだろ。」
同意もなしにあんな行為をしでかした張本人の振る舞いとはおよそかけ離れている。
「とりあえず、中に入りませんか。」
くるりと輝気の体を裏返して島崎が促す。
「あ、うん。……………」
素直に従うのは本意ではなかったが、突然のことにまだ頭がうまく働かない。とりあえず鍵を開け、室内に踏み入った。
「テルキ。」
ドアが閉まるのと同時に、島崎が背後から腕を回してきた。ぎゅっと腕の中に抱きしめられて、輝気はその場に足を留めた。
「怖かったですか?」
耳元で優しく囁かれて、
「……………別に。ちょっと驚いただけ。」
さっきまでの強硬な態度が嘘のような男の穏やかな言葉に、不覚ながら安堵したことを認めざるを得ない。
「怒ってます?」
「怒らせたいの?」
抱きしめられてふれあった体があたたかい。
「ほんの出来心でして。今回は見逃してもらえませんか。」
「怒ってないよ。………どちらかというと、呆れてるだけ。」
輝気はもうすっかり平静を取り戻していた。
「今度、タピオカおごりますから。」
「だから、別にいいって。」
「二丁目の焼肉の方がいいですか?」
「それで手を打とう。」
二丁目の国道沿いにあるチェーン店の焼肉屋は二人のお気に入りだった。
「良かった。」
島崎がにこっと微笑む。
「じゃあ、来週の同じ時間に。」
さよならの合図のように、ぽんと両肩に手が置かれた。
「うん…………おやすみ。」
輝気は体を返して島崎の懐に抱きつく。
「おやすみなさい。」
島崎は両腕で包み込むようにしてそれに応えた。
「ねえ、テルキ。」
耳元で名前を呼ばれて、輝気は閉じていたまぶたを開く。
「君が思っているよりも、
私は悪い大人ですよ。」
瞬時に体の底から冷えた気がした。
男が声も立てずに破顔し、その気配を空間に刻み込んだまま一瞬にして男の体はその場から消え失せていた。
テレポーター。その力をこうした形で体験するのは初めてではなかったが、男の意味深な言動は輝気の身を凍りつかせて、しばらくの間身動きができなかった。
一年前のあの闘いで、男に一方的に殴られ続けたことを思い出した。その時と似たような、いや、似ているようで似ていない、あの時よりもずっと昏い執着を感じた。
「………………誰にも言えないことって、何?」
輝気はきゅっと拳を握りながら尋ねた。
「知りたいですか?」
目の前の男は微笑を浮かべているように見えるが、その下にどんな思惑が隠れているのか、輝気には見当がつかない。
「……教えてくれるの?」
「君がそう望むなら。」
男はあくまで受け身の態度だ。
「ひとつ、聞いていい?」
「なんでしょうか。」
輝気は一度男から目を逸らし、少しためらった後、再び視線を合わせて言った。
「僕のことが、好きだからするの?」
窓から射し込むぐらぐらと煮立った夕日の光以外は静まり返ったこの部屋に、輝気の声が弱々しく響いた。
「……君はどう思いますか?」
「僕、は…………」
質問で返されて、輝気は後ずさった。
その質問にどう答えるかが、この静寂を壊す引き金になると輝気は知っている。一度手の内を明かしてしまえば、もう後には引けない。屈託のない恋人ごっこには、もう二度と戻れない。
「アンタには、……僕しかいなければいいと思ってる。」
「そうですか。私と同じだ。」
男が今度こそ本当に笑ったと思う。
男は輝気に歩み寄り、その体を抱きしめた。そして囁く。愛しくて堪らないという風に。
「テルキ。君が欲しい。」
これが、僕と島崎との間にある渇望の全てだ。僕たちはそれに抗えない。
あの闘いを経て再会したとき。
「花沢輝気君ですか?」
男が自分を捕獲したあのとき。
「君を探していました。」
男が善良な人間に擬態していたとき。
「ずっと好きだった。」
男の口づけを受け入れて、幸福でさえあったとき。
あのとき既に、ここに至る筋書きは出来上がっていた。